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「山木館攻め」の理由

源頼朝の挙兵の理由は、
「以仁王の令旨」でも
「後白河法皇の密旨」でもなく、
「挙兵せざるを得なかったから」です。

 治承4年(1180年)5月26日、伊豆国の知行国主・源頼政が挙兵するも討たれた(「以仁王の乱」)。平清盛は、伊豆国の知行国主を平氏に替え、伊豆国に逃げ込んだ源頼政の縁者を討つよう命じたが、これを京都の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が、平清盛が諸国の源氏を追討しようとしていると勘違いし、「直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるように」と源頼朝の元へ使者を送ってきた(6月24日)。

※数ある流刑地の中から、源頼朝の流刑地が伊豆国が選ばれたのは、「伊豆国の知行国主は源氏なので、守ってくれるだろう(融通が利くだろう)」と考えて、平清盛に伊豆国にしていただいたという。

この時、源頼朝がとるべき道は、
・(北条一族を伊豆に残して)奥州藤原氏の元へ逃れる。
・座して死を待つ。
・挙兵する。
のどれかであり、源頼朝は挙兵を選んだのでした。

 挙兵の日時は、佐伯昌長(住吉昌長とも。筑前国住吉社神主・佐伯昌助の弟で、兄・佐伯昌助が治承3年(1179年)5月に伊豆国へ配流となった時に同行した)が卜筮(ぼくぜい。占い)をし、今度の8月18日の寅卯の刻(午前3時~午前7時)と決めた。
 攻撃対象は、伊豆目代・山木兼隆の山木館である。前日(8月17日)は三嶋大社の例大祭で、主従共に疲れてぐっすりと寝ているであろうから、寝込みを襲うというのはいい作戦である。

━━なぜ山木館なのか?

自分の存在をアピールするには、国府(三島)の国衙(現在の県庁に相当)を襲って占拠するとか、目代(県知事代理)を討つのがよい。国衙は警備が厳重で、距離的にも北条館からは山木館よりも遠いので、「山木館で目代を討つ」ことにしたのであろう。

 鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』「治承4年(1180年)8月4日条」には、「然間、且爲國敵、且令挿私意趣給之故、先試可被誅兼隆也」(山木兼隆は国敵であり、源頼朝には「私の意趣」もあったので、先ずは山木兼隆を討とうとした。そこで、密かに藤原邦通を山木館に送り込んで絵図面を描かせた)とある。
 「意趣」には「考え」「恨み」の2義があり、ここでは「考え(意図)」の意であり、その「考え」とは、「自分の存在をアピールするには、国衙襲撃とか、目代を討つとか、目立つことをするのがよい」であると思われるが、多くの方は「恨み」と訳して、「私の意趣(個人的な恨み)って何?」と悩んでおられる。

 北条時政は、山木兼隆と北条政子を結婚させたという。(『曽我物語』)

■『曽我物語』
 其の後、文の数重なりければ、夜な夜な忍びて、褄をぞ重ね給ひける。かくて、年月送り給ふ程に、北条の四郎時政、京より下りけるが、道にて此の事を聞き、「ゆゆしき大事出で来たり。平家へ聞こえては如何ならん」と、大きに騒ぎ思ひけり。さりながら、静かに物を案ずるに、時政が先祖上総守なほたかは、伊予殿の関東下向の時、聟に取り奉りて、八幡殿以下の子孫出で来たり、今に繁昌、年久し。
 斯様の昔を案ずるに、悪し様にはあらじと思ひけれども、平家の侍に、山木の判官兼隆と言ふ者を同道して下しけり。道にて、何と無き事のついでに、「御分を時政が聟に取らん」と言ひたりし言葉の違ひなば、「源氏の流人、聟に取りたり」と訴へられては、罪科逃れ難し、如何せんと思ひければ、伊豆の国府に着き、彼の目代兼隆に言ひ合はせ、知らず顔にて、娘取り返し、山木の判官にとらせけり。然れども、佐殿に契りや深かりけん、一夜をもあかさで、其の夜の内に、逃げ出でて、近く召し使ひける女房一人具して、深き叢を分け、足に任せて、あしびきの山路を越え、夜もすがら、伊豆の御山に分け入り給ひぬ。ちぎりくずちは、出雲路の神の誓ひは、妹背の中は変はらじとこそ、守り給ふなれ。頼む恵みのくちせずは、末の世掛けて、諸共に住みはつべしと、祈り給ひけるとかや。
 さて、佐殿へ秘かに人を参らせ、かくと申させ給ひしかば、鞭を上げてぞ、上り給ひける。目代は尋ねけれども、猶山深く入り給ひければ、力及ばず、北条は、知らず顔にて、年月をぞ送りける。

【大意】その後、源頼朝と北条政子は文通し、夜にはお忍びで会っていた。
 そのようにして過ごしていると、京都での大番役の仕事を終えた北条時政が、伊豆国北条への帰り道で、源頼朝と北条政子の事を聞き、「これは大問題である。平家に知られたら困る」と大騒ぎした。とはいえ、冷静に考えると、北条時政の先祖・平上総介直方は、 源伊予守頼義の関東下向(長元3年(1030年)、朝廷より命じられて平忠常討伐)の時、源伊予守頼義と娘を結婚させ、源八幡太郎義家を儲けている。このように昔のことを考えると、源頼朝と北条政子の結婚はありかなと思う。

平直方┬ 維方━時方━時家━時政━政子
   └女子              ├頼家
     ├義家━義親━為義━義朝━頼朝
   源頼義

 この時、一緒に伊豆国へ帰る武士に山木兼隆がいた。既に「あなたを私の聟にしよう(あなたと北条政子を結婚させよう)」と言ってあったので、今さら「やっぱりやめた。北条政子は、源氏の流人・源頼朝と結婚させる」と言って平家に訴えられたら困るので、伊豆国の国府(静岡県三島市)に着くと、北条政子と山木兼隆を結婚させた。
 しかし、「貞女の鏡」の北条政子は、「既に源頼朝と契っている」として、結婚初夜に逃げ出して伊豆山神社に逃げ込み、「末の世掛けて諸共に住み果つべし」と、祈り続けた。源頼朝はこの事を聞くと、馬を走らせて、北条政子に会いに行き、奪った。その後、北条時政は、知らない振りをした。
https://note.com/sz2020/n/n7c48eb2e0305

 「北条時政は、源頼朝と北条政子が結婚できないよう、北条政子と山木兼隆を結婚させようとした」ということが源頼朝の山木兼隆に対する私的な恨みだというが、源頼朝が恨むのは、結婚を拒んだ北条時政であろうし、源頼朝よりも山木兼隆の方が「源頼朝に結婚相手を奪われた」と恨んでいると思われる。
 この『曽我物語』の話は、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』には載っていないが、『吾妻鏡』の「文治2年(1186年)4月8日条」には、何かあったような示唆的な話(北条時政が北条政子を幽閉した話)は載っている。
 静御前は、文治2年(1186年)4月8日、鶴岡八幡宮の舞殿で舞を命じられたので、
  しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
  吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
と源義経を慕う歌を唄いながら舞い、源頼朝を激怒させたが、北条政子がたしなめた。

「君爲流人坐豆州給之比、於吾雖有芳契。北條殿怖時宜、潜被引篭之。而猶和順君、迷暗夜、凌深雨、到君之所。亦、出石橋戰塲給之時、獨殘留伊豆山、不知君存亡、日夜消魂。論其愁者、如今靜之心。忘豫州多年之好、不戀慕者、非貞女之姿」
(あなたが、流人として伊豆国に居た時、私は契りを結んだ。北条殿(父・北条時政)は時機(平家の世である事)を恐れ、密かに私を閉じ込めた。しかし、私は猶もあなたに従い、暗夜に迷い、豪雨を凌いで、あなたの元へ行った。
 また、「石橋山の戦い」の時は、一人で伊豆山神社に残り、あなたの生死を知ることも出来ず、日夜、魂が消える思いだった。
 これらの時の悲しみを語れば、今の静御前の心(歌)と同じである。
 源義経の多年にわたる好(よしみ)を忘れ、恋慕しないのは、貞女の姿だとは言えない。)

 北条政子は、源頼朝がそばにいなかった時の自分の思いと、源義経がそばにいない静御前の思いを重ねて、源義経を思い続ける静御前を「貞女の鏡」だと褒めてやれと言ったのである。


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