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六甲山の神と怪物

 真名井御前が六甲山に寺を建てようとすると、邪魔をする神と怪物がいた。

 六甲山の神仏といえば、弁才天(瀬織津姫命)で、真名井御前に協力的だったはずだが・・・。

 邪魔する神は、火を吹く大鷲の姿で現れ、寺を焼こうとしたという。真名井御前が空海に相談すると、
「それは六甲山の地主神で、磐座の上に祀ってあげればいい」
とアドバイスされ、そうすると、鎮守・伽藍神になったという。

 分かり易く言えば、真名井御前は、人の家に勝手に入り込んで、庭に寺を建てようとしたので、家主が怒ったということである。(真名井御前は、入山前に廣田神社を参拝しているし、入山時に現れた弁才天(瀬織津姫命)に挨拶したので、寺を建てても問題ないと思い込んでいたようである。)

 仏敵の怪物は、黒雲の中から現れては邪魔をする。(史実は、「台風が修行の邪魔をした」ということであろうか?)この怪物は「八面臂」とあり、名前が書かれていないので、検索のしようがない。「八面六臂(八つの顔と六本の腕)の活躍」という言葉なら聞いたことがあるが・・・「八面臂」の腕は何本だろう?

 山陰地方の鬼神「塵輪(じんりん)」の事かなと思った。山陽地方では「牛鬼」に変身したという。

佐脇嵩之『百怪図巻』の「うし鬼」

「牛鬼」と聞くと、「牛」というより「蟻地獄」のような「一面六臂」の絵があまりにも有名で、「八面臂」とは結びつかないが、岡山県の伝説に、

 牛窓町(現・瀬戸内市)に伝わる話では、神功皇后が三韓征伐の途中、同地にて塵輪鬼(じんりんき)という頭が八つの大牛姿の怪物に襲われて弓で射殺し、塵輪鬼は頭、胴、尾に分かれてそれぞれ牛窓の黄島、前島、青島となった。
 皇后の新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼に化けて再度襲い掛かり、住吉明神が角をつかんで投げ飛ばし、牛鬼が滅んだ後、体の部分がバラバラになって黒島、中ノ小島、端ノ小島に変化したという。牛窓の地名は、この伝説の地を牛転(うしまろび)と呼んだものが訛ったことが由来とされる。
 また、鎌倉時代に成立した八幡神の神威を紹介する神道書・『八幡愚童訓』にも塵輪(じんりん)という鬼が仲哀天皇と戦ったことが記されており、先述の伝承の由来とされる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

とある。


 無知なることは怖いもので、さらなる調査により、「八面臂」は鷲林寺(じゅうりんじ。兵庫県西宮市鷲林寺町)荒神堂に祀られている「麁乱荒神(そらんこうじん)」(廣田神社の御祭神・撞賢木厳魂天疎向津姫 (瀬織津姫)の化身、または眷属神)だということが分かった。(ちなみに、瀬織津姫は、黒雲の中から白龍に乗って現れる。)

 鷲林寺略縁起
 當寺は人皇五十三代淳和天皇の勅願にて天長十年(833)弘法大師空海により開創された真言宗の寺院です。
 観音霊場を開こうと地を求めて旅をしていた大師が廣田神社に宿泊されていたとき、夢枕に仙人が現れこの地を教示されました。それに従い入山したところ、途中でこの地を支配する「ソランジン」と呼ばれる大鷲が現れ、火焔を吹き大師の邪魔をしました。大師は木の枝を切り、湧き出る清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めました。その霊木で本尊十一面観音像並びに、伽藍守護神として鷲不動明王を刻み、寺号を『鷲林寺』と名付けられました。
 また、大鷲に化けた「ソランジン」は麁乱荒神としてまつられました。その後貴族寺院として大いに栄え、盛時は寺領七十町歩・塔頭七十六坊の大寺院に成長し、その寺領が鳴尾地方にまで及んでいたことが古文書などによって伺えます。しかし、戦国時代に入り寺領は侵略押収され、天正六年(1578)十一月に荒木村重の乱が起こり、それを期に翌七年織田信長軍のために諸堂塔はすべて焼き滅ぼされてしまいました。本尊をはじめとする仏像は瓶に入れ地中に埋め隠されていたため兵火から逃れることができました。後に掘り出され小堂宇を建立し観音堂としましたが、その後も幾多の山津波や火災に遭い、無住の時代が長く続きました。昭和の時代に入りようやく復興され始め現在に至っています。
 また時期は不詳ですが、武田信玄が僧侶になるため得度をし、その頭髪を埋めたという伝説がある七重の石塔があり、西宮市の指定文化財に指定されています。

現地案内板

手水舎の蛇口が、龍ではなく大鷲!!!


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