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第20回「岡崎クーデター」(復習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月   徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄。
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
元亀4年(1573年)7月28日 天正に改元。
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日  大岡弥四郎、刑死(鋸挽きの刑)
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、自害(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
慶長3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長5年(1600年)9月15日  徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設
元和2年(1616年)4月17日  徳川家康、死没。享年75。


 今回のドラマは、史実と異なることが多かったので、歴史系ブロガーさんやYou Tuberさんたちにとっては、語りたいことが多すぎて大変だと思う。

■井伊直政の仕官と初手柄

 井伊直政と徳川家康との出会いは、天正3年2月15日の初鷹野の時であるが、このドラマでは、井伊直政が女装して徳川家康を襲ったことに変えられた。

※初鷹野:その年の初めての鷹狩り。冬は獲物がいないので、鷹狩りはお休み。春になって「さぁ、鷹狩りだ」と、徳川家康のテンションが最高潮の日、徳川家康の1年で最も気分が良く、何を頼んでも快諾してもらえそうな日を狙った。

 二月。神祖、鷹を浜松城下に放つ。一童子の容貌閑雅なるを見、「誰れの子か」と問ふ。対へて曰はく、「小子萬千代なり。井伊肥後守直満の孫、肥後守直親の子なり。継父・松下源次郎に依り城下に在り」と。神祖、之を問ひ、驚き、即ち、城に召し入る。井伊谷旧邑を賜ひ、三人衆を以て部属故の如くに為す。(按ずるに、「井伊谷三人衆」近藤康用、鈴木重時、此の時既に死す。康用子・秀用、重時子・重好、家を嗣ぐ。唯だ菅沼忠久存没考する所無し。)
 又、木俣清左衛門守勝、椋原次右衛門、西郷藤左衛門をして之を保護せしむ。萬千代、時に十五歳。 名は直政(後任兵部少輔。至従四位下侍従。為江州佐和山城主)長じて将帥の器有り。遂に元勲良佐と為る。

『烈祖成績』

「武田家に仕えたいのではなかったか?」
と徳川家康に聞かれた井伊直政は、
「武田に行ったら凄いのが一杯いて、出世できそうにありません」
と答えた。確かに井伊直政は、徳川家臣団の中で、異常なスピードで出世している。
「スピード出世という史実を上手く取り込んだな」
と、脚本に拍手したい気持ちではあったが、仕官の理由は、

──武田信玄は稀代の忍人(むごい行いを平気で行う残酷な人)である

ことに気づいたのであろう。武田信玄は、遠江侵攻前は、望月千代に金を撒かせて遠江国の国衆を調略したが、遠江国に侵攻した武田信玄は、忍人であった。「三方ヶ原の戦い」後、「野田城攻め」に向かう途中、通り道の井伊直政の故郷・井伊谷を焼いている。現在、大河ドラマ『おんな城主 直虎』を視た観光客が井伊谷の龍潭寺を訪れているが、今の龍潭寺の建物を井伊直虎は見ていない。龍潭寺は武田信玄によって焼かれ、再建されたのは井伊直虎の死後の江戸時代のことである。
 話がそれたが、自分の故郷を焼け野原に変えた人物に仕官しようと思うはずがない。

 井伊直政の初手柄は、芝原の陣小屋で寝ていた徳川家康を襲った忍者・近藤武肋を討ち取ったことである。このドラマでは、寝ている松平信康を襲った大岡一味との対決に変えられた。
「史実と似たシチュエーションを使ったな」
と、脚本に拍手したい気持ちではあったが、井伊直政が仕官前という設定には無理がある。なお、『井伊家伝記』によれば、井伊直政の初手柄は天正4年の春のことだというから、1年後のことである。

天正3年(1575年)2月15日 井伊直政、徳川家康に仕官
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)3月末    「大岡弥四郎事件」を未然に防ぐ。
天正3年(1575年)4月3日  大岡弥四郎、刑死(鋸挽きの刑)
天正4年(1576年)春    井伊直政、芝原で初手柄

一、天正四年の春、甲州勝頼、遠州高天神近所柴原にをいて御合戦の時、権現様、陣小屋の中に御休息遊ばされ候所に、夜中、忍びの敵・近藤武肋と申す者を、直政公、御次の間にて御討ち取りなられ候故、権現様、殊の外御悦にて御感斜めならず。則ち、十倍の御加増にて三千石に仰せ付けらるなり。

『井伊家伝記』

■大岡弥四郎事件

 家康公三十四の御歳に、御譜代久しき御中間に大岡弥四郎といふ者ありけるが、彼の者に奥郡の代官をさせ給ふ処に、其の身、富貴にして栄花のあまりに逆心を企て、爰かしこの悪党をかり集めて、「まづ足助の城を忍び取り、勝頼を岡崎へ引いれん」と調をする処に、与党の内より山田八蔵と云ふ者、裏返り、逆心あらはれ、かの弥四郎父子夫婦以上八人搦め取り、磔にかけさせ、其の外、同類残らず御成敗ありて、当人・弥四郎をば浜松、岡崎引き渡し、岡崎の四ツ辻にて首際迄掘り埋め、竹鋸にて往還の者共に三日引かせらる。其の時、勝頼は二万余騎を引卒して布施地迄出張あり。調を顕れ略相違しければ、それより二連木へ働き給へば、家康公は吉田へ御馬をむけ給ふ。信康は山中法蔵寺に御馬を立て給ひ、はじかみ原にて烈足軽の迫め合ひありて、勝頼引き上げ、長篠へ押し寄せ、奥平父子が楯籠る城郭を七重、八重に取り巻き、息をもつかせず責める也。

『岡崎記』

■武田勝頼、足助城から二連木城へ。そして、長篠城へ。

 さて又、勝頼は、御出馬有りけれ共、此の事、顕れて、調儀違ひければ、其れ寄り押し出して、二連木へ働き給ふ。其の時、信康の御馬(「御旗」の誤り?)は、山中の法蔵寺に立てて、御陣の之とらせられ給ふ。家康の御旗は、吉田に立てて、薑(はじかみ)原にて、はげはげ敷く足軽有りて、勝頼は其れ寄り引き給ひて、長篠へ倍(よせかくる)。則ち、城を責めさせ給へば、家康、信康、両旗にて野田へ押し寄せさせ給ふ。

『三河物語』

 さて、武田勝頼は、作手(愛知県新城市作手)まで攻め寄せていたが、大岡弥四郎の「岡崎クーデター」が露見して作戦が失敗したので、作戦を変更して二連木城(愛知県豊橋市仁連木町)を攻めた。この時、岡崎信康は山中(愛知県岡崎市舞木町山中町)付近の法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町)に旗を立てて陣を敷き、徳川家康は、吉田城(愛知県豊橋市今橋町)を本陣にした。この後、二連木城と吉田城の間の「薑(はじかみ)ヶ原」で、超激しい足軽戦「薑ヶ原の戦い」が繰り広げられた。武田勝頼は軍隊を引かせ、長篠へと向かった。そして「長篠城攻め」を始めると、徳川家康と信康父子は野田で合流した。

※薑御園(はじかみみその):二連木城の西(吉田城方面)の東田神明宮(愛知県豊橋市御園町)付近。伊勢神宮(外宮)の御神領で、薑(生姜)を栽培し、伊勢神宮に奉納していたという。



★今後の『どうする家康』

・第21回「長篠を救え!」(6/4)
・第22回「設楽原の戦い」(6/11)
・第23回「瀬名、覚醒」(6/18)
・第24回「築山へ集え!」(6/25)

※ノベライズ3巻は6月下旬、4巻は9月発行予定です。


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