夏の夕方

 教授室のある建物の目の前には椿が植っていて、冬ごろになると濃い赤色の花を咲かす。暑い今は深い緑色の葉を茂らせたただの木にみえる。私は夏の椿の木のほうが好きだ。どの植物よりも、黒い絵の具を一滴混ぜたような緑色の力強さ。

 だから一昨日も、教授室に行く前に私はしげしげとこの木を見つめていた。挨拶をするように少し近づき、目線だけで抱擁するように。椿の木も、葉も私を見つめていたと思う。私たちはお互い物静かな友人だ。

 するとその木の細い枝に、緑色のふくらみがあるのを見つけた。動かないので植物のようにも見えるが、しかしそれはなにか生き物であると、同じ生き物としてそう感じた。無論この椿の木も生きている。そうではなくて、何か意思を持っていつでもどこにでも出かけていけるような、私のような生き物。

 葉のような見た目なのは、外敵から身を守るための知恵なのだろうか。私は指先でそれに触れてみたかった。

「サナギだ」

 後ろから声がして、慌てて手を引っ込める。悪いことをしていたわけではないはずなのに、どきりとして振り返ると、そこには長い髪を後ろで雑に結んだ大川くんが立っていた。背が高い大川くんの影は、私とサナギをすっぽり覆った。

「ダメですよ、触っちゃ」

 大川くんは私の引っ込めたまま胸の前で行き場を失った手、その手首を掴んだ。そのまま下におろすと、指先を絡めるように手を繋ぎ、じっと私を見つめた。ここは風通しが良いけれど、八月の日中はたまらなく暑い。首の後ろに汗が垂れるのがわかる。

 大川くんの手はとても大きくて、いつも少し冷たい。それでもやはりずっと繋いでいると手と手の間が熱くなる。絡まった指の間にどちらのものともわからない汗が滲んでいく。大川くんは私の眼鏡の奥の目を直接見ている。私と椿の木がしていたような、目線だけの抱擁。

「行きましょ、遅れちゃう」

 大川くんは、ぱっと手を離し長い足でずんずん歩いて建物の中に入っていった。私はその後に続きながら少しだけ振り返り、椿の木とそれからサナギに「いってきます」と伝えた。風にようやく触れた手のひらと指の隙間は、少し寒いくらいだった。

 私たちはイギリス演劇を研究するゼミに所属していて、いくつかの班に分かれ、分担してリチャード三世の翻訳をしている。既出の翻訳は参考にしてはいけないことになっていて、毎週各班の翻訳を聞きながら、背景知識や技法、それから翻訳について教授から講義がある。

 私は翻訳という作業が好きだった。言葉を丁寧に移す作業であり、しかし辞書さえあればできるということもなく、作品のあれこれをきちんと理解し解釈しなければいけない。より作品のことを知ることができる気がする。作品と自分の対話。翻訳しているうちに、私はリチャード三世にどんどん感情移入している。本当はかわいそうな人なのだ。私が愛してあげられたら。

 大川くんはシェイクスピアの作品それそのものが好きなのだと言っていた。

「たまにいい加減で、ばかばかしいんです。」

 うちの小さなソファの上であぐらをかいていた。長い足をもてあましながら、私が淹れた濃いコーヒーを飲んでいる。濃いコーヒーはゆっくり飲まなければいけないと私は思う。

 今日は私の班が教授室で教授との打ち合わせだった。今作成している翻訳を年度末に冊子にするので、各班の翻訳をブラッシュアップさせるためにこうして日毎にそれぞれの班が教授室に呼ばれている。私は私たちに熱心な、いつもサスペンダーをつけたハンプティダンプティのような見た目の教授が好きだった。



 夏の夜は心許ないと、指先を胸の前で擦り合わせながら寒そうに有野さんは言っていた。たしかにこんな夜は心許ないかもしれないと僕はあの日の彼女に同意する。

 教授室での長い打ち合わせのあと、二年生の大川くんと三年生の有野さんは二人で同じ電車に乗っていった。駅までは僕と他の班員、一年生と三年生の女性の二人も一緒だった。大川くんは「今日こっちなんで」と爽やかに笑って有野さんと同じ電車に乗った。電車は以前聞いた大川くんが住んでいるご実家がある方面とは逆に進み、有野さんが住むアパートがある駅に向かって走っていく。

 茶色い髪を肩の上あたりまで伸ばした一年生の女性と、ところどころにピンク色の毛が混じるロングヘアの三年生の女性は二人がいなくなったあと、「あやしー」と笑い合っていた。僕は口角を少しあげて「はは」と笑い声のようにも聞こえるはずの音を出すのだけで精一杯だった。

 自分の最寄り駅に着いた頃にはもうあたりは暗くなっていた。夏の日は長いが、その分一瞬で暗くなる。しかし夜もまだ暑く、太陽は顔を出していないのに歩いているだけで汗ばんでしまう。

 暑い夏の夜に有野さんは寒そうにしていた。あのときどうしてあげるのが正解だったのだろう。僕は考えても仕方のないことばかりを考える。あの二人は付き合っているのだろうか。

 大川くんがゼミに入ってきて少し経つまで、僕と有野さんは恋愛感情を伴って親しくしていた。少なくとも、僕はそうだった。有野さんの表情は、銀縁の眼鏡の後ろに隠れてわかりづらい。

 二人で映画を見にいったり、食事に行ったり、ただお酒を飲むだけのこともあった。一度視線を落としてから、それから目を合わせて笑う有野さんのことが好きだった。じんわり胸を侵食して、そのうちいっぱいになった。ひがな一日有野さんこのことを考えていた。

 夏の終わり、僕は有野さんとセックスをした。有野さんのアパートへの何度目かの訪問だった。夏はもう終わってもよかったのに、まだそこにとどまる九月のことだった。弱い冷房のかかった部屋は僕には暑かった。暑さと有野さんに頭がのぼせて、正常な判断ができないでいた。それを幸せというのだろうと僕はなかば本気で信じていた。眼鏡を外す細い指も、厚い前髪が左右にはだけてあらわになった形の良い丸いおでこも、そのあと淹れてくれたいつもより薄いコーヒーの味も僕はよく覚えている。

 これが幸せではなかったのだということを僕はあとになって知った。何も変わらなかったのだ。

 夏が終わって、短い秋、それから冬、僕たちは変わらず一緒に時間を過ごしたけれど、有野さんは何も変わらなかった。一定に離れた距離、近づいても常に少しの隙間がある。僕を信頼してくれているようで、寄りかかってはくれない。眼鏡の後ろの目は笑いかけてくれているはずなのに、目が合っていないような感じがする。視線を落としてから目を合わせて笑うのも変わらないが、それは僕だけに向けてするものじゃないのだと気がついたのもそのころだった。僕が有野さんの部屋のベッドで眠る日があるように、他の男がここで眠っている日があることはずっと前から知っていたけれど、それも含めて何も変わらなかった。

 僕はそんな有野さんのことが変わらず好きだった。しかしそれと同時にどこか不気味で怖かった。同じベッドで寝ていても、彼女の真実は何も教えてもらっていないような気がしてすごく遠く離れているように思った。

 きっと有野さんにとってセックスとはそんなに重要なものではないのだろうと思っていた。誰とでも寝てしまう人で、それをなんとも思っていないのだと。

 だから大川くんがゼミに入ってきて、有野さんが僕よりも大川くんと過ごす時間がだんだんと増えていったときに、二人がセックスをしていないと聞いて驚いた。

「俺はしたいなと思ってましたよ」

 俺、奈々さんのこと好きだし、となんの臆面もなく大川くんは付け足す。

「でも奈々さんが、そうしたら他の有象無象とおんなじになっちゃうわよ、って」

 有象無象、僕は小さな声で繰り返す。

 僕は授業中の目配せを思い出す。あれは甘美だった。あの頃はまだ眼鏡の奥の目が僕を好きだと言っていることになんの疑いもなかった。目が合うと、いたずらっぽく笑うまあるい顔。

「でも俺は有象無象にはなりたくないから、いつも終電前に帰るんです」

 大川くんは誇らしげだった。

 今頃二人は何をして過ごしているのだろう。きっと頼りない冷房の風に包まれているだけだろうと僕は結論づけて、足早に帰路に着く。



 サナギの中には蝶がいる。

 そんなことはきっと小学生のころには知っていたけれど、昨日うちで大川くんがそう私に教えてくれたとき、なぜだか初めて知ったかのような反応をしてしまった。

 でもたしかに不思議だ。この中に蝶がいるなんて。

 サナギは私と椿の木の秘密の会合の新参者になった。私はいつも通り挨拶をするように椿の木に近づいたが、忘れずサナギにも視線をやる。三つの生き物による無言の抱擁。

 しかし椿の木は私に挨拶を返してくれているように感じても、サナギからは反応がないように思う。早く出ておいで、私は声に出してつぶやいた。

 サナギの中には朝や夜はあるのだろうか。私はふと考えた。そもそも虫に朝や夜という概念はあるのだろうか。植物にも。私はいつも顔を突き合わせている椿の木のことを何も知らないのだということに気がつく。

 でもそれは私にとって心地の良いことだった。リレーションシップは近すぎても遠すぎてもいけないし、知りすぎてもいけない。それは親でも、友達でも、恋人でも。話すことが何もなくなってしまうし、ミステリアスな方が何にしても魅力的なのだ。誰かがいつ寝て、起きるかなど気にしてはいけない。

「奈々の気持ちには大きな波があるのね」

 透子はうちで濃いブラックコーヒーを飲みながらそう言った。透子は私の知らない部分を勝手に想像して、決めつけのように話す。私はそうされるのが別に嫌いではなかった。

 ただ気持ちに波があるという表現は正確ではないような気がする。朝と夜。そう、私の気持ちには朝と夜があるのだ。ある感情はときに活発になる、そしてときに音も立てずしんとしてしまう。朝起きて、夜眠るように。

 そのときは柳くんだった。背が高くて思慮深く、一緒にいて楽ちんで、私を壊れもののように扱う柳くん。

 映画を見ているときも、映画よりも私に意識を集中させていておかしかった。でも授業中に目が合うと、照れて先に目線を逸らしてしまうのは私の方だった。素晴らしい均衡で、私たちは隣にいることができた。

 いつもの通りまず大切にしたいと思ったので、家にあげた。濃いコーヒーを淹れ、長くうちにいてもらった。料理を作ってあげることもあった。苦手だったけれど、大切にしてあげられているという感触に私は嬉しくなった。

 いつもより長く大切にできたと思うけれど、それでも予感がやってきて、夜が訪れた。大切にしたいという感情はぱたりと音を立てなくなった。

 はじめて同じベッドで眠った日のことだったと思う。私は無意識のうちに、インスタントのコーヒー粉が入っているマグカップにどぼどぼと無遠慮にお湯を入れた。満ち足りた顔をして眠る柳くんが、知らない人の顔に見えた。知らない人になってしまったのは私のほうなのに。

 私は悲しかった。それから夏が終わるまで、それから短い秋、痛々しい冬を私は柳くんと過ごしたが、再び私の感情に朝が訪れる気配はなかった。

「運命の人に奈々はまだ出会ってないのよ」

 透子はたまに少女趣味なことをさらりと言う。

「それから簡単に誰とでも寝ないことね」

 透子は私に何度目かの注意をした。人のこと言えないでしょ、と私は怒ったふりをする。

「性質の問題なの。私は楽しめる性質。あなたはなんにも考えてないでしょ、それが相手にも自分にも不健康だって言っているの」

 透子は小さい子どもに叱るように言う。

 たしかに私は自分のベッドに誰かが入ってくることよりも、ベランダに入られる方がいやだった。ベランダは狭いけれど、レモンの植った鉢を置いている。

 今いるのは大川くんだ。背が高くて大雑把だけれど、私が喜ぶことを熟知している大川くん。

 今度はうまく大切にしてみたかった。長い朝を過ごしたかった。だから彼とは寝ないことにしてみた。

 けれど透子の言ったことは見当違いだったようで、大川くんとの朝がだんだん終わっていく予感がしている。

 日が傾き始めた。オレンジ色の夕日がサナギを照らす。こうして見ると、ほんとうに葉っぱみたいだ。どうして夕方の太陽は強烈な暑さを残さないのに、こんなふうに何もかもを照らすように眩しいのだろう。

 夕方。私に必要なのはやわらかくあたたかい、それでいて強烈な眩しさ放つ夏の夕方のような感情だ。

 サナギが少し動いた気がする。



 古い建物の前に生えている植物に、奈々さんは手を伸ばしていた。触っちゃだめだと言ったのに。

 近づいてみると、奈々さんはひどく悲しそうな顔をしていた。切り揃えられた前髪、染めたことのない胸の辺りでなびく髪。大人っぽい顔つきをしているのに、いつの表情もあどけなくて守ってやらなければいけないとほとんど義務的な感情をこちらに与える。

「いないの、サナギが」

 奈々さんは泣いてしまうのではないかと思った。真白な指先が寒そうに震えている。こんなにも暑いのに。

 俺はそんな奈々さんが痛々しくて、自分の体の中に奈々さんの体を閉じ込めた。この人はどうしてこんなに弱々しいのだろう。

「蝶になったんだよ。このあいだ言ったでしょ、サナギの中には蝶がいるって。きっとどこかに飛んで行ったんだ」

 奈々さんが体をこわばらせているのがわかった。俺は抱きしめる腕に力を込める。大丈夫だよ、と伝えたかった。

「イチジクを買ったよ。一緒に食べよう。コーヒーを淹れてほしいな。」

わざと甘えるような声を出す。奈々さんは俺から離れて、

「濃く淹れようね」

と、かろうじて笑って見せてくれた。

俺はなんとかして「好きだよ、奈々さん」と言ってみた。奈々さんは困った顔で視線を下に向け、それから目を合わせてもう一度笑ってくれた。

夏の夕方のことだった。

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