遠州忩劇(遠州錯乱)-井伊氏と飯尾氏-
「三河一向一揆」は、徳川家康の3大危機の1つであり、今川氏真が攻めてきたら、徳川家康は討ち死にしていたであろう。
今川氏真が三河国の徳川家康を攻められなかったのは、彼が「遠州忩劇(遠州錯乱)」と呼んだ反乱(永禄5年(1562年)から永禄9年(1566年)までの遠江国の国衆(井伊氏、天野氏、飯尾氏など)の今川氏からの離反)が(本拠地・駿河国と三河国の間の)遠江国で起きていたからである。
■略年表
永禄5年(1562年) 12月14日 井伊直親、掛川郊外原川で誅殺さる。
永禄6年(1563年)10月 「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)12月20日 今川氏真、飯尾連竜を誅殺
永禄9年(1566年)1月6日 松平家康、引間城家老・江馬に誓書を与える。
永禄9年(1566年)5月 松平家康、東三河を平定し、三河国平定成る。
永禄9年(1566年)12月29日 「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。
永禄11年(1568年)12月 徳川家康、遠江国へ侵攻開始(引間城落城)
■井伊直親(なおちか)
「遠州忩劇」(永禄5年(1562年)~永禄9年(1566年))は、「徳川四天王」井伊直政の父・井伊直親の徳川家康への内通に始まるという。
『井伊家伝記』等によれば、徳川家康と井伊直親は、遠江国と三河国の国境で、「鹿狩」と称して何度も会っていたというが、西三河平定中の徳川家康が、今川領である東三河を越えて、遠江国へ行けるか疑問であり、これは下克上を企む家老・小野政次の讒言であろう。
『井伊直政御一代記』等によれば、謀反を今川氏真に疑われた井伊直親は、弁明のために駿府今川館に向った。駿府に着けば、新野親矩の尽力で赦免される手はずになっていたが、新野親矩の顔を立てて赦免としたことを口惜しく思っていたに今川氏真は、井伊直親暗殺の密命を掛川城主・朝比奈泰朝に出した。朝比奈泰朝は、やってきた井伊直親に「弁明は駿府で新野親矩がしているので、返事は原川の宿で待てという今川氏真のご命令である」と嘘をつき、宿を夜襲して井伊直親を討った。
■飯尾連竜(つらたつ)
永禄7年(1564年)2月、今川氏真、引間城を攻撃(「御家中諸士先祖書」)
永禄7年(1564年)3月、今川氏真、頭陀寺城を攻略(「都筑家文書」)
永禄7年(1564年)4月8日、飯尾連竜、徳川家康と対面(「東漸寺文書」)
永禄7年(1564年)9月15日、新野親矩、引間橋にて討死。
永禄7年(1564年)10月、今川氏真、飯尾連竜を赦免(「頭陀寺文書」)
永禄9年(1565年)1月6日、江間兄弟へ起請文
永禄9年(1565年)2月10日、徳川家康から江間加賀守時成へ起請文
飯尾長連┬賢連─乗連─連竜┬義広…御子孫(静岡県浜松市在住)
└為清 └正宅…御子孫(東京都渋谷区在住)
永禄6年(1563年)、今川氏真が1万人の軍を率いて「今川義元の弔い合戦」だとして東三河(佐脇城)まで進撃した時、飯尾連竜も従軍した。しかし、白須賀に布陣していた殿軍(最後尾)・飯尾軍の陣から火が出て、今川氏真は「放火だ、反乱だ」と判断して撤退した。
飯尾連竜の本拠地は引間城と頭陀寺城であった。永禄7年(1564年)2月、今川氏真は、引間城を攻撃させたが、落とせなかった。翌3月には、引間城の支城・頭陀寺城を落とした。
『井伊家伝記』等では、引間城主は高齢の井伊直平であり、若い飯尾連竜を城代としたとする。白須賀の殿軍の陣から火が出ると「挟み撃ちでは負ける」とし、今川氏真は、本坂峠を越えて駿府に戻り、「放火ではなく、強風で篝火が倒れての失火であって、反乱ではないのであれば、反今川の天野氏を攻めよ」と井伊直平に命令した。井伊直平は、永禄6年(1563年)9月18日、天野氏討伐に向う途中、有玉旗屋(静岡県浜松市東区有玉南町)で落馬して死亡した。一説に、出陣直前に於田鶴が飲ませた茶に毒が入れられていたという。
永禄7年(1564年)10月2日、今川氏真は詫び状を提出した飯尾連竜を赦免し、飯尾連竜が篭る頭陀寺城(静岡県浜松市南区頭陀寺町)の破却を命じることで事を収めた。
しかし、永禄8年(1565年)12月、飯尾連竜が再び松平家康に内通したことが発覚し、12月20日、飯尾連竜は駿府に呼び出されて処刑された。
飯尾連竜は駿府に行く前に「怪しい。何かあったら引間城は徳川家康に差し上げるように」と家老・江間兄弟に告げていた。江間加賀守時成は納得したが、江間安芸守泰賢は武田信玄に心を寄せていた。
◆引間城内部の派閥
・徳川家康派:城主・飯尾連竜、家老・江間加賀守時成
・武田信玄派:正妻・田鶴の方、家老・江間安芸守泰賢
◆「江間氏の祖」
説①江間小四郎近末:『鎌倉殿の13人』では江間次郎。江馬小次郎の父。
説②江間小四郎義時:後の北条義時。「江間太郎」とは北条泰時のこと。
説③江馬小四郎輝経:北条時政の妾(平経盛の妾)の連れ子。
説④江間義光:北条義時の孫(北条義時の次男・江間遠江守朝時の子)。
説⑤江馬遠江守光時、江馬孫四郎政俊:北条義時の弟・北条時房の子孫。
■『改正三河後風土記』
今川氏真は永禄6年(1563年)、1万人の軍勢を率いて出陣し、東三河の牛久保城(愛知県豊川市牛久保町)に陣取り、5000人の兵で一宮砦を攻めた。この時、神君・徳川家康公は、僅か2000の兵で出撃し、危機を救った。これを「一宮の退口」「神君一宮後詰」といい、「神君大高城兵糧入れ」と共に、「徳川家康二大武勇談」として語り継がれている。(この後の「佐脇城(愛知県豊川市御津町下佐脇郷中)&八幡砦(愛知県豊川市八幡町東赤土)の戦い」では、徳川家康は、「妻の先祖の関口家の墓には触れるな」と命じたので、関口家の墓は現存している。)
この時、引間城主・飯尾致実(連竜)は、既に徳川家康と内通していたので、「体調不良。引間城へ帰る」と言い、新居や白須賀の今川軍の陣に放火しながら帰城すると、今川氏真は、駿府に戻り、「すぐに飯尾致実(連竜)を捕らえて、放火の件を問い質せ」と言って小林砦(静岡県浜松市浜北区小林)を築いて井伊谷にいた新野右馬助親矩(「左馬助」の誤り)を大将に、兵3000人を入れた。ある日、引間城の東の引間橋で戦いが3度行われたが、3回目に大将・新野親矩は鉄砲で撃たれて(一説に矢で射られて)亡くなった。この日を『武徳大成記』では永禄5年4月とする(「神君一宮後詰」には永禄5年説がある)が、新野親矩の命日は永禄7年9月15日である。
今川軍が敗れて、今川氏真は益々怒り、すぐに朝比奈泰能、瀬名親隆、瀬名氏範、朝比奈秀盛等を送ったが、引間城は落ちなかった。この時、飯尾致実(連竜)は、「誰かの讒言により、徳川家康に内通しているとか、今川軍の陣に放火したとされているが、無実である」と書いた起請文を矢に結び付けて射た。この起請文を駿府の今川氏真に見せると、今川氏真は、兵を呼び戻して飯尾致実(連竜)を赦免した。喜んだ飯尾致実(連竜)が駿府へお礼を言いに行くと、今川氏真は、飯尾致実(連竜)を誅殺した。