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稲荷山鉄剣銘文
(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ?)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ」
(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
「其の児、名はカサヒヨ(カサハラ?)。其の児、名はヲワケの臣。世々、「杖刀人の首」と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵(ワカタケル)の大王の寺、斯鬼宮(シキの宮)に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也」
年代
通説通り471年説をとると、ヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなり21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となっている。 田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした。
オホヒコ
銘文にある「オホヒコ」について、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある。
記された人物の関係について
一般的に、「児〇〇」はその前の人物の子供であることを示しているとされているが、『海部氏系図』が親子関係に拘らず、国造や祝の地位を継承した族長を「児〇〇」と記していることから、鉄剣の銘文に記された人物達は親子関係ではないとする説も存在する。
乎獲居について
乎獲居臣の「杖刀人首」とは「上番先で組織された杖刀人の中での首」ということであり、出身母体の長というわけではない。
1.辛亥年=471年?
辛亥年は
・471年説(獲加多支鹵大王=雄略天皇)
が定説であるが、
・531年説(獲加多支鹵大王=安閑天皇説)
もある。
2.獲加多支鹵(ワカタケル)大王=雄略天皇?
・獲=ワ
・加=カ
・多=タ
・支=ケ、キ、シ
・鹵=ル、ロ
・雄略天皇
・『古事記』では「大長谷若建(ワカタケル)」
・『日本書紀』では「大泊瀬幼武(ワカタケル)」
・在位:安康天皇3年11月13日~雄略天皇23年(479年?)8月7日
・皇居:泊瀬朝倉宮
3.乎獲居
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