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天羽々矢(天之加久矢)

天羽々矢(あめのはばや)」は、「天之波波矢(あめのははや)」「天之加久矢(あめのかくや)」「天真鹿児矢(あめのまかごや)」ともいう。

 「加久」は「かぐや姫」の「かく」であり、「光り輝く」の意。光を放ちながら飛ぶ流星のイメージだという。

ゲーム「 Fight of Gods」で仏陀に天羽羽矢を放つ天照大神

1.天若日子を殺した矢(「国譲り」)


(1)天忍穂耳命の派遣

 高天原に住む天照大御神は、大国主命が治める「葦原中国(日本)は、私の子・正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」と正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に「天降り」を命じたが、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、「天の浮橋」から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神に報告した。

(2)天菩比命の派遣
 高御産巣日神高木神。『日本書紀』では高皇産霊尊)と天照大御神は「天の安の河の河原」に八百万の神々を集め、「どの神を葦原中国に派遣すべきか」と問うた。思金神と神々が相談して「天菩比命(あめのほひ)を派遣するのが良い」という結論になった。
 高御産巣日神と天照大御神は、天菩比命に葦原中国を統べる大国主神の元へ行くよう命じた。しかし、天菩比命は大国主神の家来となり、3年経っても高天原に戻らなかった。

(3)天若日子の派遣
 高御産巣日神と天照大御神が、再び八百万の神々に「今度はどの神を派遣すべきか」と問うと、八百万の神々と思金神が相談して「天津国玉神の子である天若日子(あめのわかひこ)を遣わすべき」と答えた。
 そこで、天若日子に「天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)」と「天之羽々矢(あめのははや。『古事記』では天真鹿児矢)」を与えて葦原中国に遣わした。しかし、天若日子は大国主命の娘・下照比売(したてるひめ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうと企んで、8年たっても高天原に戻らなかった。
 これを不審に思った天照大御神と高御産巣日神は、八百万の神々と思金神の勧めで、雉名鳴女(きぎしななきめ)を派遣して、使命を果たさない理由を天若日子に尋ねさせた。
 雉名鳴女が天若日子の家の前で大きな鳴き声をあげると、天佐具売(あめのさぐめ)が「この鳥は鳴き声が不吉なので射殺してしまいなさい」と天若日子に進言した。そこで彼は高御産巣日神から与えられた「天之波士弓(天之麻迦古弓)」で「天之加久矢(天之羽々矢)」を放つと、矢は雉名鳴女の胸を貫き、高天原の天照大御神と高御産巣日神の所まで飛んで行った。
 高御産巣日神は血が付いていたその矢を、天若日子に与えた天羽々矢であると諸神に示して、「天若日子は命令に背かず、悪い神の射た矢が飛んで来たのであれば、この矢は天若日子には当たらない。もし天若日子に邪心があれば、この矢に当たえる」と言って天之羽々矢を下界に投げ返した。天之羽々矢は天若日子の胸に当たり、天若日子は死んだ。天之羽々矢には、神を殺せる能力があるのだ。

2.「天孫降臨」時の所持品の矢


 次に建御雷神経津主神が天降り、大国主命に「国譲り」を了承させる。
 そして、天照大御神の子・正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に天降りを命じるが、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の邇邇芸命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」と答えたので、天照大御神の孫・邇邇芸命が天降りした(天孫降臨)。

天孫降臨

 この時、大伴連の遠祖である天忍日命(あまのおしひのみこと)は、来目部(くめべ)の遠祖・天槵津大来目(あまのくしつのおおくめ、天津久米命)を率い、背(そびら)には「天磐靫(あまのいわゆき)」を背負い、腕には「稜威高鞆(いつのたかとも)」をつけ、手には「天梔弓(あまのはじゆみ)」と「天羽羽矢(あまのははや)」を取り、「八目鳴鏑(やつめのかぶら)」を副(そ)え持ち、また「頭槌劒(かぶつちのつるぎ)」を帯びて天孫の降臨の行列の先頭に立ったという。

■『日本書紀』《第九段一書第四》
 一書曰。高皇産霊尊、以真床覆衾、裹天津彦国光彦火瓊瓊杵尊。則引開天磐戸。排分天八重雲、以奉降之。于時大伴連遠祖・天忍日命。帥来目部遠祖・天槵津大来目。背負天磐靫。臂著稜威高鞆、手捉天梔弓天羽羽矢。及副持八目鳴鏑。又、帯頭槌剣。而立天孫之前、遊行降来。到於日向襲之高千穂槵日二上峰。天浮橋、而立於浮渚在之平地。膂宍空国、自頓丘覓国行去。到於吾田長屋笠狭之御碕。時彼処有一神。名曰事勝国勝長狭。故天孫問其神曰。国在耶。対曰。在也。因曰。随勅奉矣。故天孫留住於彼処。其事勝国勝神者、是伊弉諾尊之子也。亦名塩土老翁。〔梔。此云波茸。音之移反。頭槌。此云箇歩豆智。老翁。此云烏膩。〕

3.天神の子であることを証明した矢


 邇邇芸命の日向への降臨後、「日向三代」を経て、天照大御神五世孫・磐余彦尊(後の神武天皇)は、東征して大和入りしようとするが、(大国主に譲られたのは九州王朝だけで、大和王朝は含まれていなかったのか)大和は、長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(長髄媛、鳥見屋媛)と結婚した饒速日命(にぎはやひのみこと。物部氏の遠祖)が支配していた。

 (年号無し)戊午年(紀元前663年)12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄「金鵄(きんし)」があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。すると、稲光のような輝きを発し、長髄彦の軍は混乱した。(このため、長髄彦の名の由来となった邑の名「長髄(ながすね)」を「鵄(とび)」と改めた。今は「鳥見(とみ)」という。)
 長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、「私が主君として仕えている饒速日命は天神の子で、昔、天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が2人もいるのはおかしいから、お前は偽者だ」と言った。磐余彦尊は、「天神の子は多い。饒速日命が天神の子であることのしるしを見せよ」と求めた。長髄彦は饒速日命の持っている天羽々矢歩靭(かちゆき。矢を盛って背に負うための道具)を磐余彦尊に示したが、磐余彦尊も同じしるしを示し、どちらも天神の子であることが分かった。
 しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は、舅・長髄彦を殺し、衆を率いて帰順した。こうして磐余彦尊は即位して、初代天皇・神武天皇となった。

■『日本書紀』《神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十二月丙申(四)》
 十有二月癸巳朔丙申。皇師遂撃長髄彦。連戦不能取勝。時忽然天陰而雨氷。乃有金色霊鵄。飛来止于皇弓之弭。其鵄光曄煜。状如流電。由是長髄彦軍卒、皆迷眩不復力戦。長髄是邑之本号焉。因亦以為人名。及皇軍之得鵄瑞也。時人仍号鵄邑。今云鳥見。是訛也。昔孔舎衛之戦。五瀬命中矢而薨。天皇銜之。常懐憤懟。至此役也。意欲窮誅。乃為御謡之曰。
瀰都瀰都志。倶梅能故邏餓。介耆茂等珥。阿波赴珥破。介瀰羅毘苔茂苔。曾廼餓毛苔。曾禰梅屠那芸弖。于笞弖之夜莽務(みつみつし くめのこらが かきもとに あはふには かみらひともと そのがもと そねめつなぎて うちてしやまむ)
又、謡之曰。
瀰都瀰都志。倶梅能故邏餓。介耆茂等珥。宇恵志破餌介瀰。句致弭比倶。和例破涴輸例儒 于智弖之夜莽務(みつみつし くめのこらが かきもとに うゑしはじかみ くちびひく われはわすれず うちてしやまむ)
 因復縦兵忽攻之。凡諸御謡。皆謂来目歌。此的取歌者而名之也。時長髄彦乃遣行人言於天皇曰。嘗有天神之子。乗天磐船自天降止。号曰櫛玉饒速日命。〈饒速日。此云爾芸波揶卑〉是娶吾妹三炊屋媛。〈亦名長髄媛。亦名鳥見屋媛〉遂有児息。名曰可美真手命。〈可美真手。此云于魔詩莽耐〉故吾以饒速日命為君而奉焉。夫天神之子、豈有両種乎。奈何更穏天神子。以奪人地乎。吾心推之、未必為信。天皇曰。天神子亦多耳。汝所為君。是実天神之子者。必有表物。可相示之。長髄彦即取饒速日命之天羽羽矢一隻及歩靭、以奉示天皇。天皇覧之曰。事不虚也。還以所御天羽羽矢一隻及歩靭。賜示於長髄彦。長髄彦見其天表。益懐踧踖。然而凶器已構。其勢不得中休。而猶守迷図。無復改意。饒速日命本知天神慇懃唯天孫是与。且見夫長髄彦禀性愎佷、不可教以天人之際。乃殺之。帥其衆而帰順焉。天皇素聞鐃速日命是自天降者。而今果立忠効。則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。

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