見出し画像

服部氏(上服部勘六/中服部中保次/下服部半蔵正成/服部平太夫正尚(蓑笠之助))

上服部・服部勘六。「神君伊賀越え」に随行したとされる。

中服部・服部中保次(1526-1587)。古文書によっては「中」ではなく「仲」。『寛永諸家系図伝』によれば、永禄8年から徳川家康に仕え、「神君伊賀越え」に随行したとされる。後に徳川家康配下の伊賀者の一部を預かった。遠江国(静岡県浜松市)の領地の視察中、姫街道の長坂において、人違いで殺害された。

下服部・服部半蔵正成(1542-1596)。「神君伊賀越え」に随行したとされる。父が三河国に移り住んだので、服部正成は三河国で生まれた。服部中保次同様、後に遠江国(静岡県浜松市)で領地8000石と伊賀者200名を預かった。

天正十年壬午五月、信長公仰に依て、甲州之穴山梅雪、和泉之堺為御見物、権現様被為成御同道候、其刻明智日向守企逆心、 京都本能寺にて、六月朔月、信長公御生害之由、堺にて被及聞召、御相談之上、本道は如何と被為成御意、伊賀路山越を御心掛、大和迄御同道被成候處、則大和之内ニ而一揆蜂起、 梅雪被討取申候ニ付、権現様、同二日、伊賀路江御入被成候故、伊賀者共罷出、かふと山御案内仕、伊勢白子迄致御供、夫より御舟二被召、身を以、同十五日、尾州鳴海御家江被召出、 御切米並侍扶持と被成御意、三人扶持つゝ被下之候、(以下略)
御陣御供書
先祖之者共伊賀ニ居住仕候處、権現様伊賀路山越被為遊候、並御陣御供仕候覚、
一 織田信長御手入之節、上服部勘六、仲服部仲、下服部半蔵 申者、伊賀路山越御案内仕、参州江引取罷在候之処、信長於伊賀被為御札立、帰国望之輩者、無子細被仰出候ニ付、 仲、半蔵、勘六伊賀江罷帰候事、
一 天正十年壬午六月、権現様、穴山梅雪御同道被遊、泉州堺江御立越被遊候節、明智日向守企逆心、信長於本能寺御生害之旨西御門跡並茶屋四郎申上候、 夫より権現様大和路江被為成候、梅雪は御跡ニ而、為一揆被討被申候之由、夫より権現様伊賀江御入被遊、仲は広木と申處、半蔵は栗と申所、勘六は喰代と申所ニ罷在候を被召出、 仲、半蔵、勘六山道為御案内、伊賀之者罷出、各一所ニ薬師寺と申所江御案内申上、追々伊勢白子迄御供申上候、当分為御褒美、銀子三貫目被下置、仲、半蔵、勘六請取之、 右之者共不残拝借仕候、夫より御船ニ而参州江御入被遊候、無残所御忠節 被遊御意、同壬午年、於尾張鳴海被召出候事、(以下略)

「伊賀者由緒並御陣御供書付」

服部平太夫正尚(蓑笠之助)。徳川家康の側室・西郷局(於愛の方)の養父。「神君伊賀越え」では、徳川家康に蓑と笠を与えて変装させたので難を逃れられたとして、「蓑笠之助」という名を拝領しているが、私は、単に雨が降ってきたので、蓑と笠を徳川家康に与えたのではないかと思っている。

『寛政重脩諸家譜』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1082721/1/217


いいなと思ったら応援しよう!

レコの館(やかた)
記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。