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Reco旅 -新居②橋本-

今回の旅の目的は「猪鼻坂と橋本砦の調査」であった。
随分前に、
「交通費サポで猪鼻坂と橋本砦の調査に行きます」
と言ったものの、サポが無かったので調査を忘れてた(苦笑)。

※過去記事:「最近の「橋本宿」関連記事のまとめ 」
https://note.com/sz2020/n/n87afd2987736

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1.猪鼻坂


※「Reco旅 -新居⑦レポに出てくる地名- 」
https://note.com/sz2020/n/n16d22c672d44

2.橋本砦


「橋本砦」とは、
①源頼朝時代に築城した砦(和田義盛が築城を急がせた「防禦陣地」)
②「中先代の乱」の前哨戦「橋本合戦」の時の北条方の砦
をいう。

①源頼朝時代に築城した砦

■『吾妻鏡』「寿永2年(1183年)2月17日」条
安田三郎義定、相率義盛、忠綱、親光、祐茂、義淸、并、遠江國住人・横地太郎長重、勝(間)田平三成長等、到于當國濱松庄橋本邊。是、依前武衛仰也。此所、爲要害之間、可相待平氏襲來之故也。

(安田義定、和田義盛、岡部忠綱、工藤親光、宇佐美祐茂、土屋義淸と遠江国の武士・横地長重、勝間田成長らが遠江国浜松庄橋本の辺りに着いた。これは、源頼朝の命である。ここは、要害の地なので、(ここに砦を築いて)平氏の襲来をここで待つのである。)

■『浜松市史』 (中世編)「第二章 鎌倉時代」
【橋本の陣地】遠江守護安田義定からの報告をうけた頼朝は、28日和田義盛(1147-1213)らを派遣した。しかも右大将平宗盛(1147-1185)の家人景高ら千余騎が東下し、閏2月15日には、平重衡の追討軍が出発する。17日和田義盛・安田義定らは、遠江国の住人横地太郎長重・勝間田平三成長らをひきいて、頼朝の指令に従い、浜松荘の橋本あたりに防禦陣地を構築した。遠江国橋本あたりが、要害地だとするのは、浜名湖の咽喉をやくし(Reco注)、東海道の西部の関門にあたるからである。義定らの防禦陣地は、いまの新居町よりもすこし南方の現在の浜名湖今切あたりの方が地の利をえていたように思われる。

(Reco注)喉を扼して背を拊つ(のどをやくしてせをうつ):.前から喉を締めつけ、後ろから背を打つ。急所を攻めて身動きできないようにすること。

②「承久の乱」

■『吾妻鏡』「承久3年(1221年)5月30日」条
承久三年五月大晦日癸丑。相州、着遠江國橋本驛。入夜、勇士十余輩、潜相交于相州大軍、進出先陣。恠之、令内田四郎尋問之處、候于仙洞之、下総前司盛綱近親・筑井太郎高重、令上洛云々。仍、誅伏之云々。

(承久3年(1221年)5月30日。相模守・北条時房は、遠江国橋本駅に着いた。夜になって勇士10数人が、密かに相模守・北条時房の大軍に紛れ込み、先陣へ進んできた。これを不審に思い、内田四郎に尋問させたところ、仙洞(後鳥羽上皇)の側につこうとして、小野盛綱の親類の筑井高重が上洛するところであることが分かった。そこで彼らを殺したという。)

■『承久記』承久3年(1221年)6月30日
以上一万五千五百余騎、六月の晦、各都を出て、尾張の瀬々へとぞ歩ませける。海道の先陣、相模守、遠江の橋本に著けるに、「十九騎連れたる勢の高志山へ入りぬ」と申しければ、相模守、「如何なる者なれば、先陣を越えて先様に通るやらん」。遠江国住人・内田四郎が申しけるは、「駿河守殿、已に敵大勢に紛れて、如何様にも通る事も有らんずるぞ」と宣ひつるなり。相模守、「さることもや有らん。されば各、追い懸けて、敵か味方か尋ねきき、敵ならば打ちて進らせと」とぞ仰せける。内田四郎、同六郎、新野右馬允、是を始めとして、六十余騎追い懸けたり。 十九騎続いたる勢、高志山をも馳せ過ぎて、宮路山へ打ち懸かり、音羽河の端に下り立ちて、「今はさりとも、続く敵よりもあらじ」とて、馬の足、冷えさせて、片なる岳に扇開きつ使うて休みける処に、内田の者共、馳せ来て、谷を隔て控へつつ、使者を以ていはせけるは、「如何なる人なれば、先陣を越えて通り給ふぞ。敵か味方か承れ」とて、「相模守殿の御使に、遠江国の住人・内田の者共が参りて候なり」といはすれば、「まこと候。下総守の輩に三浦筑井四郎太郎と申者にて候。坂東に用事の有りて下り候つるが、都に事出来たると奉って、大勢に掻い紛(まじ)れてや上り候とて、通り候つるに、見付られ進らせ候けり。運の窮る所力及ばず。但し、一人もきたなき死はすまじき物を。各、相近に寄れよ」と申されければ、 内田の者共、六十余騎にて押し寄たり。

(〔大意〕相模守・北条時房は、遠江国橋本駅に着いた。19人が、北条時房の大軍に紛れ込み、先へ進んだのを見た北条時房は不審に思い、「敵か味方か調べよ」と内田四郎に追わせた。19人は高師山を過ぎ、音羽川で馬を休め、宮路山に登って休んでいると、内田四郎が追いついた。谷を隔てて聞くと「筑井高重である。関東に用事があって下向したが。都に用事ができて上洛するところである。大勢に混じれば見つからないと思ったが、見つかったか。では、勝負」と言うので、攻めた。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/915132/173

③「中先代の乱」の前哨戦「橋本合戦」の時の北条方の砦

■『梅松論』
先代方の勢、遠江の橋本を要害に搆て相支る間、先陳の軍士・阿保丹後守、入海を渡して合戦を致し、敵を追ちらして其身疵を蒙る間、御感の余に其賞として家督安保左衛門入道道潭が跡を拝領せしむ。是をみる輩、命を捨ん事を忘れてぞいさみ戦ふ。当所の合戦を初として(後略)

(北条時行軍が、遠江国橋本に要害(砦)を搆えて待機すると、足利尊氏軍の先陣の武将・安保光泰が、入り海(浜名川の河口部の帯の湊)を渡って「橋本合戦」となり、安保光泰は、その身に疵(きず)を蒙(こうむ)るも、敵(北条時行軍)を追い散らした。この戦いぶりに感動した足利尊氏は、安保光泰に勲功地として(嫡男が北条時行側についた)安保経泰の遺領(本領と承久勲功地からなる安保宗家の旧領)を安保光泰に与えて安保宗家を継がせたので、これを聞いた足利尊氏軍の武将たちは、我も、我もと命を惜しまず戦った。そして、この「橋本合戦」を皮切りとして(後略))

学者によれば、「橋本砦はない」という。この言葉の意味は、
・平地にあったのであれば、津波で流されて遺構はない。
・山地にあったのであれば、源太山が最適の地だが、源太山は切り崩されて遺構はない。
だという。

今回、中村美代子画伯の水彩画を拝見して「おお!」と思った。

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中村美代子画「橋本合戦」

 教恩寺!!!
 お寺を本陣に転用するってありかも。

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教恩寺楼門

■「教恩寺」
教恩寺は正安二年(1300)の創立といわれています。文明年中(1469~1486)に、鎌倉公方足利持氏より寺領を与えられましたが、天正年中(1573~1591)に火災に遭って焼失しました。その後、古い由緒をもつ寺として徳川家光より慶安元年(1648)に朱印地を与えられ、叙位任官色衣勅許の寺格を有し、明治維新まで続きました。
現在の本堂は応賀寺の下寺だった堂宇を明治6年(1873)に移築したもので、山門は新居地区では珍しい楼門二階建です。境内には名松「見返りの松」があり東海道を旅する人々が宿を離れて名残を惜しんだ松とされていました。また境内の「大イチョウ」は、根元に大枚の金子が埋められているということで「橋本が困ったらイチョウの下を掘れ」という言い伝えがありました。しかしながら現在は、両木とも枯死しています。
https://hamanako-kosai.jp/location/1166/

 教恩寺は1300年に創建というから、和田義盛(1213年没)は教恩寺を見てないないけど、1335年の「中先代の乱」の時には存在していますね!

画像3
中村美代子画「紅葉寺」

 橋本でお寺といえば、紅葉(もみじ)寺です。

・?寺:妙相が、高野山神谷殿の毘沙門天立像を本尊として創建。
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・紅葉寺:1432年、足利義教が紅葉を見たので改名。
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・荒廃:毘沙門天立像は高野山真言宗の応賀寺へ。
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・本学寺:本学が蔵法寺の末寺として再興。本尊は地蔵菩薩。
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・廃寺

 紅葉寺山(高師山)には3段の平地があり、紅葉寺の遺構か、段々畑だと思ったのですが、よく見ると堀や土塁があるので、連郭式砦(3段)かなと。

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