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聖徳太子信仰(2/2)南岳取経説話

■『聖徳太子伝略』「遣隋使の派遣」(南岳取経説話)

【原文】十五年丁卯夏五月、太子奏曰、「臣之先身、修行漢土。所持之經。今在衡山。望遣使將來、比挍所誤之本」。天皇大竒、左之右之依奏。「誰合使乎」。太子遍相百官之人、奏曰、「大禮小野臣妹子合相」。秋七月、妹子等遣於大隋。

【書き下し文】十五年丁卯夏五月、太子、奏して曰く、「臣が之先身に漢土に修行して持せし所の之經、今衡山に在り。望らくは使を遣して將來し、誤る所の之本に比挍せん」と。天皇、大に竒(き)とし、「左之右之(ともかくも)奏するに依らん。誰を使はす合(べ)きや」と。太子、遍く百官の人を相して、奏して曰はく、「大禮小野の臣妹子相に合(かな)へり」と。秋七月に、妹子等を於大隋に遣す。

【現代語訳】推古天皇15年5月、聖徳太子が推古天皇に申し上げるには、「私の前世・南岳大師慧思(思禅師)が、中国で修行していた時に持っていた『法華経』が、今、衡山(中国湖南省衡陽市)にある。願わくば、使者を遣わして将来(外国から持ってくること)し、今持っている誤った『法華経』と比挍(比較)してみたい」と。推古天皇は、大変奇妙な事だとしながらも、「ともかく、申し出に従おう。誰を使者にしたら良いか」と。聖徳太子は、遍(あまね)く百官(諸々の役人)の人を相して(人相をみて判断して)申し上げるには、「小野妹子(姓は臣。冠位は大徳)が相に適っている」と。7月、小野妹子等を隋に遣わした。 

 源実朝の渡宋の目的地・育王山は、「舎利信仰」の聖地である。聖徳太子(前世は南岳大師慧思)が隋に使者を送って『法華経』を得たので、源実朝(前世は医王山阿育王寺の長老)も宋に使者を送って仏舎利を得ようとしたのかもしれない。

■これまでの聖徳太子関連記事

初花が誠、木像を感ぜしめ、聖徳太子、現形ましまし、契りをかわし給ふ。(『泉親衡物語』)
聖徳太子、威力をあらわして、捕手を辟易せしめ給ふ。(『泉親衡物語』)


・「『泉親衡物語』を読んでみた。」
聖徳太子が大活躍!
https://note.com/sz2020/n/na74e68ccaae1

・「三河国の聖徳太子伝承」
真言律宗→浄土真宗が中心であるが、それ以外にも・・・。
https://note.com/sz2020/n/n67772ab60287

・「物部真福と真福寺」
「毘沙門天の生まれ変わり」とされる物部守屋の次男・物部真福が、聖徳太子の支援で「聖徳太子46ヶ寺・真福寺」を建てた。
https://note.com/sz2020/n/necc2e5b4eb0e

・「Reco旅 -新居⑤応賀寺-」
橋本宿の長者・妙相が聖徳太子の御廟「叡幅寺」に詣でると夢告があり、「聖徳太子の生まれ変わり」とされる空海が開いた高野山へ行き、毘沙門天立像と仏舎利2粒を得て、橋本に紅葉寺を建てた。(紅葉寺は廃寺となり、毘沙門天立像は応賀寺にある。応賀寺の団扇や扇子も紅葉寺にあったものであろう。)

 

※石井公成「聖徳太子研究の最前線」
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog

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