富士の巻狩り(2/6)「富士の巻狩り」
■「教えて! 風俗考証・佐多芳彦さん」
━━第23回では、富士野で行われた巻狩りを映像化されるんですね。
はい。『吾妻鏡』に記されている建久4年(1193)5月に行われた「巻狩り」と、その中で行われた「矢口祝い(矢開き)」を映像化します。ただ、残念ながら『吾妻鏡』には詳しいことは書かれていないんです。そこで、詳細を伝えているといわれている文献資料『阿蘇下野狩史料』を参考にして、デザイン・美術・演出スタッフ総出で再現に挑戦しました。みなさんへの、感謝の念に堪えません。
━━『阿蘇下野狩史料』とは、どのようなものですか?
熊本の阿蘇氏では神事の一つとして「巻狩り」が行われており、これが史料として残されています。鎌倉時代くらいの古い狩猟の方法が、代々伝わっていたんです。
━━「巻狩り」とは、どのようなものでしょうか?
獲物を狩場に追い込んで取り囲み、狩っていく大規模な狩猟で、1日ではなく数日をかけて行われます。獲物を追い込む場所を狩場というのですが、まず狩りの前日にこの狩場を探します。「だいたいこのくらいの場所を狩場にしょう」と決めて、その場所へ獲物を追い込んでおくんです。そして、翌日から集めた獲物を狩っていきます。
今回は撮影を行ったロケ地に枯れ葉がたくさんあり、火事になる危険性があったので断念したのですが、本来はやぶを刈ってその範囲を細い道で取り囲み、たいまつを持ったり、篝火をたいたりして獲物が逃げてしまわないように閉じ込めておきます。
━━前日から準備があるのですね。どのような獲物を追い込むのでしょうか?
イノシシ、シカ、ウサギ、タヌキ、あと、クマなんかも対象になっていたようですね。
━━クマも対象とは、すごいですね。
クマの場合は、ものすごく命がけだったんじゃないかと僕は思うんですけれど(笑)。要するに、射倒せる動物を集めて狩場に押し込んでおいたんですよ。
━━どのような人たちが獲物を追い込んでいたのでしょうか? ご当地の駿河の人たちでしょうか?
ご当地の人だけではなく、狩りに参加する人みんなで協力して獲物を追い込んでいたようです。「巻狩り」は単に獲物を狩るというだけではなく、御家人たちの軍事演習という一面もあったんですね。以前は武士団ごとにそれぞれのルールで勝手に合戦に臨んでいたわけですが、源平合戦などを通じて集団戦が行われるようになりました。そうなると、武士団ごとの連携、協力が必要不可欠になるわけです。巻狩りでは、合戦と同じように弓を射るだけではなく、連携、協力して獲物を追い込んでいくことも求められるので、軍事演習として最適だったようです。また、征夷大将軍の前で獲物を狩ることができれば、自身の武勇を示す良いアピールとなりますし、名誉なことだったと思います。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/special/column/014.html
「巻狩り」とは、本来は、里の田畑を荒す山の獣(鹿や猪)を退治し、その肉を山ノ神に捧げる行事である。源頼朝が行った「巻狩り」については、一昨日の記事に、
・遊び(狩猟ゲーム)
・軍事訓練
・山々の神々に鎌倉幕府の繁栄を祈願
という要素があったと書いたが、「富士の巻狩り」 より前の巻狩りは、「親衛隊22人のみ、弓の使用が可能」という小規模のものであり、「大規模な巻狩りの予行演習(テスト)」「北関東の視察」という要素もあったろう。
ところが「富士の巻狩り」 は、空前絶後のスケールであった。この理由には「征夷大将軍たる権威を誇示する」という要素以外に「源頼家のお披露目」という要素があったと思われる。源頼家にとっては「初陣」のようなものであり、なんとしても獲物を射止め、山ノ神に嫡男として認められる必要があったと思われる。また、「富士の巻狩り」では、多くの御家人が弓を使えたので、御家人にとっては「名をあげるチャンス」であったといえよう。
建久4年(1193年)
5月 2日 駿河国守護・北条時政、準備のために駿河国に下向。
5月 8日 源頼朝、富士野に向う。
5月15日 源頼朝、富士野の旅館に入る。「六斎日」につき宴会。
5月16日 源頼家、鹿を射止めて「矢口祭」。
5月18日 仁田忠常、大猪(実は山ノ神)を仕留めて寿命を縮める。
5月22日 源頼家が鹿を射止めたことを鎌倉の北条政子に報告。
5月23日 「六斎日」につき狩猟禁止。
5月27日 終日、巻狩り。工藤景光、山ノ神(神鹿)を射て発病する。
5月28日 夜、曽我兄弟の仇討ち。
5月29日 源頼朝、弟・曽我五郎時致を自ら尋問する。
5月30日 曽我兄弟の仇討ちが鎌倉に伝わる。
6月 1日 曽我祐成の愛人・虎(大磯の遊女)を呼ぶも、無罪釈放。
6月 3日 曽我祐成の夜討を恐れて逃亡した久慈氏の領地を没収。
6月 5日 曽我兄弟の仇討ちで、御家人の動きが騒がしくなる。
6月 7日 源頼朝、鎌倉に帰還する。
「富士の巻狩り」 は、前半は藍沢原(あいざわがはら)、後半は富士野神野で行われたという。
「藍沢」は「鮎沢」(伊勢神宮領「大沼鮎沢御厨」。現在の御殿場市。他の表記は「逢沢」「合沢」「愛沢」)のことであるが、「藍沢原」は、鮎沢川(酒匂川上流部)と黄瀬川(狩野川支流)の流域を指し、範囲がかなり広い。富士山の東麓から箱根山の西麓にかけての広い範囲を指し、現在の駿東郡小山町、御殿場市、裾野市、長泉町、沼津市、三島市にまたがる歴史的地名である。
「富士野」は、富士山の南西麓の朝霧高原から富士山本宮浅間神社、さらには愛鷹山に至る街道筋で、現在の富士市、富士宮市、静岡市、沼津市にあたる。神野は富士山本宮浅間神社領だという。源頼朝の旅館は井出家だったという。
http://www.city.fujinomiya.lg.jp/sp/citizen/visuf8000000wfil.html
■大河紀行(第23回)「静岡県裾野市・富士宮市」
幕府の権威を知らしめるため、富士山の麓で盛大に行われた巻狩り。静岡県裾野市には、炊事を行った弁当場や頼朝が水を飲んだと伝わる森など、巻狩りの足跡が残されています。
静岡県富士宮市。頼朝は富士山本宮浅間大社に流鏑馬を奉納したと伝わっています。ここは北条氏ともゆかりが深く後に義時が社殿を造営しました。
巻狩りの際、頼朝の宿所は現在の井出家に設けられました。周囲には曽我兄弟にまつわる史跡が残されています。曽我兄弟は「曽我の隠れ岩」の裏に身を潜め、敵討ちの相談をしたと伝わります。
曽我八幡宮は頼朝が畠山重忠を通じて地元の住民に創建させた神社です。その近くには兄弟の供養塔がひっそりと立っています。
時代の波にのまれた曽我兄弟の物語は、今も語り継がれています。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/kikou/23.html