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『歴史道』「古代史の謎を解く!」②『古事記』『日本書紀』の真実

───なぜ『日本書紀』と『古事記』があるのか?
───なぜ『日本書紀』と『古事記』では内容が異なるのか?


1.『歴史道』を読む前の私の認識


───なぜ『日本書紀』と『古事記』があるのか?

『日本書紀』は「紀」(各天皇の事蹟を記録した歴史書)であり、『古事記』は「記」(物語)であるので、2つあっても問題ない。

───なぜ『日本書紀』と『古事記』では内容が異なるのか?

稗田阿礼が語り、太安万侶が聞き書きした私署が『古事記』。
複数の本を読み、比較検討して書かれた公文書が『日本書紀』。
ようするに、『日本書紀』と『古事記』の異なる部分は、『日本書紀』が『古事記』の記述を採用せず、他の本の記述を採用した部分である。

(1)私の考え

 『古事記』偽書説が存在する。これには、
①序文のみ偽書
②本文も偽書
がある。
 
 私は、『古事記』は、「古史古伝」と呼ばれる『先代旧事本紀』や『秀真伝』と同レベルの本であり、「古史古伝」が偽書だというのであれば、『古事記』も偽書であろうと考えている。

 ただ、「古史古伝」は、我が家(『先代旧事本紀』では物部家)ではこう言い伝えられていますという本であって、史実でないことが書かれているからといって「偽書」とするのはいかがなものかと思う。「そのように言い伝えられている家もあるのか」程度の受け止めでいいのではと思う。

 『古事記』が「古史古伝」に入れられない理由は、序文に天皇の要請で制作したとあるからであるが、はたしてこの序文は・・・

(2)「聞き書き」

 稗田阿礼が語り、太安万侶が「聞き書き」した本が『古事記』である。
「聞き書き」が多く書かれたのは、戦国時代直後である。内容は、「Aの戦いの様子は・・・と伝えられているが、実際は・・・であった。これはその戦に参戦したBに聞いたから確かである」といった類である。

それ以て古きより、天下の武将を知るに、何れの祖、何れの姓と云ふ事、書に顕れずと云ふ事無し。然るに、明智日向守、信長公を殺し、天下を知るといへども、秀吉が為に亡くなられ、遺跡、已に絶えて、何れの姓祖より分かるると云ふ事、知る人無し。清和源氏の的々、頼政の末葉、土岐頼重、始めて明智氏名乗りける。

『明智物語』序

 たとえば、明智光秀の出自は謎とされているが、土岐明智定明の家臣・森秀利が語り、『明智物語』としてまとめられている。その序文には、上掲のように、天下人の素性は知られるものであるが、明智光秀は三日天下で、知られる前に亡くなったとあり、本文には出自が書かれているが、学者は「江戸時代に書かれた『明智軍記』の記述内容とは異なる」として偽書扱い、無視している。

(3)私の妄想

 『古事記』については、稗田阿礼が暗記できる量ではないので、稗田阿礼がが漢文で書かれた原典を読み、太安万侶が記録したのではないかという、
 まぁ、そういう現実的な話も良いが、私はロマンチックに考えたい。
 太(大、多)氏といえば、日本最古の官社とされる大神神社の宮司家である。大神神社には神代文字で書かれた歴史書があり、誰も読めなかったが、稗田阿礼が読めるというので、読んでもらって太安万侶が記録した太氏の言い伝え「古史古伝」ではないかと妄想している。

(4)私の疑問

 ネット上の古代史の記事や動画を拝見すると「『古事記』に・・・と書いてある」としている。『日本書紀』と『古事記』の記述内容が異なる場合、正史である『日本書紀』の記述を採用すべきであるのに、『古事記』の記述内容が採用されている。
 この理由が不明であったが、どうも「『日本書紀』は中国人も読む公式文書なので、為政者によって歴史が改ざんされているが、『古事記』は門外不出の私的な文書なので歴史が改ざんされていないからだ」ということらしい。これは『古事記』の権威付けのために後に付け加えられた「序文」(『日本書紀』には序文が無い)を信用しすぎているように思われる。正しい歴史が書かれているのであれば、邪馬台国や卑弥呼について書かれているはずである。

 あと、疑問としては、『日本書紀』という書名である。
 古文書を読んでいると『日本紀』とある。『源氏物語』の作者の紫式部は「『日本紀』の君」と呼ばれていたという。なぜ「『日本書紀』の君」ではないのか?

■記紀について



2.『歴史道』を読んでみた。


 同じ天皇が同時期に2冊の歴史書を書かせるとは思えない。
 『日本書紀』は間違いなく正史であるから、『古事記』の序文を疑わざるを得ない。『古事記』は「稗史を権威化しようとして天武天皇に仮託した」偽書であろう。

 中国の歴史書は、『隋書』『唐書』『宋書』『漢書』・・・で、日本の歴史書は『日本書』である。歴史書の内容は「紀」「志」「伝」であり、『日本書紀』は『日本書』の「紀」、つまり『日本書 紀』であり、『日本 紀』と略称で呼ばれていた。

■『古事記』偽書説

 『古事記』には、近世(江戸時代)以降、偽書の疑いを持つ者があった。賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義、中沢見明、筏勲、松本雅明、大和岩雄、大島隼人、三浦佑之、宝賀寿男らは、『古事記』成立が公の史書に記載がないことや、序文の不自然さなどへ疑問を提示し、偽書説を唱えている。
 偽書説には主に二通りあり、序文のみが偽書とする説と、本文も偽書とする説に分かれる。以下に概要を記す。
 序文偽書説では『古事記』の序文(上表文)において語られる『古事記』の成立事情を証する外部の有力な証拠がないことなどから序文の正当性に疑義を指摘する。また稗田阿礼の実在性が非常に低いことや、編纂の勅命が出された年号の記載がないこと、官位の記載や成立までの記載が杜撰なことから偽書の可能性を指摘している。なお「偽書」とは著者や執筆時期などの来歴を偽った書物のことであるから、その意味では序文が偽作であれば古事記は「偽書」ということになる。もちろん、その場合も本文の正当性は別の問題である。
 本文偽書説では、『古事記』には『日本書紀』より新しい神話の内容や、延喜式に見えない神社が含まれているとして、より時代の下る平安時代初期ころ、または鎌倉時代の成立とみなす。この説には後世に序文・本文の全部を創作したとする説と、『日本書紀』同様の古い史料に途中途中「加筆」し続けたものとする説がある。また『新撰姓氏録』でも『古事記』本文に登場する系譜伝承が引用されていないなど、その成立に不審な点が多々ある。
このうち、本文偽書説のうち少なくとも『万葉集』『日本書紀』以降に全部を創作したとする説は上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。上代特殊仮名遣の中でも、『万葉集』『日本書紀』では既に消失している2種類の「モ」の表記上の区別が、『古事記』には残存するからである。なお、序文には上代特殊仮名遣は一切使われていない。ちなみに、序文が後代の創作であれば、年代の分かる最古の『古事記』の出現記録は、904年の延喜の日本紀講筵からとなり、これは日本書紀が完成したとされる年の約2世紀近く後のこととなる。もっとも、『古事記』や『万葉集』には『日本書紀』と異なる傾向があって必ずしも音に寄るとは限らないとする指摘もあり、また、音の場合であっても、多くの区別が畿内でも8世紀後半以降しだいに曖昧になったものの、地方では『万葉集』の東歌や防人歌の伝える東国方言ではかなり後まで多く2類の混同がみえることから、擬古文のような可能性も考えれば一概に断定できない。
 序文偽書説の論拠に、稗田阿礼の実在性が低く、太安萬侶のような姓の記載がないことが国史として不自然であること、官位のない低級身分の人間を舎人として登用したとは考えられないこと、編纂の勅令が下された年の記載がないこと、『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、『古事記』序文のみ「太安萬侶」と異なる表記になっていることがあった。ところが、1979年(昭和54年)1月に奈良市此瀬(このせ)町より太安万侶の墓誌銘が出土し、そこに
  左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
  年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳[注釈 7]
とあったことが判明し、漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。しかし、偽書説においては太安萬侶の表記の異同が問題ではなく、安萬侶自身が『古事記』編纂に関与したことが何ら証明されていないことが問題とされる。
 その後、平城京跡から出土した、太安万侶の墓誌銘を含む木簡の解析により、『古事記』成立当時には、既に『古事記』で使用される書き言葉は一般的に使用されていたと判明した。それにより序文中の「然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。」は序文の作成者が当時の日本語の使用状況を知らずに想像で書いたのではないかと指摘されている。
 その他、平安時代にならなければ書けないことがあるため、少なくとも序文については平安時代の9世紀初頭に書かれたとの説が有力ともみられている。そうなると、本文もいつ頃できたのかは序文以前の9世紀初頭以前という他なくなる。中川右京は、三巻構成の「古事記」において神話と切り離したとみられる「下つ巻」は第16代仁徳天皇からで実在性が戦後の学会でも認められている第15代応神天皇に近いこと、古史古伝のように神代文字でないこと等、あまりに異状な点はないことを認めつつも、偽史偽書とまで断定しないながら信頼性は結局古史古伝並みのものでしかないとしている。
 また、『古事記』が編纂された時期の正史とされている『続日本紀』は、元々は全30巻で編纂されていたものが途中で全20巻に変更された結果、原稿から相当の記述が削除もしくは圧縮された後の姿が現在の『続日本紀』になったと考えられている。この際に『古事記』に関する記述も元の原稿には記載されていたものの、全20巻にする過程で完成記事も含めて削られてしまったことも十分考えられる。これは『日本書紀』に関しても同様で、こちらには完成した事実を示す記述があるもののの、本来ならば記述されるべき舎人親王が『日本書紀』の編纂責任者となった経緯を示す記事や完成時に天皇に出された筈の上表文、完成後に行われた筈の編纂関係者への褒賞に関する記事が載せられておらず、不完全な記述に留まっている。つまり、『続日本紀』編纂における分量圧縮の過程で『古事記』に関する記事が省略された可能性がある以上、史書への記述の有無によって偽書説の決定的な根拠にはなりがたいことを示している。ただし、いずれにせよ古事記の存在を示す根拠が他に全くないという点には変わりがない。
 815年(弘仁6年)に撰録された『新撰姓氏録』はその序の中で編集方針について、「本系で漏れているものは古記でおぎない、また本系と古記とに異動のあるものは、古記を正しいものとして判定し、古記の蒐集には非常に努力が払われた」ことが記されている。ところが、『古事記』は系譜において『日本書紀』よりもはるかに詳しく記載しているにもかかわらず、『新撰姓氏録』は『古事記』を参考資料として全く校合しなかった事実から、少なくとも『新撰姓氏録』が世に出た弘仁6年までは、『古事記』は存在しなかったか、存在しても少なくとも信頼性のある書物とは見られていなかったと考えられる。
 『古事記』の歴史書としての評価は、904年の宮中で開かれた日本紀講筵で講所の博士の藤原春海が、日本の史書の初めは『古事記』でこれが『日本書紀』の原本にもなったとしたことに始まる。ほぼ30年おきに開かれていた日本紀講筵では専ら『日本書紀』の訓読法と文意を講義するものである。なお、このとき藤原の補助を務めた矢田部公望は、約30年後の次の承平の日本紀講筵で講所の博士となり、今度は聖徳太子勅撰の『先代旧事本紀』こそが史書の初めであり、これこそが『日本書紀』や『古事記』に先行するとあらたに主張し始めている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■感想


『古事記』を偽書と断言し、古代史は偽書『古事記』ではなく、『日本書紀』で語るべきとする提言は潔いと思いました。

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