柳田国男『山島民譚集』馬蹄石「磨墨と馬蹄硯」
「馬蹄石(ばていせき)」とは、石の表面に、馬が踏んだような窪みがある盆石である。床の間に観賞用として置かれるほか、窪みを海として利用した硯もある。
普通の石を馬蹄石のように加工した偽物もある。本物であれば、20万円の価値はあるという。
※「馬蹄石のルーツは?」
https://ameblo.jp/izunoumi/entry-12628462109.html
巨岩に窪みがある場合、そこに溜まった水を塗ると疣が取れるとか、子供に踏ませると丈夫に育つとは聞いているけど、「硯水」は、安倍清明、源義経、徳川家康の井戸しか知らない。
「磨墨の首の骨」とは、馬の頭蓋骨です。山間部では、魔除けとして狼の頭蓋骨を柱に掛けますが、馬の頭蓋骨は初耳です。駒留杉、鞍掛松、駒繫桜の類は、名将の一旦の記念に托言するものであり、「磨墨の首の骨」とは無関係でしょう。「小笠郡相草村のとある岡の崖に僅かなる橫穴を掘り、馬の髑髏を、一箇の石塔と共に其中に安置してある」は、墓であって、「鎌倉の矢倉に似ている」とされますが、どうでしょう? 山ノ神の洞窟には鹿の頭蓋骨がたくさんありますが、この馬の頭蓋骨は、馬頭観音の代替品では?
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源平合戦の語部(かたりべ)が、磨墨と云ふ駿馬をして、天下に有名ならしめたるは、亦、誠に深き用意の存するものありしに似たり。此命名は、察する所、単に毛の色の黒かりし為めと云ふのみに非ず。東上総の硯(すずり)村(注:磨墨の生誕地という千葉県夷隅郡大原町の硯地区。旧・上総国夷隅郡蘇々利村)の口碑が之れを想像せしむる如く、石上に印したる馬蹄の跡を以て、硯に譬ふること、常の習ひなりしが故に、乃ち、此に思ひ寄せたりしものなり。「太夫黒を一に薄墨と称す」とあるも、同じく此因縁無しとは言ひ難し。何となれば、「此馬、出でたり」と称する房州太夫崎の海岸には、亦、多くの馬蹄石を産するなり。即ち、巨岩の表面に跡の存するものとは別に、此は馬蹄の形を打込みたる石の小片にして、世人、之を採りて、硯に製する者、少なからずと云ふ〔千葉県古事志〕。蓋し、其一端の深く凹める部分を硯の海とするときは、多分の工作を加へずして、之を円き硯に用ゐ得べければなり。日向の鵜戸浜(うどのはま)にも馬蹄石を出す。土地の人は之を自然硯と称す〔雲根志後篇〕。土佐の国産にも、亦、馬蹄石あり。前年、之を墺太利(オーストリー)の博覧会に出品せしことあり〔南路志続編稿草二十三〕。甲州の駒ヶ岳にも、所謂、陰陽石を多く産す。其陰石の一種に、同じ形をせし物を、又、馬蹄石とも云へり〔雲根志後篇〕。駿河の安倍川の溪より、馬足石と云ふ硯石を産せしは、古き世よりの事なり〔渡辺幸庵対話〕。同じ川の支流藁科(わらしな)川の附近にも、往々にして小さき馬蹄石を出す。「或は片面、或は両面、恰も馬蹄を以て踏むが如く、色、黒くして、甚だ堅き美石なり。之を割れば、石中は、殘らず金星なり」〔雲根志後篇〕。之を硯として、願ひ事を書けば、成就すと云ふ俗信ありき〔駿国雜志〕。蓋し、必ずしも斯る奇形の自然石を以て製せずとも、円き硯ならば、形、似たるが故に、之に「馬蹄」と銘を打つは、有り得べきことなり。唯其硯に何かの奇特を付会せんとするに至りしは、やはり亦、神馬の崇敬に基(もとゐ)するものと認めざるべからず。大和当麻寺の什物の中に、小松内大臣が法然上人に寄進したりと云ふ「松蔭の硯」は、硯箱の蓋に「馬蹄」と書して野馬の絵を蒔きたり。硯の形の似たるが故に「馬蹄」とは名づけしならんと云へり〔其角甲戌紀行〕。鎌倉鶴岡の八幡宮にも、之と同樣の馬蹄硯あり〔集古十種〕。又、別に源頼朝所持の品と称し、上に雲と片破月とを彫刻したるものあり〔同上〕。天長元年の銘文あるにも拘らず、何故か人は之れを「池月磨墨の硯」と名づけたり。秩父吾野(あがの)の子権現社(注:埼玉県飯能市南)の神宝にも一つの馬蹄石ありしが〔新編武蔵風土記稿〕、此は硯に用ゐられたりしや、否やを知らず。
大なる磐石の上の窪み、通例、称して「神馬の足跡」とするものの中に、若し、絶えず一泓の水を湛ふる処あれば、人は、又、之を「硯の水」と名づけて尊敬したりしこと、其例、甚だ多し。昔の田舍者は、本書の著者の如く徒書(むだがき)の趣味は解し居らざりし故に、硯と言へば、経文とか証文とか、いづれ、重要なる物を認むべき道具と考へたりしなり。之と霊馬の足跡とが結合すれば、一通りや二通りの有難さに非ざりしは、勿論の話なり。從ひて、磨墨と云ふ馬が、其の名よりも実よりも万人の仰ぐべきものとなり得たりしは想像し易きことにて、「斯る名を選定したる昔の誰かは、智者なり」と謂ふべし。石見那賀郡石見村大字長沢(注:島根県浜田市長沢町)には、馬蹄の形に似たる石を神体とする社ありき〔石見外記〕。「石見国は硯に似たり、竹生島は笙の如し」(注:「石」「見」を合成すると「硯」、「笙」の解字は「竹」「生」)などと云ふ古諺もあれば、此も硯の水の信仰と多少の因縁ありしかと思はる。駿河安倍郡大里村大字川辺(注:静岡県静岡市葵区川辺町)の駒形神社(注:静岡県静岡市葵区駒形通)の御正体も亦、一箇の馬蹄石なり〔駿国雑志〕。此は多分、安倍川の流より拾ひ上げし物にて、元は亦、磨墨の昔の話を伝へ居たりしならん。此地方に於て、磨墨を追慕することは、極めて顯著なる風習にして、此村にも、彼村にも、其遺跡、充満す。前に挙げたりし多くの馬蹄石の外に、安倍川の西岸鞠子宿に近き泉谷村(注:静岡県静岡市駿河区丸子泉ヶ谷)の熊谷氏にては、「磨墨の首の骨」と云ふ物を、数百年の間、家の柱に引掛けたり。其為に、此家には永く火災無く、且つ、病馬、悍馬を曳き来りて、暫く其柱に繫ぎ置くときは、必ず其の病又は癖を直し得べしと信ぜられたり〔同上〕。之に由りて思ふに、諸国に例多き駒留杉、鞍掛松、駒繫桜の類は、恐くは皆、此柱と、其性質、目的を同じくするものにして、之を古名将の一旦の記念に托言するがごときは、此の素朴なる治療法が忘却せられて後の話なるべし。陸中紫波郡東長岡ノ字美々鳥(注:岩手県紫波郡紫波町東長岡耳取)稲垣氏の邸内なる老松(注:「駒松」とも「美々鳥の松」とも)は、昔、此家の先祖、山に入りて草を刈るに、其馬、狂ふとき、之を此木に繫げば、必ず静止するにより、之を「奇なり」として、其庭に移植すと云へり〔大日本老樹名木誌〕。此説、頗る古意を掬するに足れり。更に一段の推測を加ふれば、此種の霊木は、亦、馬の霊の寄る所にして、古人は之を表示する為に、馬頭を以て、其梢に揭げ置きしものには非ざるか。前年、自分は遠州の相良(注:静岡県牧之原市相良)より堀之内の停車場(注:JR菊川駅)に向ふ道にて、小笠郡相草村(注:菊川市南東部)のとある岡の崖に僅かなる橫穴を掘り、馬の髑髏を、一箇の石塔と共に其中に安置してあるを見しことあり。それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の図」とを比較するに、後者が之を柱に懸くる為に耳の穴に縄を通してある外は些しも異なる点無く、深く民間の風習に古今の変遷少なきことを感じたる次第なり。羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして馬の頭骨を立て置くものあり〔東京人類学会雑誌第百八号〕。百五、六十年前の江戸人の覚書に、羽前の芹沢と云ふ山村(注:山形県長井市芦沢)を、夜分に通行せし時、路傍の林のはづれに、顏の長く、白く、眼の極めて大なる物の立つを見て、「化物か」と驚きて、更によく検すれば、竹の尖(さき)に馬の髑髏を插み、古薦(ふるごも)を纏はせたる山田の案山子なりし事を記せり〔寓意草下〕。此も只の鳥威(とりをど)しならんには斯る手数をも掛くまじければ、何か信仰上の目的ありしものと考へらるゝなり。今些し古き処にては、摂州多田郷の普明寺(注:兵庫県宝塚市波豆字向井山)の什物に馬頭あり。多田満仲、曽つて竜女の為に大蛇を退治し、其礼として名馬を贈らる。満信の代に、此の馬、死し、之を塚に埋む。文明二年の頃に至り、馬塚に、每夜、光明を放つ。和尚、之れを礼すれば、馬首、出現す。之を金堂に納めて竜馬神とすと云へり〔和漢三才図会七十四〕。「馬首出現」とのみありては漠然たる不思議なれど、実は寺僧が塚を発(あば)きて頭骨を得来りしなり。「村民、駒塚山頂の光物を怖れて戸を出ること能はざりしに、之を金堂に鎮祭して、其妖、熄む」と見えたり〔摂陽群談三〕。思ふに、死馬の骨を重んずるの風、今人(きんじん)は、古人の如くならざりしが故に、終に信ずべからざる馬鬼の説を起し、或は南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を説き、さては、豊後直入郡朽網(くだみ)郷の嵯峨天皇社(注:大分県竹田市久住町仏原(ぶつばる)。明治4年(1871年)、宮処野神社(みやこのじんじゃ)に改名)に、神馬、黒嶽山に入りて鬼と為ることを伝ふるが如き〔太宰管内志〕。寧ろ、国内の馬蹄遺跡をして其真を誤らしむるの傾き、無しとせず。古伯楽道の名誉の為、返す返すも、悲しみ、且つ、歎ずべきことなり。
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