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第23回「瀬名、覚醒」(復習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月   徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日   大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正3年(1575年)12月24日 二俣城、開城
天正3年(1575年)12月27日 水野信元、誅殺。享年不明(50代前半?)。
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正4年(1576年)3月     五徳、長女・登久姫を生む。
天正5年(1577年)7月     五徳、次女・熊(国)姫を生む。
天正6年(1578年)3月     徳川家康、西郷局と結婚
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正7年(1579年)4月7日  西郷局、長松(長丸、徳川秀忠)を生む。
天正7年(1579年)8月29日   築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日   松平信康、自害す。享年21。
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、自害(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
慶長3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長5年(1600年)9月15日  徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設
元和2年(1616年)4月17日  徳川家康、死没。享年75。


■水野信元誅殺事件

 「武田と内通している」という佐久間信盛、もしくは明智光秀(妻・妻木煕子の母親は水野信元の姪)の讒言で、岡崎で誅殺された。
 なぜ岐阜ではなく、岡崎で誅殺されたのか不明であるが、『どうする家康』では、織田信長が岡崎へ送り、「徳川家康の忠誠心を試す踏み絵」「築山殿の裏切りを五徳の密告状で知り、裏切るとこうなると見せ付けた」と処理した。上手いと思った。ただ、史実は、「水野信元は徳川家康に助けてもらおうと、岡崎に逃げた」(岐阜へ行ったのは使者であって、本人は行っていないので、岐阜では斬れず、潜伏先の岡崎で徳川家康に斬らせた)のではないかと思う。


■於愛(西郷局)

 於愛(1552-1589)の父は戸塚五郎太夫忠春、母は東三河西郷氏の西郷種員(正勝)の娘・於貞である。
 戸塚氏は、横地氏の分家・勝間田氏の分家で、本貫地は遠江国榛原郡勝間田庄戸塚(静岡県榛原郡吉田町)である。戸塚忠春と徳川家康は共に今川義元の家臣であり、大森城主・戸塚忠春が、「大森の戦い」で戦死したと聞くと、悲しんだ徳川家康が戒名(天龍寺「家康鉈彫位牌」)を彫る程の関係であった。
 三河西郷氏の本貫地は、肥前国高来郡西郷で、仁木義長が三河国守護に任じられると、守護代に就任して岡崎城を建てたが、松平氏に西三河の岡崎から追いだされ、東三河の西郷谷を本拠地としていた。

 徳川家康は、「田中城攻め」の帰路、掛塚の於愛の母・於貞の再婚相手・服部正尚(「神君伊賀越え」で活躍して蓑笠之助)の家に寄った時に於愛を見初めたという。また、於愛の母・於貞が、徳川家康の側室・西郡局の侍女として浜松城にいて、西郡局が於貞の娘・於愛を気に入って徳川家康に紹介したともいう。
 於愛は東三河西郷氏の西郷清員(母の兄)の養女となって、徳川家康と結婚し、「西郷局」と名乗った。

 なお、戸塚忠春の姪(妹の娘)・於国(徳川頼宣の乳母)が書いた寛永16年(1639年)12月16日付「先祖覚」には、於愛と徳川家康と結婚の時、戸塚忠春は生きており、故郷の遠江国佐野郡上西郷村(静岡県掛川市上西郷)に徳川家康が建ててくれた「構江屋敷」に住んだとある。

■減慶(げんけい)/滅慶(めっけい)

 最近の築山殿は生け花ばかりしている。徳川家康に薬の製法を教えたからか、薬は作っていない。

 さて、築山殿の主治医には、
・甲斐国の唐人(もろこしびと)の医師・元慶説
・蒲原宿の鍼医師・元慶説
があるが、どちらも減慶(滅慶/滅敬)と同一人物であろう。

 『どうする家康』の松平信康は、鷹狩りの時に出会った僧を斬ったとした。「坊主」といえば、今でも釣りでは「全く釣れないこと」の意であるように、当時、鷹狩りの時に坊主に出会うと獲物がとれないと考えられていたようである。
 松平信康を描いた『反逆児』では、松平信康は武田と繋がっていないが、築山殿は繋がろうとしていたとし、鷹狩りの時に出会った減慶を「武田の間者め。母に近づくな」として殺害した。周囲の人は、医師であるが、着ていた服から僧に見えたので、「僧を殺した」と広めたとした。

 『どうする家康』では、滅慶を「滅敬」とし、その正体を穴山信君だとした。これは『鎌倉殿の13人』で、泉親衡の正体を源仲章としたような手法である。面白いが登場が遅い。以前書いたように、「岡崎クーデター」を密告したのは山田八蔵ではなく、穴山信君だと書いてある古文書もあるので、登場は「岡崎クーデター」の前がよかった。滅敬は名医で、築山殿との出会いは、築山殿の体調不良だとされる。
 逆に登場が早いのが於愛である。今は天正4年であるが、徳川家康と於愛との結婚は天正6年である。正しい時系列では次回登場のはず。
──なぜ1回(2年)早いのか?
多分、築山殿が胸に秘めてきた決意を実行するにあたっては、心配事が複数あり、その一つが徳川家康のこと。でも於愛という優しい側室が出来たので、「徳川家康に関しては憂い無し」として、決意を実行する決心をしたという流れなのだろう。私なら時系列にそって登場は次回にする。今回は、主人公・徳川家康が水野信元の件で、実母・於大の方に怒られる話と、築山殿に慰められる話を入れる。築山殿は「この人は、私がいないと駄目ね」と思うが、次回、於愛が登場して、「もう安心。これで計画を実行できる」と決意するという流れにする。タイトルは、今回が「水野信元死す」で、次回が「築山殿の決意」。(「瀬名」「五徳」って、結婚して子供もいるのに、なぜ幼名のまま?)


 さて、サブタイトルの「瀬名、覚醒」は「瀬名の決意」の意味だと思われるが、それはどんな「決意」なんだろう? 次回が楽しみである。


★今後の『どうする家康』

・第24回(前半終了)「築山へ集え!」(6/25)
・第25回(後半開始)「築山事件、信康事件」(7/2)
・第26回「武田氏滅亡」(7/9)
・第27回「安土城で明智光秀が接待」(7/16)
・第28回「本能寺の変」(7/23)
・第29回「神君伊賀越え」(7/30)
・第30回「賤ヶ岳の戦い」(8/6)
・第31回「豊臣秀吉との確執」(8/13)
・第32回「小牧・長久手の戦い」(8/20)
・第33回「於義丸を豊臣秀吉の人質(養子)に」(8/27)
・第34回「石川数正出奔」(9/3)
・第35回「
・第36回「
・第37回「
・第38回「
・第39回「
・第40回「
・第41回「
・第42回「
・第43回「
・第44回「
・第45回「
・第46回「
・第47回「
・第48回(最終回)「

※大河ドラマガイド「どうする家康 後編」は5月31日に発売されました。※ノベライズ3巻は7月25日、4巻は9月発行予定です。


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