相良の領主の変遷
■荘園→武士
静岡県牧之原市┳相良荘(相良郷、大江郷)→相良氏領(相良城)
┣勝田荘(神戸郷、勝田郷)→勝田氏領(勝間田城)
┗初倉荘(坂口郷、細江郷)→皇室領→南禅寺領
・勝田氏は横地氏(源義家の子孫だと自称)の分家
・相良氏は藤原氏
★相良氏系図(『求麻外史』) ※求麻=球磨
藤原鎌足…藤原時理┳伊東時信【伊東氏の祖】
┗相良①維兼─②維頼─③周頼─④光頼─⑤頼寛─⑥頼繁※
※┳相良⑦頼景(肥後国球磨郡多良木荘へ)─⑧長頼…
┣伊東頼堯【日向伊東氏】
┗井伊直孝【東遠井伊氏(嶺田井伊氏)の祖】(高天神城主)
※通称「井伊介」。鎌倉時代、横地氏、勝田氏と共に活躍。
※井伊直政を輩出した西遠井伊氏(井伊谷井伊氏)は断絶。
新たに京都から九条家(藤原北家)の人間を呼んで再興。
なお、相良周頼(かねより)には子がなく、伊東祐光の次男・光頼を養子として家督を継がせている。
■鎌倉時代(相良宗家、九州へ)
相良氏は、鎌倉幕府に仕えるようになった。
建久4年(1193年)、相良⑦頼景は、肥後国球磨郡多良木荘を賜った。
元久二年(1205年)7月、相良⑧長頼は、征夷大将軍・源実朝の命により、北条義時に従って武蔵国二俣川で畠山重忠を攻め(「二俣川の戦い」)、その戦功により、平家没官領の肥後国球磨郡人吉庄の地頭職に補任された。
※多良木荘(上球磨)の相良氏は「上相良氏」、人吉荘(下球磨)の相良氏は「下相良氏」、相良荘に残った相良氏は「遠江相良氏」と呼ばれる。
■南北朝時代
宗主・上相良経頼は菊池氏に通じて南朝方に属し、人吉の下相良頼広&定頼父子は北朝方につき、対立関係となった。その後、南朝の旗色が悪くなり、正平元年(1346年)、上相良経頼は北朝方に帰順した。かくして、下相良氏は、上相良氏を圧倒するようになった。
■室町時代
文安5年(1448年)、下相良長続が上相良氏を滅ぼし球磨を統一した。
■戦国時代
本貫地の相良は、この地域は進出してきた今川氏、武田氏、徳川氏の戦乱の舞台となった。
九州では、薩摩国の島津義久が侵攻してきて、相良氏は島津氏の指揮下に入ったが、豊臣秀吉の島津征伐が開始されると、豊臣秀吉に服属を誓い、相良氏は豊臣大名の一人となった。
慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦い」には、はじめ西軍にあったが、秋月種長らと東軍に転じ、本領を安堵された。しかし、後ろめたくも、石田三成の供養塔を「関ケ原の戦い」直後に建てるのは無理であったろう。「関ケ原の戦い」後の33回忌に、相良氏の菩提寺・願成寺の墓所に、石田三成の供養塔を建てた。
■江戸時代
九州の相良氏は、江戸時代を通じて、人吉藩2万2000石の藩主家として存続した。
本貫地・相良の相良城には、宝永7年(1710年)、本多忠晴が三河国伊保藩より1万5000石で入って「相良藩」を立藩した。
藩主の中で、最も有名なのは田沼意次である。田沼意次は、城下町の整備、「田沼街道」の整備、農工生産、商業活動の推進を行った名君であるが、相良に住んでいたのは、たったの6日間だという。
田沼意尊の代に明治元年(1868年)を迎え、廃藩となった。