ごみ箱
学校から帰ってきて淹れたコーヒーはもう冷めてしまっていて、飲む気はしないけれどあと少しだけ残っている。夕海が買ってきてくれた、カフェインレスのコーヒーだ。あなたは考え性だから、胃を労わって普通のコーヒーを飲みすぎては良くないわ、と夕海は言っていた。私は有海の方がよっぽど考え性だと思う。
お腹が空いたような気がして冷蔵庫をのぞいたが、コーヒーの粉と、半分残ったコーヒーの粉と、半分残ったマヨネーズ、かびた食パン一枚しか入っていなくて、食べられそうなものは特になかった。一枚だけ残ってしまった食パンは、夕海がフレンチトーストにしてくれるはずのものだった。
今日はもう風呂に入って眠ってしまおうか。私はもう何日も風呂を洗っていない事に気がついた。ここ最近はシャワーを浴びるだけで、浴槽に湯を溜めていない。
こなさなければいけない学校の課題が残っているのに、夕海にだめ、と止められているのに、私は窓を開けて煙草に火を付けた。でも私は知っていた。夕海は私に注意するのが好きなだけで、本当はあまり心配しても、怒ってもいない。頬を膨らませたかわいい顔を私に見せたいだけなのだ。どれだけ私を想っているか示したいだけなのだ。
夕海はもう私の部屋に来ないかもしれない。そう思うだけで、私は泣いてしまう。フレンチトーストになれなかった、かびた食パンのことを考えて泣いてしまう。
「彩月ちゃん、わたし彩月ちゃんのことが好きなんだよ。」
あのとき夕海は泣いていた。私は私よりも七つ年上の夕海が泣いていても驚かなかった。ただ、泣いている夕海を見て悲しい気持ちになった。
夕海は私が通う大学の図書館のスタッフとして働いていた。黒い髪は長く、肌は白い。出会ったのは夏で、図書館の冷房に耐えられない夕海はいつもレースの装飾が施されたカーディガンを着ていた。
美術館で買ったしおりを挟んだまま本を返却してしまい、そのしおりを一緒に探してくれたのが夕海だった。頻繁に図書館を利用していた私は夕海と顔見知りになり、それからすぐに夕海が自分に好意を持っている事に気がついた。夕海は何かと私の世話をしてくれた。大学の近くで一人暮らししている私は、自炊も掃除もほとんどしなかったが、夕海はそれを見かねて(もしくは見かねたふりをして)、私の部屋に入り浸り、料理をしたり、掃除をしたりしてくれるようになった。それから二人でよく映画を見に行ったり
美術館に行ったり、小さな舞台を鑑賞しに行ったりするようになった。
私は夕海と過ごす時間が好きだった。一緒にいると穏やかな気持ちになれた。しかし、夕海はどうだっただろうか。夕海は私に好かれようと必死だった。私はそんな夕海を受け入れることができなかった。だから手を繋いでやることすらできなかった。そのことが悲しかった。
“家にいる?”
メッセージは遼からだった。
“夕飯まだなら一緒に食べよう”
“外に出たくない”
“買っていくよ”
“部屋散らかってるよ”
“買っていくね”
遼は私の彼氏だ。優しく、私を愛してくれている。しかし遼は、彼氏だけれど、私の中では少し前まで好きだった男になってしまった。今はもう前みたいに遼のことを好きだと思えないし、遼に優しくすることもできない。遼も私が別の誰かのことばかりを考えている事に気がついているはずだ。私はその事に後ろめたさを感じて、より一層遼に優しくできなくなってしまっている。
遼はハンバーガーを買ってきてくれた。私はハンバーガーが大好きだ。
私たちは無言でハンバーガーを食べていた。遼の目を見ることができなかった。このハンバーガーを食べ終えたら、私たちはとうとう終わってしまう予感がしていた。もう遼のことを以前みたいに好きではなくなってしまったはずなのに、もう二度と遼と一緒にハンバーガーを食べることができないと思うと悲しかった。私は今日、ずっと悲しいのだ。
「のど渇いたな。」
遼はひとりごとを呟くように言った。
「セットにしてコーラも頼めばよかったかな。」
沈黙を埋めるためのわざとらしい言葉。
セットにすると値段が高くなってしまうから、ハンバーガーを単品でひとつずつ、それからポテトはMサイズをひとつ頼んで二人でわける、飲み物は各自で用意、これが私たちの決まり事だった。
「お茶も出せなくてごめん。」
私は遼の方を見ずに言った。いつも私の冷蔵庫には夕海が作ってくれていたノンカフェインのルイボスティーが入っていた。夕海のことを知らない遼は、夕海が作ったとは知らずにそれを好んで飲んでいた。きっと今日もルイボスティーをあてにしていたのだろう。
「それ飲んでいい?」
遼が指したのは、あとほんの数口分残った冷えたコーヒーだった。
「いいけど、こんなのでいいの?」
私は遼にマグカップを差し出した。遼はゆっくりとそれを飲んだ。淹れてからこんなに時間が経ったコーヒーが美味しいはずがない。そんなコーヒーを飲む遼はみじめで、見ていられなかった。私がもっと優しければと思うと、やはり悲しくなってしまった。
私はハンバーガーを食べ終わり、包装紙をたたんだ。遼はそんな私の手元を見つめていた。普段は大雑把で、それでいて不器用な私が、ハンバーガーの包装紙を綺麗に、丁寧にたたむ姿を見て褒めてくれたことがあった。付き合い始めて二ヶ月目、ハンバーガーを買うときの決まりが出来上がったころのことだ。
私はそのときのことを思い出して、ついに泣き出してしまった。きっと泣きたいのは遼のほうだったのに、私は先に泣き出すというずるい、卑怯なことをした。
「泣かないで、彩月」
遼は私にぐっと近寄って抱きしめてくれた。私の短い髪をすくうようにして頭を撫でてくれた。
私はやはり男を好きになる女で、だから夕海のことをちゃんと好きになることはできなかった。それなのにあんなに素敵な夕海を好きになれなかったという罪悪感が、遼への愛情を消し去ってしまったのだ。
私にはもう誰もいなくなってしまった。
遼が帰ってしまった後の部屋で、私は思い切り泣いた。泣きたいのはきっと夕海で、遼で、私ではないはずなのに、私は一晩中泣いていた。もうこの部屋で生活はできないのではないかと思った。
今私の部屋のごみ箱には、遼と食べたハンバーガーのごみと、夕海がフレンチトーストにしれくれるはずだったかびた食パンが入っている。