アイドル短歌の視点(と主体)の話
アイドル短歌のことを考えるときにやっぱり気になる「視点」の話をします。
例示に使用した短歌はすべて自作です。
「ファン視点」と「アイドル視点」
アイドル短歌を見ていると、ざっくり、ファン視点のものとアイドル視点のものがあるな、と気づくことがあると思います。
①ファン視点の短歌(「わたしたち」寄りの視点)
君のことどれだけ好きか聞こえないようにうちわで隠す心臓
(コンサートで好きなアイドルのうちわを持って立つファンの短歌)
②アイドル視点の短歌(「彼ら」寄りの視点)
対称の軸を挟んで向き合えば思い知る君にはなれないと
(対称の位置に立つからこそ違う存在だとはっきり意識する「シンメ」の短歌)
これらの短歌には無いですが、どちらも題材とした特定のタレント・グループ名を添えて発表されることもあります。
ファン視点のものを特に「オタク短歌(ドルオタ短歌・ジャニオタ短歌)」などと区別して呼ぶこともあるようですが、基本的にはそれらを内包して「アイドル短歌」として扱われているように思います。
しかし、全てのアイドル短歌がどちら視点かに二分されるわけではなくその内訳は混ざり合ってグラデーション状になっていると共に、③どちら視点でもない(第三者視点・「神」視点 その他)や、④視点が明らかでない……ものもあり、一概に「視点」で括るのは適切でないような気もしてきます。
わたしは、アイドル短歌がどこに視点を置くかよりも、その短歌の主体(作中主体)にどのように作者やアイドル(タレント)の存在が作用しているかに興味があります。
※この記事内では「アイドル:アイドル業をする人々の総称・アイドルという概念」「タレント:芸能を生業とする個々の人物」と使い分けています。
短歌における「作中主体=作者」という誤解
「和歌」から「短歌」へと呼び名を変えた近代以降、短歌は長く「一人称の文学」と呼ばれ、「一人称詩」として「作中主体=作者」である読み(解釈)がスタンダードであった時代がありました。しかし短歌に虚構性を持ち込んだ前衛短歌運動から始まった現代短歌以降、その「作中主体=作者である読み」は絶対的なものではなくなっています。現代短歌から入った人は「作中主体=作者とは限らない」「短歌には虚構性がある」ことは肌感覚で理解しているかもしれません。
確認しておきたいのですが、「アイドル短歌にはファン視点の短歌もアイドル視点の短歌もある」のは「作中主体=作者とは限らない」からではないし、「(ファンが)アイドル視点の短歌を詠む」のは「短歌には虚構性がある」からでもない、とわたしは考えています。
①ファン視点の短歌(「わたしたち」寄りの視点)
君のことどれだけ好きか聞こえないようにうちわで隠す心臓
(コンサートで好きなアイドルのうちわを持って立つファンの短歌)
この短歌を作ったのはわたし(作者=鷹野)ですが、この短歌の主体(作中主体)はわたし自身ではありません。
この短歌の中に「コンサートで好きなアイドルを前にして高鳴る心臓を隠すようにうちわを胸の高さに持つわたし」が居るわけではない。「どうしようもなく好きな存在を前にすると生々しい感情を隠して空気や景色のようになってしまいたくなる気持ち」を作中主体に持たせたらこういう短歌になりました。
「気持ち」を作中主体に持たせて短歌に仕上げることに対して作者であるわたしが作用しているだけで、作中の「うちわで心臓を隠」している主体がわたし(作者)であるとは限らないし、なんならわたしであるかどうかは一旦問題になりません。
(「一旦」と表したのは、読みの過程で作中主体と作者の存在を照らし合わせて短歌を読み解いていくことはあり得るからです。)
ここまでくどくど書かなくとも「(ファン視点の短歌だからといって)作中主体=作者とは限らない」なんて分かっているよ、と思われるかもしれませんが、ではアイドル視点の短歌はどうでしょうか。
アイドル視点の短歌は「作中主体=タレント」なのか?
ファン視点の短歌が必ずしも「作中主体=作者自身」ではないように、アイドル視点の短歌もまた、必ずしも「作中主体=タレント自身」ではないとわたしは考えています。
アイドル短歌にタレントの氏名が添えてあって、作中に「僕」などが使用されていると「この短歌はアイドル視点の作品だ」「この短歌の作中主体は○○くんだ」と受け取られやすいかもしれません。
アイドル短歌はさまざまな人によるたくさんの作品がありますので、中には「○○くんならこのように言うだろう」「○○くんの気持ちを想像して詠みました」という作品も存在するとは思います。
わたしがアイドル短歌を詠むときは、その短歌の視点や作中主体がアイドル(寄りの存在)であっても、それが題材とした・名前を添えたタレント自身とイコールであるとは限りません。短歌の「読み」の過程で作中主体と作者の存在を照らし合わせて短歌を読み解いていくことがあるように、アイドル短歌では短歌の中の主体や描かれた景色を「アイドル」と照らし合わせて読み解いてもらいたいと考えながら作品を作っています。
タレント名を添えたアイドル短歌の詠み・読みの具体例
幸せな夢を見ていたオムレツのベッドの上で二度寝三度寝(吉澤閑也)
夢見がちなあなたのためにやわらかい羊だけあつめて数えるよ(川島如恵留)
夕焼に濃く染まる夢抱きしめて抱きしめられて旅をしている(松倉海斗)
一人寝の夢に絶対出てこないあなたも雨を浴びていますか(松田元太)
夢色のたてがみゆらすペガサスにいちごフルーチェこしらえている(七五三掛龍也)
夢に見た星をつかめばちかちかと手のひらめぐる血の燃える音(宮近海斗)
砂糖漬けミント奥歯で噛みしめる 夢でしたキス忘れたいのに(中村海人)
Travis Japanをテーマにした連作です。色の付いた文字はそれぞれメンバーカラーのモチーフになっています。
これらの短歌が「ファン視点」か?「アイドル視点」か?と問われたら、わたしは「どちらでもないしどちらでもいい」と答えます。これらの短歌の主体は誰かというと、とりあえずここに名前を添えているタレント自身ではありません。では添えられたタレント名は短歌と何の関係があるのかというと、(詠み手としての答えはあるものの、一旦)読んだ人にお任せしたい、と考えています。
オムレツの上で二度寝する主体を閑也くんと照らし合わせて鑑賞してもいいし、主体がわたし(作者とかファンとか「こちら」に近い存在)でオムレツが閑也くんのメタファーかもしれない。そこまで具体的じゃなくても「この短歌の雰囲気と景色を七五三掛くんと並べるとなんか可愛くて好き」くらいの気持ちでいいと考えています。「○○くんにはこの花(この色 etc.)が似合う」「青空の下の○○くんの姿が好き」レベルの、「この歌と○○くんを並べるときれい」くらいの距離感が、わたしの中の「アイドル短歌において添えているタレント名の役割」です。
アイドル視点のアイドル短歌は代弁でも創作でも捏造でもない
断言してしまいましたが、あくまで「わたしはこう詠む」という話になります。
アイドル短歌が特定のタレントやグループの名称を添えて発表されるとき、その短歌が「アイドル視点」で描かれていたとして、それが即想像上の創作で、タレントの感情の代弁・捏造だと断罪されるものだとは、わたしは思えないのです。
そもそもわたしはアイドルを「みた人のなかに結ばれた像(≠アイドル業をしているタレント自身とその人格)」のことだと思っているので……アイドル短歌に描かれる「アイドル」はそれをみた人のなかにあるただ一つの「真実」だと思っているので……代弁でも捏造でも創作でも虚構でもないんです。真実なんです。
……というのは詭弁ですが、アイドル短歌の中に描かれる「アイドル」は必ずしも実在のタレントそのものではない。短歌の中の主体や、短歌に描かれた景色がそれぞれの「アイドル」と照らし合わせて鑑賞されるのが「アイドル短歌」だとわたしは考えています。
それはそうとして気を配ることはある
ここまで述べたのは身も蓋もない言い方をすると「『○○くんの短歌』を詠むときわたしは『○○くんを主人公(主体)とした短歌』を作ってるんじゃない、『○○くんのイメソン(イメ短歌)を作っているのよ」と言っていることになるのですが……それはそうとしてやはりタレントの氏名を借りて添えたり、作中に「僕」などを使ったりすると、自分にそのつもりがなくとも「タレントの感情を代弁・捏造している」と思われたり、意図しない読まれ方をする恐れがあります。
具体例は挙げませんが著作権・肖像権・プライバシー権などに関すること、タレントの名誉を毀損する内容になっていないかなどは常に気を配っていたいです。何が良くて何がだめとかルールとして明文化されるような性質のものではなく当然のこととして。
名前を添えるか添えないか
視点・主体が何であるか問わず、アイドル短歌に特定のタレント・グループ名を添えるか添えないかは、作者の判断に依ることになります。
名前が添えられていることで、解釈の幅を狭め、そのタレントを知らないと内容を理解できないということも起こり得ます。
逆に、短歌を読んだ人に例えば「この人のことは知らないけど短歌が素敵だから気になる」という感想をもってもらうこともできます。
もちろん決まりがある訳ではないので、特定の誰かを想って詠んだか否かや、どんな意図でそれを選ぶかに関わらず、アイドル短歌に「名前を添えない」ことも選択肢の一つとしては有りだと思います。
補足と参考
●「主体から見たアイドル短歌」については鷹野の個人ブログにても少し書きました(2020年12月)→ わたしにとってのアイドル短歌の話ージャニーズ短歌WEB歌集 J31Gateの企画を通して(風と鳥と星 - はてなブログ)
●「アイドル短歌とタレントの権利についての考え」は主催企画ジャニーズ短歌WEB歌集J31Gateでも文章にしました(2021年3月)→ 当企画について(J31Gate - note)
脱線しすぎるので省いた話題たち
●二次創作短歌については「主体=題材としたキャラクター自身」とすることも(わたしは)多いので、その点が一番アイドル短歌を詠むときと二次創作短歌を詠むときの違いであるように思う(もちろんそのほかにも違いは色々ある)。
●主催企画J31Gateには「アイドル名欄」があるが、あれは「短歌にタレントの氏名・グループ名を添えられますよ」というだけで、「ファン視点かアイドル視点か」とか「主体がそのタレント自身か」とかは問題にしていない。実際、「(○○くんを想った)ファン視点の短歌」も「アイドル視点の短歌」もどちらも届くし、どちらでもいい・なんでもいいと思っている。(思えばこれは第0回の時点で「どちら視点で詠んだらいいですか」と問い合わせがあり、それからずーっと考えているテーマとも言える)
●短歌において一見「主体=作者」と思っちゃいがちなのって、短歌が31音と短い詩形であり人称を省くことが多いからなのか、国語の授業で「筆者の気持ち」を問われ続けてきたことで「ここに作者の気持ちが書いてある(読み取れる)はず」と思っちゃうからなのか、色々理由はありそう。
●アイドル短歌においては虚構を詠むことよりも事実を詠むことの方が怖いと思うことがある。今適当に作ったものだけど【夢だった東京ドーム立ってまた新しい夢見つけたみたい】という短歌があったとして……例えば「夢だった東京ドームのステージに初めて立った」事実と、想像上の「夢を一つ叶えたらまた新しい夢を見つけた」気持ちをこれだけ素直に並べると結構危ういなというか……これはかなり代弁に近いなというか……(代弁が悪という訳ではないのですが)また逆に「新しい夢を見つけました」が本人談の事実だったとすると【夢だった東京ドーム立ってまた新しい夢見つけたみたい】は……事実すぎるというかそのまんますぎるというか、事実しか書かないんだったら短歌である意味は無く、ライブやインタビューなりドキュメンタリーなりの本人の姿を見るのが早い。「描きたい景色」「言いたいこと」を「どう切り取る」「どう描く」かで文学に仕上げるのが詠み手の仕事だと思う。
●「イメソン(イメ短歌)」の流れで言うと例えば、有名な既存の短歌を自分の好きなアイドルに当てはめて鑑賞して楽しむ「アイドル短歌読み」みたいな遊びもできるなと思う。