建保7年(1219年)1月27日、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝は、鶴岡八幡宮で、公暁によって暗殺された。公暁は、源実朝の首を切り落として、持ち去ったという。
公暁は、源実朝の乳母夫・三浦義村の邸宅へ赴く途中、三浦義村が放った長尾定景とその部下である雑賀次郎、武常晴ら5名によって討たれた。そして源実朝の首は行方不明となってしまい、『吾妻鏡』によると、勝長寿院の墓には、首のない遺体と宮内公氏に与えていた髪の毛が納められたという。
<北条政子の3つの墓>
①勝長寿院:北条政子の墓は、源頼朝、源実朝の墓と共に勝長寿院にあったというが、勝長寿院は、応永12年(1405年)に焼失し、墓は移されたという。
②寿福寺:勝長寿院から源実朝の墓と北条政子の墓が移されたとされているが、源実朝の正室が寿福寺で出家している。彼女の墓の横に、勝長寿院から源実朝の墓を移したのであろう。
③安養院(旧・祇園山長楽寺):長楽寺は、嘉禄元年(1225年)、北条政子が源頼朝の菩提を弔うために創建した寺だと伝えられる。元弘元年(1333年)、兵火により焼失し、善導寺に統合されて安養院長楽寺と号した。(安養院は、政子の法号「安養院殿如実妙観大禅定尼」から取られた。)境内の「伝・北条政子の墓」は、勝長寿院から移されたものであろう。
北条政子:嘉禄元年(1225年)病死(享年69)⇒勝長寿院
├────┬大姫:建久8年(1197年)病死(享年20)⇒粟姫稲荷
│ ├頼家:元久元年(1204年)暗殺(享年23)⇒指月殿
│ ├三幡:正治元年(1199年)病死(享年14)⇒亀谷堂
│ └実朝:建保7年(1219年)暗殺(享年28)⇒勝長寿院
源頼朝:建久10年(1199年)落馬で死去(享年53)⇒勝長寿院
├─────貞暁:寛喜3年(1231年)自害?(享年46)
大進局(常陸入道念西の娘):没年未詳
『吾妻鏡』によれば、「去夜、不知御首在所、五體不具、依可有其憚、以昨日所給公氏之御鬢、用御頭、奉入棺云云」(昨夜、首が見つからず、五体が揃っていない(と成仏出来ない)ので、昨日、宮内公氏に与えた髪の毛を頭の代わりに入棺したという)とあるが、実は、頭は見つかっており、成仏させない(怨霊にする)ために、入棺しなかったのではないか? 『愚管抄』には、
──実朝ガ頸ハ岡山ノ雪ノ中ヨリ求メ出タリケリ。
(源実朝の首は、低い山の雪の中を探して見つけた。)
とある。
■源実朝の首塚
源実朝の首は、公暁討伐隊の武常晴(たけつねはる)が得て、三浦義村に渡したが、処分に困った三浦義村は、武常晴に源実朝の首を渡したということになっているが、武常晴は、源実朝暗殺を企てた三浦義村に怒り、「源実朝の首を渡すものか」と、三浦氏と仲の悪かった波多野氏に頼み、波多野氏の領地内(神奈川県秦野市東田原にある源実朝が再興した大聖山金剛寺の境内)に「御首塚(みしるしづか)」名づけて源実朝の首を埋めたという。しばらくして御首塚は荒れてしまったが、死後700年の大正8年(1919年)に整備されたという。
①金剛寺(神奈川県秦野市東田原)の住職には、源実朝の正室を出家させた退耕行勇がなったという。北条政子は、金剛寺阿弥陀堂に、源実朝が生前礼拝していた阿弥陀三尊像を送ったという。本堂には、源実朝像が安置され、11月23日(勤労感謝の日)には「実朝まつり」が開催される。
②高野山(和歌山県伊都郡高野町高野山)には、北条政子の発願により、源実朝の菩提を弔うために創建された金剛三昧院(こんごうさんまいいん)がある。
https://www.koyasan-u.ac.jp/laboratory/pdf/kiyo33/33_kinoshita.pdf
③東京の惠日山金剛寺(東京都中野区上高田)は、波多野忠経が、源実朝「金剛寺殿鎌倉右府将軍実朝公大禅門」のために建長2年(1250)相模国波多野庄田原に創建した寺を移転した寺だと言う。
※玉川学園「実朝さんの二つの供養塔が語るもの」
※葉室麟『実朝の首』(角川文庫)