片思い ー2

 エヴリンはお酒を、特に赤ワインを飲むのが好きで、私たちが食事をするときは決まってエヴリンがワインの美味しいお店を選び、多少遠くてもそこに行く。私は一杯で顔が赤くなってしまうから一緒に長く楽しむことはできないが、私がいた方がいないよりも何倍も、美味しいワインがさらに美味しくなるのだという。
 エヴリンはいつも左手にワイングラスを持ち、右手で私の左手に触れている。そうしてワインを飲む。飲み干すとき、最後のひとくちというとき、エヴリンは私の左手に触れている右手に少し力を込める。私は握り返すべきなのかと思うが、いつもエヴリンが私の手の甲から触れるので、私はされるがままにしている。
「来年の八月にイギリスに一度戻ろうと思うの」
 エヴリンは私の手に触れながら、赤ワインを飲んでいる。今日は神楽坂にある中華料理屋だ。中華料理とワインを一緒に楽しめることに、エヴリンだけでなく私も気持ちを弾ませていた。
「どのくらい?」
 私は残り少ないカシスウーロンを眺めながら聞いた。エヴリンに言わせれば、アルコールが入っているだけで、酒ではないという淡い赤色の酒。
「いられるだけ」
 エヴリンの目が鋭く光った。試されていると思った。
 エヴリンとの恋愛は、私にとって一番難しいと感じる。彼女の手の感触は、沼田くんのそれとはまるで違う。大きさも、柔らかさも、何もかも。エヴリンの手は柔らかく、触れるとしっとりと濡れている。私よりは大きくても、沼田くんよりは小さい。それでいて握っていてくれると、安心してしまう。
 彼女が女性ということも理由のひとつだった。髪は長く、後ろから抱きつくと柔らかい栗色の毛に包まれる。エルメスのカレーシュの匂い。私たちが出会ってから五年間、エヴリンは香水を変えていない。
 背後から抱きしめると、彼女の豊かな胸と温かい腹の間に私の腕はおさまる。首筋に口付けたくて、髪をかき分けると花の匂いがするうなじに出会い、息を吹きかけるとしかめ面の普段からは想像できないようなかわいくて甘やかな声を出すエヴリン。
 骨っぽくて男性の割には細い、それでいて肩幅の広い沼田くんの後ろ姿とはまるで違う。私と彼はついに抱きしめ合うことをしなかったが、何もかもが違うのはわかる。焦がれるように後ろの席から、彼の背中を見つめていた。夏に薄い生地のTシャツが浮き彫りにする、鋭利な肩甲骨。短い髪がかかるうなじに、筋張った手をかける癖。
 エヴリンの中にいる沼田くんが少なくて、だからこそ目の前にいるエヴリンと記憶の中にいる沼田くんの違いがより鮮明になり、何よりも私は沼田くんを感じる。
「いられるだけ」
 私はエヴリンの言葉を繰り返した。勤勉なエヴリンが身につけた、素晴らしく正確な日本語。
 私はエヴリンのテストに落ちたのだと瞬時に分かった。正しい行動を分かっていながら、私はそうしなかった。五年間間違え続けている。もうそろそろ落第しても良いころなのは、私が一番よく分かっている。
「八月に別れましょう、私たち」
 正解を、私は知っているはずなのに。
「エヴ、私は」
 別れたくないの。どうしてもそう言えないのに、そう言いたいことをエヴリンに察してほしかった。
「私はもっとシンプルな恋愛がしたい」
 エヴリンはいつも慎重に言葉を選ぶ。翔太はときどき「千花と普通の恋愛ができれば」と悲しむが、エヴリンが何かに対して「普通」と言ったことは一度もなかった。
 私がイギリスに着いて行けば、私はエヴリンを失わずに済む。五年前に大学院で出会い、それからずっと私を好きでいてくれたエヴリン。あまりにも長く、幸せな時間を共有してきた。あまりにも多くの沼田くんとの違いも、私に教えてくれた。
 八月までどう過ごせば良いというのか。終わりを意識しながら、彼女を今まで通り愛することは可能なのか。
 私はエヴリンが側にいなくても、エルメスのあの花の匂いの香水を覚えている。彼女を失えば。この匂いが私にとっての悲しみになることは分かっていた。
「わがままなのは分かっているけれど、私はその提案を受けることはできない。私はあなたのことを本当に愛しているの」
 心に沼田くんがいるにも関わらず、エヴリンは私の愛しているを五年間信用し続けてくれた。もちろん、それは真実だったのだけれど。
「千花はヒロキに会うべきよ。私と別れるにしても、別れないにしても。あなたの中のヒロキは底をついている。片思いを続けるにしても、しないにしても、一度会うべきだわ。私と比べることで、あなたは新しいヒロキを生み出し続けている」
 私は呼ばない沼田くんの名前。「ヒロキ」だなんて、一度も読んだことがない。会わなくなってしまった今でも、恥ずかしくて呼ぶことができない名前。エヴリンが「ヒロキ」と言うたび、私の思う沼田くんとは別の人なのではないかと思ってしまう。
 いつからエヴリンは私の中の沼田くんについて考えていてくれたのだろう。長い間苦しませてしまっていることは、分かっていた。
 私の手に触れているエヴリンの右手にわずかに力が入る。ワイングラスの中のワインが消えた。
「私はよく考えたよ。千花にももっとよく考えてほしい」
 エヴリンは店の前で私のおでこにキスをした。秋の風が二人の間を吹く。温かい季節を私たちは今年も失った。温かいエヴリンを私は今失おうとしている。

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