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「曽我兄弟の仇討ち」の真相

 「曽我兄弟の仇討ち」は、建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が主催した駿河国富士野(静岡県富士宮市上井出)での「富士の巻狩り」の際、旅館で、兄・曽我十郎祐成(幼名:一万/一満。22歳)と弟・曽我五郎時致(幼名:箱王/筥王。20歳)の兄弟が、父親の仇・工藤祐経を討った事件。
 「赤穂浪士の討ち入り」と「伊賀越えの仇討ち」に並び、「日本三大仇討ち」の1つである。

1.藤原姓工藤氏

工藤祐隆伊東祐家(先妻の子。嫡子。早世)【伊東氏】━河津祐親
    ├狩野茂光(先妻の子)      【狩野氏】━満江御前
    └工藤祐継(後妻の養子)     【工藤氏】━工藤祐経

 工藤祐隆は、藤原南家の流れをくむ工藤氏の6代目で、伊豆国宇佐美荘+伊東荘+河津荘=久須美荘の開発領主である。
 嫡子・伊東祐家が早世すると、工藤祐隆は、伊東荘を伊東祐家の子ではなく、娘の養子・工藤祐継に譲った。嫡養子となった工藤祐継は、伊東祐継と改姓し、伊東祐家の子は「河津」と改姓した。

伊東祐家━河津→伊東祐親 ┬長男:河津祐泰━曽我兄弟
            ├次男:伊東祐清
            ├長女:北条時政室
            ├次女:三浦義澄室
            ├三女:万劫御前(工藤祐経→土肥遠平室)
            └四女:静姫(伊東市の伝承では八重姫)

 伊東祐継が急死する(この時、工藤祐経は9歳)と、伊東祐家の子・河津祐親は、河津荘を長男・河津祐泰に譲り、自分は伊東祐継の伊東荘を横領して伊東祐親と名乗った。
 伊東祐親によって、伊東荘を横領されて名字を工藤に戻した伊東祐継の子・工藤祐経は、伊東祐親によって妻(伊東祐親の娘・万劫御前)と離縁させられ、安元2年(1176年)10月、家臣に伊東祐親を討たせるが、放った矢は伊東祐親に当らず、河津祐泰(31歳)に当たって亡くなった。河津祐泰の子の一満(5歳。「満」は満江御前の「満」?)と筥王(3歳。「筥」は筥根権現の「筥」?)は、母・満江御前(狩野茂光の子とも孫とも)が、曽我荘(神奈川県小田原市曽我谷津)の曽我祐信と再婚したため、「曽我」姓を名乗ることになった。

【参考】伊東祐親の娘は3人
①『曽我物語』では、三浦義澄室、万劫御前、八重姫の3人とする。
②学者は、後妻の3人の娘に、前妻の娘・北条時政室を加えて4人とする。
③『東奥軍記』『和賀一揆次第』では、八重を万劫御前の実名とする。

2.曽我兄弟の仇討ち


 建久4年(1193年)5月28日、源頼朝が駿河国富士野神野(駿河国一宮・富士断本宮浅間神社の原)で行った「富士の巻狩り」の際、旅館で、父親の仇・工藤祐経の居場所を探す兄・曽我十郎祐成は、工藤祐経に見つかり、工藤祐経に「ことの発端は、お前たち兄弟の祖父・伊東祐親による伊東荘の横領である」と説教された。
 その後、兄・曽我十郎祐成は、弟・曽我五郎時致と連れて、工藤祐経の居場所に戻るが、工藤祐経はいなかった。そして、白拍子と添い寝していた工藤祐経を探し出して討ち果たした。その後、騒ぎとなって御家人たちと斬り合い(十番切)、兄・曽我十郎祐成は、豪傑・仁田忠常に討たれ、弟・曽我五郎時致は、女装した怪童・五郎丸によって捕らえられて、処刑された。

3.真相


兄・曽我十郎祐成と弟・曽我五郎時致の兄弟は、
①父親の仇・工藤祐経を討とうとして、討った。(単なる仇討ち)
②源頼朝を討とうとして、工藤祐経も討った。(クーデター説)
③北条時政を討とうとして、工藤祐経も討った。

①曽我兄弟は、工藤祐経を討とうとして寝所へ乗り込むが、いなかった。別の場所で酔い伏し、白拍子(手越宿の少将&黄瀬川宿の亀鶴)と共に床についていた工藤祐経を探し出して討ち果たした。

②手越宿の少将も、黄瀬川宿の亀鶴も、超有名な白拍子で、源頼朝のお気に入りである。この2人と共に寝られるのは、祖父の仇・源頼朝だけのはずであり、源頼朝だと確信して討ち、源範頼を鎌倉殿にしようとしたのだという。
 「曽我兄弟の仇討ち」の奇妙な点は、
・曽我兄弟は、父(河津祐泰)の仇・工藤祐経を討った後、祖父(伊東祐親)の仇・源頼朝も討とうとしたこと
・すぐに鎌倉には「源頼朝が討たれた」と伝わったこと
である。

③曽我兄弟を使って源頼朝を殺そうとした人物に関して、「源範頼黒幕説」と「北条時政黒幕説」とがある。源範頼には「鎌倉殿になりたい」という動機があるが、曽我兄弟との接点がない。北条時政(伊東祐親の娘の夫)には、動機がないが、兄・曽我祐成は家臣であり、弟・筥王の烏帽子親(曽我時致の「時」は北条時政の「時」?)である。(兄・曽我祐成の烏帽子親は、継父・曽我祐信であり、曽我祐成の「祐」は曽我祐信の「祐」である。)
 工藤祐経を討ち果たした後、曽我祐成を討ったのは、北条時政の側近・仁田忠常であることから、曽我兄弟は、工藤祐経を討った後、北条時政を討ちに行ったというが、「北条時政黒幕説」論者に言わせれば、「側近に口封じをさせた」となる。捕らえられた弟・曽我時致が自白しなかったのは、北条時政が烏帽子親であったからであろう。

 さて、『鎌倉殿の13人』で「曽我兄弟の仇討ち」がどう描かれるか楽しみである。


・第22回「義時の生きる道」-曽我兄弟の仇討ち(前編)-(2022/6/  5)
・第23回「狩りと獲物」  -曽我兄弟の仇討ち(後編)-(2022/6/12)

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