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弥生時代から古墳時代への変化の理由は、大陸人の流入だぁ!!


 なぜ弥生時代が終わり、古墳時代という新しい時代に変わったかというと、大陸から多くの人が日本に来たからです。
 弥生時代の人は、縄文人(原日本人)と渡来人(渡来系弥生人)の混血です。現在の日本人は、この縄文人の血と、弥生人の血は半分以下で、半分以上は「古墳人」の血です。
 古墳人とは、大陸からやって来た人で、日本を弥生時代から古墳時代へ変えました。この「古墳人」の血は、多くの血が混じっているそうで、正体不明です。私は、以前は、古墳人=高麗人と考えていましたが、今は「日本から大陸の各地へ逃げ、日本に帰ってきた人」と考えています。
 日本から逃げた理由として机上で考えられるのは、
①「倭国大乱」の戦禍を避けるため
②火山の大噴火で住めなくなったため
であり、状況が落ちついたところで、日本に帰ってきた。その時には、大陸で見つけた配偶者と子供(混血)を連れて帰ってきた結果、現在、「古墳人」と呼ばれるのではないかと。もちろん、大陸では新技術を学んできたので、時代が弥生時代から古墳時代に変わってしまった。

 『魏志倭人伝』の記述によれば、「倭国大乱が起きたが、卑弥呼が女王になると収まった」とあります。

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。

その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。鬼道につかえ、よく衆を惑わせる。年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する。宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する。

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 卑弥呼に仕える侍女が1000人いたというのは驚きですが、多分、国策。余ってる女性を餓死させないために雇い入れたのでしょう。

 『魏志倭人伝』には、こうもあります。

其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。

風習では、国の身分の高い者はみな四、五人の妻を持ち、身分の低い者もあるいは二、三人の妻を持つ。

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──身分が低くても、複数の妻を持つのはなぜか?

 三毛猫のオスと同じで、もてるからですね。「倭国大乱」で男が死んでしまい、国内にいるのは、ほとんどが女だったのでしょう。それで複数の妻を持てたし、女王は、それでも余っている女性を雇ったのでしょう。(徳川家康が、遠江国に侵攻した時の「堀川城の戦い」(当時の史料では「気賀一揆」)と呼ばれる大虐殺で、気賀とその周辺の村々の成人男性がいなくなったのと同じです。)

 卑弥呼の墓は、『魏志倭人伝』には、次のようにあります。

卑彌呼以死。大作冢、徑百餘歩。狥葬者奴碑百餘人。

卑弥呼の死によって大いに塚が作られた。径は百余歩、殉死した奴婢は百余人。

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 この「塚」が「古墳」であり、時代は古墳時代へと移行する。

 卑弥呼の墓は箸墓古墳(はしはかこふん)だと考えられています。この古墳については、『日本書紀』に次のようにあります。

「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。(昼は)大坂山の石を運んでつくった。山から墓に至るまで人々が列をなして並び手渡しをして運んだ。時の人は歌った。大坂に 継ぎ登れる 石むらを 手ごしに越さば 越しかてむかも」

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──この夜だけ作業した神ってどなた?

 役の行者が、葛城山の一言主神に「久米の石橋」を造れと命じた時、夜だけ作業したという話を思い出しました。


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