「神君伊賀越え」の史料
「神君伊賀越え」の史料には多くあるが、ほとんどが江戸時代に書かれた編纂物であり、同時代史料」は次の9点とされる。
①深溝松平家忠『家忠日記』
②多聞院英俊『多聞院日記』
③宇野主水(本願寺顕如の祐筆)『天正日記』
④松平忠明(奥平信昌の四男)『当代記』
⑤江村専斎の口述『老人雑話』
⑥ルイス・フロイス『日本耶蘇会年報』
⑦石川忠総『石川忠総留書』
⑧石川正西『石川正西見聞集』
⑨大久保忠教『三河物語』
後のものでは、
・『茶屋由緒記』
・『伊賀者由緒書』
・『戸田本 三河記』
・『神祖泉堺記事』
・『永日記』
・『武徳編年集成』
・江戸幕府公式史料『徳川実紀』
・江戸幕府公式史料『寛永諸家系図伝』
・江戸幕府公式史料『寛政重修諸家譜』
・『譜牒余録』
等があり、各資料の「神君伊賀越え」について書かれた部分は、『愛知県史』(資料編11 織豊1)の「特集 本能寺の変と徳川家康」に載せられているので、重宝する。
■「神君伊賀越え」の日程
「神君伊賀越え」の日程については、『家忠日記』が正確だとされる。
『家忠日記』によれば、6月4日には、徳川家康が岡崎城に入ったとする。
残念なことに、コースについては「伊賀、伊勢地」としか書かれていない。
想像するに、
6月2日 早朝に織田信長、没。徳川家康、堺発。信楽小川城泊。
6月3日 徳川家康、信楽小川城発。夜に白子着。航路で船中泊。
6月4日 徳川家康、早朝に大浜着。岡崎城へ入城。
となる。
■「神君伊賀越え」のルート
①近江国ルート(甲賀越え) :堺(妙國寺)→木幡越→徳永寺→白子
②伊賀国ルート(伊賀越え①):堺(妙國寺)→桜 峠→徳永寺→白子
③伊賀国ルート(伊賀越え②):堺(妙國寺)→御斎峠→徳永寺→白子
④大和国ルート(大和越え) :堺(妙國寺)→竹内峠→徳永寺→白子
⑤海路説
の4説ある。
学説は、同行者だった大久保忠隣の子・石川忠総による『石川忠総留書』(1650年までに成立)を参考にした「桜峠越え」である。
6月2日(13里) 早朝、織田信長、没。徳川家康、堺発。山口館泊。
6月3日( 6里) 徳川家康、山口館発。信楽小川館泊。
6月4日(17里) 徳川家康、信楽小川館発。長太から航路。船中泊。
6月5日(?里) 徳川家康、早朝に大浜着。岡崎城へ入城。
石川忠総(大久保忠隣の次男。外祖父・石川家成の家を継いだ)は父・大久保忠隣に詳しく聞いたであろうが、『石川忠総留書』では、大浜に着いたのを6月5日としており、史実とは異なる。また、2日目の移動距離がたった6里というのも解せない。(馬が通れない山中の険しい細道を歩いたのか、馬が調達出来なかったのか?)
『石川忠総留書』によれば、紀伊半島横断は13+6+17=36里(144km)mの行程であり、これを2日間で逃走したとすると、1日の移動距離は18里(72km)であり、きついが、『石川忠総留書』によれば、6月4日には17里移動しているので、不可能とは言えない。(72km・・・平地の場合、徒歩では時速4kmであるから18時間も歩かなければならない。馬は時速30kmであるから3時間あれば十分である。)