![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/102114797/rectangle_large_type_2_4308e6f54711822d44df958a4e8b198b.jpeg?width=1200)
第15回「姉川でどうする!」(予習)
【「姉川の合戦」とは?】
元亀元年6月28日に近江国浅井郡姉川河原(現・滋賀県長浜市野村町~三田町)で、織田信長&徳川家康連合軍と浅井長政&朝倉景健(朝倉義景は、少将と共に一乗谷にいたという)連合軍の間で行われた合戦である。
織田信長は、浅井長政の居城・小谷城を攻めようとしたが、見ただけで堅固な城であることが分かったので、城下に放火した。しかし、浅井長政は小谷城から出てこなかったので、諦めて小谷城の支城・横山城を包囲した。すると、後詰め(救援)に浅井長政&朝倉景健連合軍が来て、姉川を挟んで対峙し、合戦に至った。
【「姉川の合戦」の呼称の変遷】
・織田:不明。野村合戦か?
・徳川:江州合戦→江州姉川合戦→姉川合戦
・浅井:辰鼻(たつがはな)表合戦→野村合戦
・朝倉:三田村合戦(『武家事紀』)
・京都の公家:江州北郡軍(『言継卿記』)
此合戰、淺井及信長方には「野村合戰」と云ひ、朝倉方には「三田村合戰」と云ひ、源君には「姉川合戰」と云ふ也。
https://dl.ndl.go.jp/pid/946585/1/26
【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月 徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日 「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日 「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月 「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月 松平家康、三河国を平定。
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月 織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日 掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月 徳川家康、上洛。
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の合戦」
元亀元年(1570年)9月 徳川家康、居城を岡崎城から浜松城へ移す。
元亀元年(1570年)9月16日~12月17日 「志賀の陣」
【「姉川の合戦」の実際(織田信長の報告書)】
通説では、「織田&徳川連合軍は、浅井&朝倉連合軍の奇襲にあって押されるが、徳川軍榊原隊の側面攻撃から形勢一転し、織田&徳川連合軍が優勢になり、逃げる浅井&朝倉連合軍を追撃したという合戦」とされている。
「奇襲」といっても、織田信長は、既に若狭国の武田信方宛6月6日付書状で、「来廿八日江州至北郡可及行候。就其高島郡可為御動座旨候」(6月28日に合戦になるので、高島(滋賀県高島市)まで出陣するように)と要請している。つまり、合戦期日を浅井&朝倉連合軍とで決めていたことになり、浅井&朝倉連合軍が6月28日に攻めてきたのは「奇襲」とはいえない。ただし、『年代記抄節』に「(浅井&朝倉連合軍が)横山へ後巻き、両手に取出し、押し寄せ、即時に両手一同に切り崩し、信長、大利を得候」とあるように、6月28日の午前10時頃、対峙することなく、突如、合戦に突入したことは確かである。合戦自体は2時(4時間)で終わったという(諸説あり)。
以下は織田信長の細川藤孝取次ぎによる将軍・足利義昭への報告書である。
今日巳時、越前衆并浅井備前守、横山後詰を為し、野村と申す所迄執り出づ。両所備人数、越前衆壱万五千計、浅井衆五、六千も之有るべき歟。
同刻、此の方従(よ)り切り懸け、両口一統に遂に合戦。大利を得候。首之事更に校量を知らず候間、注に及ばず候。野も田畠も死骸計候。誠に天下大慶の為、之に過ぎず候。
小谷之城、攻め崩すべきと雖も、山景之由候間、先相抱候。畢竟落居有るべからず程候。両国共に武篇之一儀を以て、物之数に非ず候。江北之事は、属平均候。
横山楯籠候共、種々詫言申候へ共、討ち果たすべく覚悟に候。可為今明日之間候。則ち佐和山之儀申付、直に上洛致すべく候。此等之趣、御披露有るべく候。恐々謹言。
織田弾正忠
六月廿八日 信長
細川兵部大輔殿
今度岡崎家康出陣。此等手廻之者共、一番合戦之儀論之間、家康、仰せ付けられ候。池田勝三郎、丹羽五郎左衛門、相加へ、越前衆に懸け候而、浅井衆には手廻之者共に、其の外、相加へ、相果て候。何も以て粉骨抽(ぬきん)で候。御察過ぎ候。以上。
【大意】今日の巳の刻(午前10時頃)、越前衆(朝倉軍)と浅井長政軍が、横山城(近江国坂田郡。現・滋賀県長浜市堀部町~石田町)の後詰めとして、「野村」(現・滋賀県長浜市野村町)という所まで進軍してきた。両軍の兵数については、越前衆(朝倉軍)が約15000人で、浅井衆(浅井長政軍)が5000~6000人といったところであろうか。
同時に、こちら側から仕掛け、両軍共に遂に合戦となり、大勝利を得た。討ち取った首の数を推し量ることは出来ず、書き記すことは出来ない(くらい多い)。野原も田畑も死体ばかりである。誠に「天下大慶(たいけい)」のために、このような大量殺人になってしまったが、致し方無い事である。
小谷城(滋賀県長浜市湖北町郡上)を攻め崩そうと思うが、山に囲まれているので(堅固な山城なので)、先ずは包囲した。畢竟、程無く落せるであろう。敵の両国(近江&越前国)共に、武辺だけなら、物の数ではない。江北(近江国北部)の事は、平均(へいぎん。平定)する。
横山城に立て篭もろうともとも、あれこれと詫言(わびごと)を言ってこようとも、討ち果たすつもりである。そうなるのは、今日、明日の内であろう。そして、佐和山城(滋賀県彦根市古沢町)の件を申し付けた後、直(すぐ)に上洛致します。これらの事を、将軍・足利義昭に披露(報告)して下さい。恐れながら謹んで申し上げる。
織田信長
元亀元年(1570年)6月28日
細川藤孝殿
〔追而書(おってがき)〕今度の合戦では、三河国岡崎の徳川家康が出陣した。徳川家康と私の「手廻り(てまわり)の者」たち(馬廻り衆)で、誰が一番備え(一番槍)になるかで議論となり、徳川家康を一番備えとした。池田恒興隊、丹羽長秀隊を援軍として(徳川軍に)加えて越前衆(朝倉軍)を攻撃し、浅井衆(浅井軍)には織田信長の「手廻りの者」たち(馬廻り衆)に、その他の織田軍の兵を加えて討ちはたした。誰もが粉骨砕身頑張った。お察し下さい。以上。
【「姉川の合戦」の史料比較】
(1)『当代記』
十九日。信長、北近江へ進発。小谷町中悉放火。敵、防戦、度々に及ぶ。浅井人数八千之れ有り。此の時、退き口を大事掛けられ、左右に土手を築き、佐々内蔵助、簗田出羽守、中条将監に仰せ付け、各大身の者、殿を為すべき之由、言上すと雖も、承引無く、此の小身之衆殿也。諸手より鉄炮五百挺、信長之弓之衆五十人相添へられ、敵聚相慕之間、度々合戦に及ぶ。異儀無く引き取られ、簗田、少手負、信長、横山城を取り巻かれ、越前より浅井加勢の為、朝倉孫三郎(義景甥。又、聟也)、大将と為して、一万の人数、指し立る。
浅井父子、同六月廿六日、大寄山に陣取る。信長、龍鼻に陣取り給ふ。其の間、五十町也。家康、信長の仰せに依り出馬し給ふ。廿四日に、彼の所に着き給ふ。信長、快悦斜めならず。
廿七日、北敵、野村、三田村え移り、終夜相催し、未明に打ち出で、姉川に於ひて合戦に及ぶ。初め、合戦、信長、家康之方、押し立たれ、左は家康旗本自り押し直す之間、越前衆、敗北。右は信長、幡本へ相合へきところに、稲葉伊予守、よこ鑓に懸け、浅井敗北。
敵、数多、討ち捕らる。茲に越前の侍に真柄十郎左衛門と云ふ者、大力、剛の者、大太刀を以て無類に働き、家康家中・匂坂式部、并息六郎五郎、之れを得。横山城退散之間、木下藤吉、磯丹波に移され、合戦場自り直に佐和山へ移り、相籠る之間、丹羽五郎左衛門、百々か屋敷に指し置かれ、彦根山に川尻与兵衛、北の山に市橋、南山に水野下野守置かる。
信長、家康、上洛有りて、義昭、賀し申さる。
さて、美濃へ相下らる。此の姉川合戦之悦として、信長より家康へ長光の刀を進まる。是を、後、三川長篠の城開運し時、家康より奥平九八郎信昌へ下さる。此の刀は、元は三好下野守の刀、其の後、光源院殿の御物なりしを、信長御手へ入る。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1912983/1/12
(2)『三河物語』
然らば、信長、北之郡え御働き成され候はんと思し召す処に、越前衆は出で、方々に取出を取り、都え之行通りを停(と)めんとて、三万余にて出でければ、信長も急ぎ横山迄御出馬有りて、家康に「早々御加勢を成られて下られ候え。越前衆、罷り出で申し候間、合戦を成すべく由」、仰せ越され候えば、「相心得申す」とて、其の儘御出馬成られけり。信長、殊の外、悦ばせ給ひて、早く御出馬有り。
然らば明日之合戦に相定め申し、一番は柴田、明智、森右近など申し付け候間、「家康は二番合戦を頼み入り申す」と云ひて、毛利信助と両人をもって仰せ越されえば、御返事に「とても御加勢申す故は、何と仰せられ候とも、是非ともに一番合戦を仰せ付けらるべし」と仰せ越され候えば、信長之御返事に「家康之御存分尤も。左様に思し召し成らるべし。然れども、早、備い組を仕りたる事なれば、彼等を一番之やめさする事も、如何に候えば、同は二番之請け取らせられて給い候え。其れ故、一番も二番も同意成り。二番と云ふても、時により一番に成る事も多き物なれば、兎に角に、二番を頼み入り申す」と御返事有りければ、又、押し帰して仰せられけるは、「尤も備い組を御定め之所を、一番を二番えと仰せられ候えを、如何と思し召すところ、尤も承りとどけ申したり。一番も二番も同意と仰せられ候儀、是は承りとどけ申さず。尤も明日之合戦には、二番が一番にも社(こそ)成りもや仕らん。其の儀は時之仕あはせ。たとゑば一番になると申しても、後之世までの書物には、一番は一番、二番は二番と書きしるして、末世まで有るべく候間、兎に角、一番を申し請くるべし。其の故、某が年も寄りたる者ならば、三番、四番に成りとも、仰せられ候処に有るべけれども、『三十に足らざる者が、加勢に参じ、一番を申し請けかねて、二番に有り』と末世迄申し伝へに罷り成るべき事、迷惑仕り候。兎に角に一番合戦を仰せ付けられ候え。然らずんば、明日之合戦には罷り出で間敷く候。然らば、今日、引き払ひて、罷り帰るべく申す」と御返事有りければ、信長、聞こし召して、「家康之仰せられも尤も承る」と、とどけたり。「左程に思ひ召し給はば、愈(いよいよ)悉く存知候。其の儀ならば、一番合戦を頼み入り申す」と仰せられて、明日之御合戦は、家康之一番陣成り。然る処に、各々申し上げけるは、「此れ以前寄り、一番陣を仰せ付けられ、只今、家康え一番陣を成され候えとの御譲り之処、迷惑仕り候と申し上げければ、信長、御腹を立て給ひ、大成る御声を成され、「推参成る悴どもめが。何をしりて云ふぞ」と仰せければ、重ねて音(ね)を出す事ならざれば、家康之一番陣に定まりける。家康之仰せには、「明日、廿八日之合戦に、今日、廿七日に、是え着けて、一番陣を請け取る事、天道之あたへなり」と仰せられ、御喜説(よろこび)かぎり無し。
元亀元年庚午六月廿八日の曙(あけぼの)に押し出で給えば、越前衆も三万余にて押し出ず。信長之一万余、家康之人数三千余にて、互ひに押し出でて、北風南風(おっつまくりつ)、攻めたたかふ処に、家康之御手より切り崩して、追ひ討ちに打ち取り給えば、信長之御手は、旗本近く迄切り立てられ、各々爰はの衆が打たれけれ共、家康之御前が勝ちて、奥へ切り入り給えば、敵も即ち敗軍して、残らず打り取り給ひて、「今日之合戦は、家康之御手柄故、天下之誉ヲ取る」と、信長も御感成り。
信長、其れより此方彼方(ここかしこ)押し詰めさせ給ふならば、近江之儀は申すに及ばず、越前迄も切り取らせ給はんに、惣別、信長は「勝ちて兜之緒を締めよ」とて、其の儘、岐阜へ引き入り給ふ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906666/1/108
(3)江戸幕府公式史書『徳川実紀』
かくて信長は、浅井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば、「さらば、先ず浅井を攻め亡ぼして後、朝倉を誅すべし」とて、また三千余兵を従へて御出陣あり。
五月廿一日、近江の横山の城へはをさへを残し、小谷の城下を放火す。浅井方にも越前の加勢を請へば、朝倉孫三郎景紀を将とし一萬五千余騎、着陣し、六月廿八日、姉川にて戦あり。はじめ、信長は朝倉にむかへば、君には「浅井とたゝかひ給へ」とありしが、暁にいたり、信長、越前勢の大軍なるをみて、俄に軍令を改め、「我は浅井をうつべし。徳川殿には越前勢へむかひたまへ」と申し進らせらる。御家人等、是をきゝ、「只今にいたり御陣替然るべからず」といなむ者多かりしかど、君は「たゞ織田殿の命のままに、大軍のかたにむかはんこそ勇士の本意なれ」と御返答ましまし、俄に陣列をあらため、越前勢にむかひ給ふ。かくて越前の一萬五千余騎、君の御勢にうつてかゝれば、浅井が手のもの八千余騎、織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒・酒井忠次をはじめ、えい声あげてかゝりければ、朝倉勢も力をつくしけれども、遂にかなはず、北國に名をしられたる真柄十郎左衛門など究竟の勇士等あまた討たれたり。浅井方は磯野丹波守秀昌を先手として、織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ、信長の手の者、いよいよ騒ぎ乱れて、旗本もいろめきだちぬ。君、はるかに、この様を御覧ありて、「織田殿の旗色、乱れて見ゆるなり。旗本より備えを崩してかかれ」と下知したまへば、本多平八郎忠勝をはじめ、ものもいはず馬上に鎗を引き堤て、浅井が大軍の中へおめいてかかる。ほこりたる浅井勢も、徳川勢に横をうたれ、防ぎ兼て、しどろになる。織田方、是にいろを直してかへしあはせければ、浅井勢もともに敗走して、小谷の城に逃入ぬ。
信長、「おもひのままに勝軍してけるも、全く徳川殿の武威による所なり」とて、「今日大功不可勝言也。先代無比倫。後世誰争雄。可謂当家家綱紀。武門棟梁也」との感書に添へて、長光の刀、その外、様々の重器を進らせらる。(これを「姉川の戦」とて、御一代大戦の一なり。)
・織田信長書状:徳川軍は池田恒興&丹羽長秀隊を加えて朝倉軍に当たり、織田軍は、馬廻りに池田恒興&丹羽長秀隊以外の軍隊を加えて浅井軍に当たり、大勝利。あたりは死体で埋め尽くされた。
・『当代記』:(6月28日に戦う予定であったが)27日の未明に奇襲され、初めは織田信長も徳川家康も押されたが、左方は徳川家康の旗本が押し返して朝倉軍が敗北し、右方は稲葉一鉄の横槍で浅井軍が敗北した。
・『三河物語』:一番合戦(一番陣)は、徳川家康の要望が通って徳川軍が任された。(「任されなければ帰る」と言われては、任せるほかない。)織田軍は旗本近くまで攻め込まれ(『浅井三代記』には、織田の13段の備えの11段まで破ったとある)、名だたる武将が討たれたが、徳川軍が敵軍の奥まで切り入ったので勝てた。織田信長は、「桶狭間の戦い」の時と同様に、深追いせずに「勝って兜の緒を締めよ」と言って岐阜に帰った。
・『徳川実紀』:徳川軍は浅井軍に当たり、織田軍は朝倉軍に当たる予定であったが、織田信長は、朝倉軍の兵の多さにおじけづき、突然、「徳川軍は朝倉軍に当たり、織田軍は浅井軍に当たれ」と指示した。徳川軍は朝倉軍を破り、織田軍の旗色が悪いのを見て、援軍を送ると形勢逆転し、織田軍は浅井軍を破ることができたと、徳川軍を絶賛する。
★今後の『どうする家康』
・第15回「姉川でどうする!」(4/23) ※15分繰り下げ後8:15開始
・第16回「信玄を怒らせるな」(4/30)
・第17回「三方ヶ原合戦」(5/7)
・第18回「真・三方ヶ原合戦」(5/14)
・第19回「お手付きしてどうする!」(5/21)
・第20回「岡崎クーデター」(5/28)
・第21回「長篠を救え!」(6/4)
・第22回「設楽原の戦い」(6/11)
・第23回「瀬名、覚醒」(6/18)
・第24回「築山へ集え!」(6/25)
※ノベライズ3巻は6月、4巻は9月発行予定です。
いいなと思ったら応援しよう!
![レコの館(やかた)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/111628930/profile_e369c13f2a68cdf0de3357f1d9878105.jpg?width=600&crop=1:1,smart)