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Recoの若君語り ー『逃げ上手の若君』(第1回)「5月22日」ー

時は西暦1333年、武士による日本統治の礎を築いた鎌倉幕府は、
信頼していた幕臣・足利高氏の謀反によって滅亡する。

全てを失い、絶望の淵へと叩き落とされた幕府の正統後継者・北条時行は、
神を名乗る神官・諏訪頼重の手引きで燃え落ちる鎌倉を脱出するのだった…… 。

逃げ落ちてたどり着いた諏訪の地で、
信頼できる仲間と出会い、鎌倉奪還の力を蓄えていく時行。
時代が移ろう大きなうねりを、「戦って」「死ぬ」武士の生き様とは反対に
「逃げて」「生きる」ことで乗り越えていく。

英雄ひしめく乱世で繰り広げられる、
時行の天下を取り戻す鬼ごっこの行方は――

正慶2年/元弘3年(1333年)
5月18日 新田義貞、鎌倉攻撃開始(「鎌倉の戦い」)
5月21日 新田義貞、稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内へ。
5月22日 北条一族&家臣283人、東勝寺で自害(「東勝寺合戦」)
       鎌倉幕府滅亡(北条時行ら3人のみ逃亡)

【今回の話】 鎌倉幕府滅亡(コミックス第1巻 第1話)

https://www.city.ota.gunma.jp/page/4179.html

■「鎌倉の戦い/鎌倉合戦」(5月18日~22日)

 鎌倉は、三方が山、南側が海という難攻不落の地であるが、5月21日、新田義貞が、海神に黄金装飾の宝刀を捧げると、潮が引いて干潟となったので、稲村ヶ崎の波打ち際を通って鎌倉へ突入したという。(史実は「鎌倉七口」の1つである極楽寺坂(極楽寺切通し)の突破だという。)

■「東勝寺合戦」(5月22日)

 鎌倉において激戦が繰り広げられ、追い詰められた北条高塒ら283人(『太平記』では873人)は、菩提寺の1つである東勝寺(神奈川県鎌倉市小町)に集まり、寺に火を放って自害した(東勝寺合戦)。

■『太平記』「高時並一門以下於東勝寺自害事」

去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

 この時、諏訪盛高(『逃げ上手の若君』の諏訪頼重と同一人物)が北条泰時に自害を勧めたが、「北条家再興のために逃げる。北条邦時は五代院宗繁、北条時行を諏訪盛高に託す」と答えた。諏訪盛高は、兄弟の母・二位殿局(にいどののつぼね。新殿局。五代院宗繁の妹。常葉前と同一人物?)の扇ガ谷(おうぎがやつ。神奈川県鎌倉市扇ガ谷)の館へ行き、北条時行に「父・北条高塒が自害する前に会いたいと言っている」と嘘をつき、鎧を身に纏ったまま、まだ5歳の北条時行を背負うと、そのまま諏訪まで逃げたという。

───こうして鎌倉幕府は滅び、生き残った北条氏は泰家、邦時、時行の3人のみとなった。

  北条貞時┳北条高塒┳北条邦時(1325年生まれ)
      ┗北条泰家北条時行(1329年生まれ)

『逃げ上手の若君』では、兄・北条邦時は側室の子であるので、北条時行が嫡男だとしているが、
・北条高塒の正室は、安達時顕の娘であるが、子は生んでいない。
・北条邦時の母は、北条高塒の側室・常葉前(五大院宗繁の妹)である。
・北条時行の母は不明だが、『太平記』には、北条邦時と北条時行の母親は北条高塒の側室・二位局だとする。ということは、常葉前=二位局となる。

 北条邦時の死後、北条時行が嫡男となるが、北条邦時の「邦」は、将軍・守邦親王の「邦」であるので、北条邦時が嫡男であったことが分かる。

「弓の稽古を」と北条時行を追いかけていた武芸指南役の狩野三郎と塩田次郎は討死。
「将来、若君と結婚する」と言っていた摂津親鑑(おやあき)の娘・清子は凌辱された上で殺された。

───このアニメ、悲惨な話を扱っているのに、絵がめちゃ美しい。

 『太平記』では、この東勝寺での北条高塒の自害を以て「鎌倉幕府の滅亡」とするが、普通は、最後の将軍・守邦親王の同日(5月22日)の出家を以て「鎌倉幕府の滅亡」とする。

★文献によって異なる北条相模次郎時行(ときゆき/ときつら)の幼名
・勝長寿丸:『保暦間記』
・勝寿丸:『梅松論』
・長寿丸:『桓武平氏系図』
・亀寿:『太平記』(天正本では「兆寿」)、『太平記絵巻』
・全嘉丸または亀寿丸:『北条系図』
・熊寿丸:『群馬県史』
・桃寿:長坂成行




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