「土岐頼芸の舘」ってどこ?
『麒麟がくる』の重要人物の居場所として、
織田信長は「那古野城」、斎藤利政は「稲葉山城」と表示されますが、
土岐頼芸の場合は表示されません。土岐頼芸はどこにいるのか。
◎土岐頼芸年表
・天文4年 斎藤利政、土岐頼純を越前国へ追い払う。
↓その結果、
・天文5年7月 土岐頼芸、美濃国守護に就任
・天文6年2月 斎藤利政、土岐頼純と和睦
↓その結果、
・天文7年8月 土岐頼純、越前国から帰国。大桑城へ入城。
・天文11年 土岐頼芸、斎藤利政に追い出されて尾張国へ。
・天文12年 土岐頼純、大桑城で斎藤利政と戦い、敗れて尾張国へ。
・天文13年 斎藤利政、美濃国へ入った土岐頼純を越前国へ追い払う。
・天文15年 土岐頼純、斎藤利政と和睦して帰国し、帰蝶と政略結婚。
・天文16年11月17日 土岐頼純、死亡(『麒麟がくる』第2話)
・天文19年冬 『麒麟がくる』第11話
・天文21年 斎藤利政、土岐頼芸を近江国(六角氏)へ追い払う。
・天文21年6月 六角氏、斎藤利政を攻める。
土岐頼芸は天文11年に斎藤利政に追い出されて尾張国(織田信秀)へ亡命、土岐頼純は天文13年に斎藤利政に追い出されて越前国(朝倉孝景)へ亡命。天文15年、斎藤利政と朝倉孝景が和睦し、土岐頼純は美濃国へ戻って大桑城に入り、土岐頼芸は「美濃国守護の座を土岐頼純に譲る」ことを条件で美濃国へ戻されて大桑城に入ったそうです。(土岐頼純と土岐頼芸の仲は良くないので、同じ場所にいたとは考えにくいのですが・・・。土岐頼芸については、織田信長と帰蝶が結婚して、美濃と尾張が仲良くなった時に尾張から美濃へ戻ったとする説もあります。)
『麒麟がくる』では、土岐頼純が美濃国守護であり、その土岐頼純が天文16年に死ぬと(斎藤利政が毒殺すると、あるいは、大桑城で斎藤利政と戦って討死すると)斎藤利政が土岐頼芸に美濃国守護になるよう依頼しています。(斎藤利政には任命権はなく、勅許のはずですが(苦笑)。斎藤道三が大桑城を焼くと、土岐頼芸は本巣郡河内(本巣市)に逃げましたが(苦笑)。)
美濃国守護になった土岐頼芸は、居場所を美濃国守護所に変えたはずですが、『麒麟がくる』では、美濃国守護になる前と後で同じ場所に住んでますね。ということは、『麒麟がくる』では、「土岐頼芸は、土岐頼純と共に、大桑城(守護所)に住んでいた」という設定なのでしょう。
第3回「麒麟がくる紀行」では、「頼芸が築いた館の一つ、枝広館」が紹介され、「土岐頼芸は、枝広館に住んでいた」というイメージを視聴者に与えましたが、枝広館は守護所ですので、美濃国守護ではない土岐頼芸(美濃国守護は土岐頼純)は住めません。美濃国守護になれば住めますが、そもそも枝広館は、天文4年7月1日の長良川の洪水で倒壊、流失していますので、『麒麟がくる』に登場する「土岐頼芸の舘」ではあり得ません。
「家督争いを繰り返し、衰退の一途をたどる土岐一族。頼芸(よりのり)の時代には、家中の混乱に乗じ、斎藤道三が頭角を現しました。頼芸が築いた館の一つ、枝広館(えだひろやかた)は岐阜県岐阜市の長良(ながら)公園一帯にあったといいます。道三に実権を奪われ、ついには美濃を追放されることとなる頼芸。土岐一族の栄光は、頼芸の代で潰(つい)えることとなるのです。」
https://www.nhk.or.jp/kirin/journey/03.html
◎美濃国守護所の変遷
・川手城(岐阜市正法寺町の済美高等学校)
↓
・福光館(岐阜市福光)
↓天文元年
・枝広館(岐阜県岐阜市長良字城之内の長良公園)
↓天文4年7月1日、長良川の洪水で倒壊
・大桑城(岐阜県山県市大桑地区)
大桑城は、標高407mの古城山(別名:金鶏山)の山頂付近にあります。登山口から山頂までは徒歩1時間です。もちろん、守護所に用事のある人は、山登りはしません(笑)。美濃国守護所は、朝倉氏の本拠地である一乗谷を模して設計された城下町にありました。
天文21年の斎藤利政による土岐頼芸の大桑の守護所からの追放をもってして、「土岐一族の栄光が潰えた」「美濃国守護家としての土岐家が滅亡した」といえるようです。(その時、土岐頼芸は死んではいませんし、土岐家自体は存続して、沼田藩主家などになっています。)
『麒麟がくる』に登場する「土岐頼芸の舘」は、大桑城の城下町にあったと思われますが、その大桑城は天文16年、斎藤利三によって焼かれています。
「山頂の城を焼いただけで、城下町(守護所)は無事だろう」
と思っていたのですが、土岐頼芸は本巣郡河内に逃げていますし、かなり大規模な放火(もしくは延焼)だったことが、十五社神社(山県市大桑)所蔵の古文書から分かったようです。
◎「土岐氏の大桑城に攻め入り、周辺の山焼く 古文書に道三の下克上」
(「岐阜新聞Web」2020/02/02)
岐阜県山県市大桑(おおが)の十五社神社が所蔵する古文書に、美濃国守護だった土岐氏と勢力を増していた戦国武将斎藤道三が、1547(天文16)年に戦った時の様子が詳しく記されていることが分かった。斎藤軍が同市大桑にある土岐氏の居城大桑城に攻め入り、周辺の山を焼いたことなどが書かれており、調査に協力した地方史研究家の西村覺良(かくりょう)さん(76)=同市大桑=は「天文16年には土岐氏がかなり劣勢になっていたことの裏付けになる」と話す。
古文書は、十五社神社の宮司を務める加藤家の家系図や神職としての記録などを江戸後期の弘化年間に記した7枚のうちの一部。裏表の両面記述で、戦いの様子は3面分に残る。
「天文16年11月22日より23日、岐阜城より斎藤軍が大桑城を攻め、山を続きに焼き払い、人家焼かれるも防ぐ者なく」といった内容の記述のほか、道三の娘で後に織田信長の正妻となる帰蝶(濃姫)が最初に嫁いだともいわれる土岐頼純(よりずみ)が、同年11月17日に死去したことも記されている。城攻めの火が山に延焼して、同月24日に十五社神社の社殿が消失したことも分かる。この時、大桑城主は記述されていないが、西村さんは「頼純の後は土岐頼芸(よりのり)で、落城の際、美濃国外へ逃げた」とする。
十五社神社本殿が昨年、県重要文化財(建造物)に指定され、今年の大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」で土岐氏と道三が登場することから、神社と大桑城のPRのため神社の禰宜(ねぎ)で市議の加藤裕章さん(46)が古文書の解読を専門家に依頼した。
ドラマの主人公、明智光秀は土岐氏の分家の出生ともいわれる。大桑城跡から直線距離で約5キロ離れた同市中洞には光秀の墓と伝わる桔梗(ききょう)塚など、市内には出生や晩年にまつわる伝承が残る。
https://www.gifu-np.co.jp/news/20200202/20200202-211821.html
◎「土岐氏と道三の戦い、詳細に 山県の十五社神社、古文書に記す」
(「中日新聞+」2020/02/01)
美濃国の守護大名・土岐氏が居城とし、斎藤道三の下克上で落城した大桑(おおが)城(山県市大桑)の戦いの様子が、地元の十五社神社の宮司宅に残る江戸時代に書かれた文書に記されていた。専門家や市教委によると大桑城の落城の場面を詳細に記録した古文書が確認されたのは初めて。
古文書は、十五社神社の宮司を代々務める加藤家の家系図や歴史について記したもの。表紙に幕末の「弘化丙午年記ス」とある。
天文十六(一五四七)年に、道三の娘・帰蝶(濃姫)が嫁いでいたともいわれる土岐頼純が死去したことや、同年、稲葉山城(岐阜城)から道三が攻め込んだことが書いてあった。追放された大桑城主の頼芸は、美濃国最後の守護となった。
山を続きに焼き払い、山、人家焼かれるも(略)防ぐ者一人とて無く見る目も無残なり。火はうらの唐松山に移り、正に十五社大権現に燃え移らんとす(略)土岐殿が御造営ありれる御社もつい焼失せり。誠に残念此(こ)の上(うえ)もなし
道三が大桑城を攻め、近くの山や十五社神社に延焼した様子が分かる。
古文書は、宮司の加藤武士さん(77)の長男で禰宜(ねぎ)の裕章さん(46)が、土岐氏や道三が重要な役回りで登場するNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」放送に合わせ、大桑城をPRしたいと考え、文書を専門家の助けを借りて解読した。裕章さんは「これをきっかけに、大桑城や土岐氏、道三の関係についての関心が広まってほしい」と話した。
調査に協力した、山県市文化財保護審議会会長の西村覚良さん(76)は「城を構えていた山や神社が燃やされたことを書いた文書は、これしかない。大桑城攻めが分かる貴重な史料」と話す。(下條大樹)
http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-CK2020020102000040
それはそうと、大桑城の模擬天守って、もしかして、日本一小さな天守?
【訂正】『麒麟がくる』「十兵衛の嫁」(2020年4月5日放送)で、土岐頼芸の居場所を「鷺山」と斎藤利政が言ってました。それに、私の声が届いたのか(笑)、「鷺山城 土岐頼芸の館」と表示されるようになりました。
★鷺山城:岐阜県岐阜市鷺山。金華山(稲葉山)西北にある標高68mの鷺山の山頂にある城。山麓には居館があった。斎藤利政は、土岐頼芸を追放した後、稲葉山城を長男・斎藤義龍に譲り、鷺山城を自らの隠居城とした。なお「鷺山殿」とは、土岐頼芸のことでも、斎藤利政のことでもなく、帰蝶のことである。
記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。