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慈円(前大僧正慈鎮)著『愚管抄』が伝える「牧氏の変/牧氏事件」

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https://www.metmuseum.org/art/collection/search/53197

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                     後鳥羽上皇画「慈円僧正」

 北条時政は、若い妻を迎えて、多くの子供を儲けた。この妻は、藤原宗親の娘である。兄に大岡時親がいる。藤原宗親は、平頼盛に長年仕え、平頼盛領の駿河国大岡牧の管理を任されていたが、平家が滅亡すると、大岡牧の領主となって牧宗親と名乗った。武士でもないのに、領地を得られるのは、珍しいことである。

 子の中に北条政範がおり、上京させたが、死んでしまった。
 嫡女は、源氏の平賀朝雅(源頼朝の猶子)に嫁がせ、京都に住んでいた。
 他の娘たちも公卿などに嫁がせた。

『鎌倉殿の13人』の設定を中心とする北条時政の子たち

北条四郎時政┬長男・三郎宗時    (片岡愛之助) :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子)   :母・伊東祐親の娘
      ├次男・江間小四郎義時 (小栗旬)    :母・伊東祐親の娘
      ├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ)  :母・伊東祐親の娘
      ├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依)  :母・足立遠元の娘
      ├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花)  :母・足立遠元の娘
      ├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史)  :母・足立遠元の娘
      ├五女・きく=平賀朝雅室(八木莉可子) :母・牧宗親の妹
      ├六女・?=滋野井実宣妻(?)     :母・牧宗親の妹
      ├七女・?=宇都宮頼綱室(?)     :母・牧宗親の妹
      ├四男・遠江左馬助政範 (中川翼)   :母・牧宗親の妹
      ├?女・?=坊門忠清(坊門信清の子)室(?):母・不明
      ├?女・?=河野通信室(?)        :母・不明
      └?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?) :母・不明

 さて、「源実朝を殺して、平賀朝雅を将軍にしようとしている」と聞いた北条政子は、三浦義村を呼んで助けを求めると、三浦義村は、源実朝を連れ出して北条義時屋敷に入れ、郎党を集め、「将軍の仰せなり」として、鎌倉にいた北条時政を呼び出して、以前住んでいた伊豆国に追放した。

 次に、京都の平賀朝政を、在京の武士たちに「討て」と命令し、このことを後鳥羽上皇に伝えた。平賀朝政は、京都の六角東洞院に屋敷を建てて住んでいた。武士たちがこの屋敷を取り巻いて攻めると、平賀朝政は、しばらくは応戦したが、屋敷に火を放ち、大津方面に逃げた。(この時、屋敷の後方をわざと開けて(兵を配置せず)平賀朝政を逃がしたという。)平賀朝政は、山科まで逃げ、追っ手を見て、観念して自害すると、平賀朝政の首を伯耆国守護・金持が取って持ってきたので、後鳥羽上皇は、御車に乗り、門の外で、平賀朝政の首を御覧になったという。これは元久2年閏7月26日の事である。

■慈円『愚管抄』
 かくて関東すぐる程に、時政、若き妻を儲けて、其れが腹に子供儲け、娘を多く持ちたりけり。この妻は、大舎人允宗親と云ひける者の娘也。舅とて、大岡判官時親とて五位尉になりて有りき。その宗親、頼盛入道が元に多年仕いて、駿河国の大岡の牧と云ふ所をしらせけり。武者にもあらず、かかる者の中に、かかる果報の出くる不思議の事也。
 其の子をば京に上せて馬助になしなどして有りける、程無く死にけり。
 娘の嫡女には、友正〔朝雅〕とて源氏にて有りけるは、これ、義が弟にや。頼朝が猶子と聞こゆる。この友正〔朝雅〕をば京へ上せて院に参らせて、御笠懸の折りも参りなんどして仕はせけり。
 こと娘共も皆、公卿、殿上人共の妻に成りてすぎけり。
 さて、関東にて、又、「実朝を打ち殺して、この友正〔朝雅〕を大将軍にせんと云ふ事を支度する」由を聞きて、母の尼君〔政子〕騒ぎて、三浦の義村と云ふを呼びて、「かかる事聞ゆ。一定也。これを助けよ。いかがせんずる」とて有りければ、義村、良き謀の者にて、具して義時が家に置きて、何とも無くてかざと郎等を催し集めさせて、「戦立て、将軍の仰せなり」とて、この祖父の時政が鎌倉にあるを呼び出して、元の伊豆国へ遣りてけり。
 さて、京に朝政〔朝雅〕があるを、京にある武士共に「討て」と云ひ仰せて、此の由を院奏してけり。京に六角東洞院に家、造りたりて居たりける。武士、ひしと巻かせて攻めければ、暫し戦いて終に家に火かけ、打ち出でて大津の方へ落りにけり。わざと後ろをば開けて落とさんとしけるなるべし。山科にて、追武士共もありければ、自害して死ける頸を、伯耆国守護武士にて金持(かもなもち)と云ふ者有りける。取りて持て参りたりければ、院は御車にて門に出て御覧じけると聞こへき。これは元久二年後七月廿六日の事也。

※『愚管抄』(ぐかんしょう):鎌倉時代初期の史論書。「承久の乱」前後の成立。作者は、天台宗の僧侶・慈円(慈鎮)。全7巻。なお、「愚管」とは、僧侶が「愚僧」と自称するようなもので、「私見」の謙譲語である。

■『国史大辞典』「愚管抄(ぐかんしょう)」
 鎌倉時代初期に成った日本の通史。慈円(慈鎮)作。七巻。『本朝書籍目録』に六巻とあるのはあるいは第一・二巻を合わせた表現か。また『愚管抄』第二巻記述中に、山門のことを記した「一帖」があるとみえるのは、別に現存する、延暦寺勧学講の記録断簡にあたると思われる。第一・二巻は年代記。第三―六巻は本文。第七巻は付録。第一・二巻の年代記ははじめに「漢家年代記」を簡単に記し、ついで「皇帝年代記」には、わが国の天皇歴代を追って治世年数、その間の主要な政治家・僧侶名などを列記し、あわせてその治世中の事件を摘記する。年代記の典拠の一つに藤原資隆著の『簾中抄』が用いられている。本文は神代を除くことを明記し、神武天皇から順徳天皇時代までの政治史を述べる。わが国の政治は王法であるとし、この王法の盛衰がすなわちわが国の歴史とされる。王法ははじめ正しく行われたが、時とともに衰えてこれを輔ける力を要するようになる。仏法渡来以後は王法・仏法相依の国となる。ついで国家に功労のあった藤原氏が輔佐する。藤原氏は天皇の外戚として摂政・関白を出し、子孫相ついだ。この摂籙はやがて師輔・道長の一流に限られ、その盛世が道長・頼通の時代である。この天皇と摂籙との協力政治を「魚水合体」の政とよぶ。次にこの外戚関係の喪われたところに院政が生まれる。院政においては院の近臣の進出によって天皇と摂籙とが阻隔される。ここに政治が破綻し保元の乱が胚胎する。この乱によって武士が政治上に勢力を築く。これ以後を武者の世とし、本書はこの武者の世をえがくことを第一の問題としている旨をここで明記する。乱勃発までの経緯およびそれ以後の記述は、それ以前に比して詳細・具体的で迫力が加わってくる。事件当局者・責任者、および目撃者などの記録や見聞、世人の噂の類をも極力あつめて記述の正確を期しており、宮中・政界の機密、遠隔の地の報告・伝聞にも広く注意をくばり、したがって他書に求められぬ秘事や伝えも多くなり、史料としても重要さを増してくる。著者が名を匿していることもこれに関連するかと思われる。保元の乱後、武士の力は直ちに王法と摂籙とを圧する。平清盛の専権、源義仲の粗暴、そして帝王の入水など、未曾有の事態が相つぎ、武士は王法の反逆者と観られる。しかし、源頼朝の力によって天下の秩序が回復されると、武士は見直され、かえって朝家の守りと観られるようになる。ことにこの思想的転機となったのは平氏滅亡の際の三種神器の一たる宝剣の喪失問題であった。武士は今や宝剣に代わる朝家の守りであり、したがって剣は不要な時代が到来したのであるとされる。したがって、朝廷は武士を憎むことなくかえってこれにわが国の政治の中にその席を与うべきであるとした。これを文武兼行という。魚水合体・文武兼行は偶然的なものでなく、実は皇室・藤原氏・源氏の守護神たる天照大神・天児屋根命・八幡大菩薩の約諾による予定計画にもとづくものとされる。しかして、建保六年(1218)には、九条家を外戚とする懐成親王(仲恭天皇)の立太子、九条道家の左大臣就任、また翌承久元年(1219)には、関東に道家の子三寅(頼経)の将軍継承者としての下向の実現を見た。慈円には、これは、九条家をめぐっての、魚水合体・文武兼行の政と思われた。そして同時に現在における王法のあるべき姿の復帰の兆であった。この明るい見通しの生まれた時点で本文の叙述を終えている。第七巻付録は日本史の総論であり、歴史の全体を一つの「道理」が貫いているという史観を詳細に展開する。この思想は本文の叙述の中で史実の解釈法として終始用いているが、ここであらためて、日本の歴史を七段階に分け、道理が純粋に行われている時代から、全く喪われる時代に至ったとしている。しかし道理は本来、下降だけでなく、上昇の方向もあり、悪を排除したものではなく、僻事をも含んだものであることを力説している。この道理の語は随所に繰り返しあらわれてくるが、常に異なった複雑な説明がなされる。かくて、歴史は道理や神意などに定められた、あらがいがたい運命的なものとされるが、他方なお、人間の器量や心術・行為の善悪によっても左右し得る余地を認めている。したがって道理を悟ってこれに従うことが大切とされ、これを説くことが本書の使命の一つである。すなわち当時の朝廷の対武家政策に警告するための時務策の意味ももっていた。特に当時幼少であった懐成親王や三寅の将来の参考に備えるの期待も含めていたと考えられる。仮名で書き、平易な日常語を用いているのもそのためでもあったとも想定される。がそれは日本人は当然日本字・俗語を以て書くべきだとの平生の主張の実現でもある。しかし今日からは耳遠い詞もあり、またよい古写本多からず、仮名も本来、片仮名・平仮名いずれであったか不明で、かたがた本文の校訂はなお不充分である。本書の成立年代は、古来、問題とされ、諸説相つぎ、批判と論争が繰り返されてきている。この問題は本書の性格、その著作目的などと深く関連しており、特に承久の乱の前後のいずれにおくかに問題の焦点がある。早く江戸時代に伴信友がその著『比古婆衣』にこれを論じて承久の乱直後の貞応年間(1222-24)ごろとしている。大正年代に入って、津田左右吉は本書の内容にもとづいて承久の乱後説をとなえた。が大正十年(1921)に、三浦周行が新たに発見した慈円の書状によって、本書の著者が慈円であることを確認したに伴って、本書の成立の年次を承久二年として承久の乱前説を新たに提唱、「皇帝年代記」には追記あることを指摘した。津田はさらにこれを批判して、乱前成立ならば当然想定さるべき時務策がみられない点を強調して再び乱後説を主張した。これに対して村岡典嗣は記事内容は承久元年までであることを論証しつつ執筆は承久二年説をとって三浦説を支持した。ついで赤松俊秀は慈円自筆願文によって承久二年説をとって乱前説を主張。友田吉之助は貞応元年説によって乱後の作とした。が塩見薫は慈円の行実と本書の本文との検討によって赤松説に賛成し、石田一良は承久元年説をとった。本文は乱前・乱後説に対立しているが「皇帝年代記」の追記については諸説大体一致している。『(新訂増補)国史大系』19、『日本古典文学大系』86、『岩波文庫』『大日本文庫』、いてふ本などに収められている。(多賀 宗隼)

(Reco注)
・摂籙(せつろく)
:(「籙」は符の意。 皇帝に代わって籙を摂(と)る者の意から)本来は摂政の唐名。 転じて、関白をもさす。「摂籙家」とは、摂政、関白に任ぜられる家柄で、「摂家」ともいう。
いてふ本:袖珍文庫。銀杏(イチョウ)の模様があるので、「いてふ本」と言われる。

・慈円著/大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』(講談社学術文庫)2012
・長崎浩 『乱世の政治論 愚管抄を読む』(平凡社新書)2016

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