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富士の巻狩り(6/6)「鎌倉に帰還」

「曽我兄弟の仇討ち」について、『鎌倉殿の13人』では、北条義時の
「これは仇討ちを装った謀反ではなく、謀反を装った仇討ちにございます」
という言葉を信じた源頼朝は、
「わしが治めるこの坂東で、謀反など起こるはずがない」
「曽我五郎。おぬしら兄弟の討ち入り、見事であった。稀なる美談として、末代までも語り継ごう」(哀れ(あっぱれ)男子の手本や。これ程の男子は末代にもあるべしとも覚えず。)
と言っていた。

■『曽我物語』
君聞こし召されて、「猛将勇士も、運の尽きぬるは」と仰せられ、双眼より御涙を流させ給ひて、「これ聞き候へ。日来は、更に思はぬ事なれども、今、頼朝に問はれて、当座の構への言葉なり。叶はぬまでも、逃れんとこそ言ふべきに、露ほども命を惜しまぬ者かな。世にありなば、思ひ止まる事もありぬべし。余の侍、千万人よりも、斯様の者をこそ、一人なりとも召し使ひたけれ。無慙の者の心やな。惜しき武士かな」とて、御袖を御顔に押し当てさせ給ひければ、御前祗候の侍ども、心あるもなきも、涙を流さぬはなかりける。(中略。源頼朝は、許そうとしたが、工藤祐経の子が反対したので、死罪にすることにした。)君仰せられけるは、「汝が申すところ、一々に聞き開きぬ。然れば、死罪を宥めて、召し使ふべけれども、傍輩これを嫉み、自今以後、狼藉絶ゆべからず。その上、祐経が類親多ければ、その意趣逃れ難し。しかれば、向後の為に、汝を誅すべし。恨みを残すべからず。母が事をぞ思ひ置くらん、如何にも不便に当たるべし。心安く思へ」とて、御硯を召し寄せ、「曽我の別所二百余町を、彼ら兄弟が追善の為に、頼朝一期、母一期」と自筆に御判を下され、五朗に頂かせ、母が方へぞ送られける。げにや、心の猛さ、情けの深き事、人に勝るるに依り、屍の上の御恩あり難しと感じける。


本当に「曽我兄弟の仇討ち」に乗じて、鎌倉殿・源頼朝に不満を持つ者たちが挙兵しなかったのか? 
本当に「曽我兄弟の仇討ち」は、曽我兄弟の単独犯か?

5月28日 夜、曽我兄弟の仇討ち。
5月29日 源頼朝、弟・曽我五郎時致を自ら尋問する。

5月30日 曽我兄弟の仇討ちが鎌倉に伝わる。
6月 1日  曽我祐成の愛人・虎(大磯の遊女)を呼ぶも、無罪釈放。
6月 3日  曽我祐成の夜討を恐れて逃亡した久慈の領地を没収。
6月 5日  曽我兄弟の仇討ちで、御家人の動きが騒がしくなる。
6月 7日  源頼朝、鎌倉に帰還する。
6月12日 富士野に参上しなかった多気義幹の領地を没収。
8月  2日 源範頼、源頼朝に起請文を送る。
8月10日 当麻太郎、捕縛さる。
8月17日 源範頼は伊豆国へ、当麻太郎は薩摩国へ流罪。
8月18日 源範頼の家臣を捕縛。
8月20日 源範頼に連座した罪で京小次郎を処刑。
8月24日 大庭景能(景義)と岡崎義実が出家。

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)6月3日」条
建久四年六月小三日戊戌。御狩之間、常陸國久慈輩候御共之處、怖祐成等夜討、逐電畢。仍被収公所帶等云々。

(建久4年(1193年)6月3日。巻狩りの間に、常陸国久慈郡の連中がお供していたが、曽我祐成達の夜討ちを怖がって逃げてしまった。それで、領地を没収したという。)

 不思議な話である。
 曽我兄弟の夜襲が怖いのは、工藤祐経だけであるし、その曽我兄弟は、たった2人だけなので、皆で戦えば勝てる相手である。実際、騒動は一晩で終わり、曽我兄弟は亡くなっている。
 逃げただけで領地が没収されるものか?
 領地が没収されるような大事といえば・・・机上の空論であるが、
・常陸国まで逃げて反乱軍に加わった。
・鎌倉まで逃げて「源頼朝が討たれた」とデマを流した。
くらいかと。
 当時の常陸国の状況といえば、

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)6月5日」条
建久四年六月小五日庚子。祐成等狼藉事随聞及、諸人馳參之間、諸國物忩。
 八田右衛門尉知家与多氣太郎義幹者、常陸國大名也。強雖不挿宿意、於國中相互聊爭權勢者也。而知家、依此事、欲參上之刻、内々有奸謀所存、遣如疋夫之男、於義幹之許、「八田右衛門尉、相催軍士、欲討義幹」之由令搆之。仍、義幹搆防戰用意、招聚一族等、楯籠于多氣山城。依之國中騒動。其後、知家又遣雜色男、送義幹云。「於富士野御旅舘、有狼藉之由、風聞之間、只今所參也。可同道」者。義幹答云。「有所存不參」云々。就此使、義幹、弥以廻防禦支度云々。

(祐成たち(曽我兄弟)の狼藉の事を聞き、皆、鎌倉へ馳せ参じたので、諸国が物騒になった。
 八田知家と多気義幹は、常陸国の大名である。強いて宿意を挿している(恨んで敵対している)わけではないが、常陸国の中では、互いに、権勢を争っていた。八田知家が曽我事件により、鎌倉に参上しようと思った時、密かに悪巧みを抱き、下男を装った男を多気義幹の所へ派遣し、「八田知家は軍勢を集めて、多気義幹を討とうとしている」と知らせて、戦の準備をさせた。それで多気義幹は防戦の用意をし、一族を呼び集め、常陸国筑波郡多気(茨城県つくば市北条多気)の多気山城(たきさんじょう。多気城とも)に立て篭もった。こうして常陸国中が大騒ぎになった。その後、八田知家は、下男を使いに出して、多気義幹に「富士野の旅館で、狼藉があったと噂を聞いたので、今から出かける。一緒に参ろう」と伝えたが、多気義幹は、「(領地の横領を心配してか)思うところがあるので参らず」と答えた。この使いが来て、多気義幹は、ますます防備を固めたという。)

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)6月12日」条
建久四年六月小十二日丁未。八田右衛門尉知家、訴申「義幹有野心」之由。聞召驚之、召義幹遣畢。

(建久4年(1193年)6月12日。八田知家は、源頼朝に「多気義幹が野心を持っている」と訴えた。源頼朝は、これを聞いて驚き、多気義幹を呼び出す使いを派遣した。)

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)6月22日」条
建久四年六月小廿二日丁巳。多氣義幹、應召參上之間、爲善信、俊兼等奉行、被召决知家。々々訴申云。「去月祐成狼藉事、今月四日、隨承及欲參上、而雖誘引義幹、々々集一族郎從等、楯籠多氣山城、企反逆」云々。義幹陳謝、其趣不明。但、於搆城郭聚軍士之事者、承伏無所遁。仍、被収公常陸國筑波郡、南郡、北郡等領所、被召預其身於岡邊權守泰綱云々。於所領等者、則、今日賜馬塲小次郎資幹云々。因幡前司廣元奉行之。

(建久4年(1193年)6月22日。多気義幹が呼び出しに応じて参上したので、三善善信、藤原俊兼が奉行となって、八田知家の聴取を行った。八田知家は、「先月、祐成達(曽我兄弟)の狼藉の話を、今月の4日に聞き、参上ようと思い、多気義幹を誘ったが、多気義幹は、一族郎党と多気山城に立て篭もり、謀叛を企てた」と答えた。多気義幹は、陳謝したが意味不明。但し、城郭で戦いの準備をし、軍勢を集めた事は、言い逃れが出来ない状況であった。それで、常陸国筑波郡、南郡、北郡などの領地を没収され、身柄は岡部泰綱に預けられた。所領は、今日、馬場資幹に与えられたという。これらの処理は大江広元が奉行した。)

「曽我兄弟の仇討ち」により、この機に乗じて鎌倉を襲おうと思ったのか、守ろうとしたのか、御家人たちが「いざ鎌倉」と、鎌倉に集結した。このため、主な御家人は「富士の巻狩り」に参加し、国元に残っていた御家人は富士や鎌倉へと参上したので、国元の武士の数が少なくなり、物騒な状態(その気になれば侵攻して領地を奪える状態)となった。

『鎌倉殿の13人』の八田知家は、巻狩りに参加し、「動かぬ鹿」を制作したとするが、『吾妻鏡』の常陸国守護・八田知家は、「曽我兄弟の仇討ち」後に、常陸国から富士野へ行っている。そして、八田知家が策を練って多気義幹を失脚させたこの事件を「建久4年の常陸政変」と称するのであるが、
・鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に八田知家に罠だと書いていいものか?
・罠だと知っているのなら、多気義幹に領地を返し八田知家を逮捕すべき。
それに、多気義幹の領地は、八田知家ではなく、馬場資幹に与えられたのであるから、八田知家には何の得も無い。
━━裏がありそうである。
実は、常陸国久慈郡の御家人の逃亡を怒った源頼朝が、常陸国の御家人の粛正に動き、八田知家と北条時政に策を考えさせたのだとする説がある。また、源範頼謀叛の噂が流れ、源範頼を支持していた常陸国の御家人たちの粛清が意図だとする説もある。

この後、源範頼の粛清、大庭景義と岡崎義実の出家と続く。
このことから、「曽我兄弟の仇討ち」=源頼朝暗殺未遂事件論者によれば、黒幕は、
・源範頼
・源範頼を担いだ大庭景義(永井路子。『草燃える』では伊東祐之)
・源範頼を担いだ岡崎義実(三谷幸喜『鎌倉殿の13人』)
だとする。

とはいえ、「北条時政黒幕説」が根強い。
『誹風柳多留』にも、
  烏帽子親 ぢいの敵も討てよいふ
  烏帽子親 そが一件に口をとじ
  狸寝入りは北条の狩屋なり
とある。


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