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「范可」雅号説

「美江寺(みえじ)観音」(十一面観世音菩薩)として知られる天台宗の大日山観昌院美江寺(岐阜県岐阜市美江寺町)に対し、弘治元年(1555年)12月に、「范可」という人物が、禁制(以下の事を禁じるという箇条書きの文書)を出しています。

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禁制
              美江寺
一、甲乙人等執宿事、附軍勢執陣事
一、寺領祠堂物等之煩、并破先例之寺法事
一、寺領坊領売買之地、諸寄進并新堂地坊之年貢山林寄進之上、及違乱事
一、諸役免許之処、寄事於左右、寺家衆仁無謂、子細申懸事
一、国中徳政法式之儀付而、当寺中可混惣並之旨申族之事
右条々、於違犯輩者速可処罪科之状如件
弘治元年十二月 日      范可(花押)

意味は難しくて分かりませんが(TOT)

一、甲乙人(こうおつにん。一般庶民)等が美江寺を宿として泊まるや、軍隊が美江寺を陣地とする事を禁じる。
一、寺領、祠堂、物等に関する煩(わずらい。揉め事)を禁じる。並びに、先に出されている寺法を破る事を禁じる。
一、寺領、坊領、売買の地といった諸寄進、並びに、新堂地、坊の年貢、山林については、寄進された以上は、違乱(いらん。苦情申立)を禁じる。(最近は寄進主の子孫による違乱が増加中。)
一、諸役・免許の件について、事を左右(そう)に寄せ(あれこれと口実を設けて)、寺側に言わずに訴訟を起こす事を禁じる。(基本的には寺で処理する。)
一、領国内の徳政令、法令については、当寺中に、惣並(そうなみ)に混ぜるべきの旨を申す族(やから。同類の仲間)を禁じる。(徳政令が出ても、当寺については適用外とする。)
以上の条々の違反者は、速かに罰する。以上、件(くだん)の如し。

といったところでしょうか。(多分、間違っていますwww)

徳政令──いいなぁ。出して欲しいなぁ。「令和徳政令」。(出たところで、「借金が0円に」ではなく、返済猶予の「返済猶予法(モラトリアム法)」だろうけどね。

 ──で、「范可」って誰?

答えは、「禁制を出す身分の人」=「弘治元年12月に岐阜(美濃国)を支配していた人」です。寺は、領主が変わると「禁制」を新領主に書いてもらいます(条文は同じで、日付と署名だけが異なります)ので、「弘治元年12月に岐阜(美濃国)の新たな支配者になった人」とも言えます。答えは、斎藤高政です。太田牛一『信長公記』には次のようにあります。

合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしなりけり。是れより後、「新九郎はんか」と名乗る。古事あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者、父の頸を切りて孝なすとなり。今の新九郎義龍は不孝重罪、恥辱となるなり。
                       太田牛一『信長公記』

【現代語訳】 この父と子の戦い「長良川の戦い」は、子・斎藤新九郎高政の勝利に終わった。戦い後の首実検の場に斎藤山城守利政入道道三の首が持ち込まれると、父の首を見て斎藤新九郎高政は悔やんだのか「(父親殺しは)我が身から出た罪である」と言って出家した。そして「斎藤新九郎高政入道范可(はんか)」と名乗った。この由来となった故事はこうだ。昔、唐(中国)に、范可という者がいて、親の首を切った。彼には、父の首を切ることが親孝行になるという事情があったのである。しかし、今回の斎藤新九郎高政は、親不孝の重罪を名前で示して恥辱となった。

『信長公記』のおかげで「范可=斎藤高政(義龍)」だということが分かったのですが、太田牛一は2つの嘘をついています。

①「范可」にまつわる唐の故事は存在しません。ただ、『信長公記』には「唐のはんか」とあり、『大こうさまぐんきのうち』には「たうのはんか」「からのはんか」ではなく、「もろこしのはんか」とあります。「唐土」は「中国」でしょうけど、「中国大陸」ともとれ、「はんか」は中国人ではなく、ベトナム人かもしれません。
②斎藤高政が「范可」と名乗り始めたのは、「長良川の戦い」の前です。

「この『信長公記』の説明では、新九郎義竜が范可と名のったのは、父道三の首を斬らせた弘治二年の四月二十日、道三の戦死直後のことであるという。 しかし、この「范可」という署名のある禁制は、その半年前の弘治元年十二月のものだから、『信長公記』の説明は、年代的に少し間違っているといわねばならぬ。つまり、新九郎義竜は、父道三と決戦を交じえる覚悟をきめると同時に、中国の故事になぞらえ、「范可」と号したことがわかる。」(桑田忠親『斎藤道三』)

①現在の中国文学の研究者が知らない故事を、戦国時代の斎藤高政が知っていて自分の道号としたとは思えません。(『信長公記』の記述は、「斎藤高政は「范可」の故事を知らなかったのか? 「范可」は父を殺して孝行した人の名であり、父を殺した親不孝の人間が名乗る名ではない」とも読めるという。)
②「范可」の署名がある「美江寺禁制」は弘治元年(1555年)12月で、「長良川の戦い」は弘治2年(1556年)4月20日です。

学者の多くは太田牛一『信長公記』を神聖視しており、
①「范可」にまつわる唐の故事は存在する。中国文学研究者の勉強不足。
②「范可」と名乗った時期は間違い。「長良川の戦い」の前に、父・斎藤道三を討つ決心を示したのであろう。
としています。

「太田牛一の『信長公記』によると、義竜は、その父道三を討ち取ってから、中国の故事にもとづいて、「范可」と称したとあるが、義竜の古文書を見ると、すでに親子戦争を決意した当初から、「范可」と署名している。 これは、父を殺害してから、申しわけに「范可」と改名したのではなくて、父を敵とすることを決意したときに、自分を「范可」にたとえ、むしろ、親ごろしとして居直った、と解釈できるのである。」(桑田忠親『斎藤道三』)

「范可というのは昔の中国の人で、父を殺したことから、父殺しと言えば「范可」が代名詞になっていた。道三が義龍の父でなければ、父殺しでもないから范可とも改名しなかっただろう。改名した時はまだ父を殺していないが(実行は四ヶ月後)、父を殺して政権を奪うという闘志に燃えていたことになる。」(横山住雄『斎藤道三と義龍』)

常識的に考えて、「お父さん、あななを殺したいので「范可」と名乗ります」と決意表明(宣戦布告)する?

私が気になるのは、斎藤利政は出家して道三、斎藤高政は出家して范可──なぜ2人同時に出家したかということです。深芳野が亡くなったから?
斎藤利政は、後に出家して「玄龍」と名乗っているので、「范可」は『信長公記』にあるように道号ではなく、「雅号」ではないかと新説(自説)を書いておきます。(明智光秀も雅号「咲庵」名義で西教寺に文書を出しています。)

※「范可」雅号説は聞いたことがないので、新説(自説)とさせていただきました。もし、私より先に言っていた人がいたらごめんなさい。すぐに消します。

桑田忠親は、「はんか」であって、字を当てるなら「范可」か「飯賀」としています。「飯賀」は「はんか」ではなく「いか」だと思います。
私は、雅号「はんか」であり、雅号には風流なものがある反面、滑稽なものもあるので、字を当てるなら「半可」(「未熟者」の意味。「和歌を詠めるけど下手」という謙遜)ですが、これではストレートすぎるので、「范可」と人名っぽくしたのだと考えています。(もしかしたら、土岐頼芸の子として、鷹の絵を描く時の画号かもね。)

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ドキッとしたのは、花押が織田信長に似ていること。
花押は京都の公家さんに考えてもらうそうなので、同じ人に頼んだのかも?

★花押解説(織田信長/明智光秀)
http://www.hanko-concierge.com/290692035

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