神風串呂(串呂哲学)
前に書いた記事「豊田佐吉は三浦一族の佐原佐吉です。」のコメント欄に、
「三浦一族は南朝の三浦皇統家と関係がありますか?」
というコメントがついたので、その回答として書いた
「三浦天皇こと三浦芳聖(よしまさ)」
https://note.com/sz2020/n/n2b86f94623ee
のPV数が100を超えても猶、急上昇中である。
私が書きたくて書いた記事のPV数が20~30で、質問に答えて書いた記事のPV数が100を超えるということは、私が書きたいことと、読者の要望の乖離を示しており、悲しくなった(泣)。
同じ方からコメントをいただいた。
「「北陸朝」という用語も、ここで初めて知りました。」
後醍醐天皇には多くの皇子(親王)がいるが、別名がある。
・第三皇子・護良親王を「大塔宮」
・第四皇子・宗良親王を「信濃宮」
・第八皇子・懐良親王を「鎮西宮」
「~宮」は個人名であり、神社名であって、朝廷の名ではない。「~朝」「~朝廷」と呼ぶには、「三種の神器」を持った天皇が複数代おられたことが必要である。
第1代 東山天皇(尊良親王) 在位期間:1336/10/9~1337/2/5
後醍醐天皇の第一皇子。
1336年10月9日、後醍醐天皇から譲位され、三種の神器を持って金ヶ崎へ。
(三種の神器を持たない「吉野朝」は副統であって、正統ではない。)
第2代 興国天皇(守永親王) 在位期間:1337/2/5~1368/3/23
東山天皇の皇子。
金ヶ崎で東山天皇から譲位された。
第3代 小松天皇(興良親王) 在位期間:1368/3/23~1373/5/26
後醍醐天皇の第四皇子・宗良親王と前室の狩野介貞長の娘・駿河姫の子。
尹良親王の兄。金ヶ崎で興国天皇より譲位された。
(井伊谷では、弟・尹良親王を生んだ後室の井伊道政の娘・重子を「駿河姫」と呼んでいるが、間違いである。)
在位中、室町幕府に追われ、金ヶ崎を去る。(以後、「北陸朝」は、東山天皇の皇統の名称となり、北陸(金ヶ崎)に朝廷は存在しない。)
第4代 松良天皇(正良親王) 在位期間:1373/5/26~1410
小松天皇(興良親王)の皇子。
小松天皇の逃亡先の「富士の皇居」(山梨県都留市法能)で誕生。
1388年、「富士の皇居」が落城し、「遠州七不思議・京丸牡丹」「徳川家康長男・徳川信康隠遁地」として知られる京丸(静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸)へ落ちた。(京丸の像には「尹良親王」と彫られているが・・・。)以後、遠江国&三河国の各地を転々とし、1405年頃、愛知県豊川市萩町へ入った。
第5代 大宝天皇(美良親王) 在位期間:1410~1454
松良天皇の皇子。
1454年、天照大御神の神勅に従い、逃亡先の愛知県岡崎市牧平町大門に「三種の神器」を地下深く埋蔵して退位した。天皇には名字が無いので、皇后・三浦佐久(富士三浦氏)の名字「三浦」を使って「三浦藤太夫」と称し、農民になった。
・・・
三浦天皇(三浦芳聖)
明治37年(1904年)9月17日、岡崎市牧平町大門で、三浦市次郎の三男として生まれる。幼名を「幸喜知」(こうきち)といった。
以上は、三浦天皇(1904-1971)が所有する「三浦氏系図」に書かれていることであって、教科書には書かれていない。
・三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(神風串呂講究所)1970
三浦天皇(三浦芳聖)についての問題は、
①副統「吉野朝」は存在したが、正統「北陸朝」は存在したか?
②三浦芳聖は天皇か?
③「神風串呂(しんぷうかんろ/かみかぜくしろ)」とは?
である。
(1)「北陸朝」
浅井&朝倉に挟まれた織田信長の「金ヶ崎の退き口」で知られる「金ヶ崎城」(福井県敦賀市金ヶ崎町)には、足利氏と新田義貞の戦いで金ヶ崎城(北陸朝の皇居)の陥落と共に捕縛された恒良親王と、新田義顕と共に自害した尊良親王(東山天皇)を祀る神社「金崎宮(かねがさきぐう)」(三浦天皇(三浦芳聖)がいう「金崎神宮」)がある。
正史では、このように「尊良親王の自害」のみが伝えられ、「北陸朝」については伝えられていない。それで「「北陸朝」という用語も、ここで初めて知りました。」というコメントがつくのである。
(2)「神風串呂」
「A神社、B神社、C神社は一直線(串呂、レイライン)上にある」
という話をよく聞くが、たまたま?
三浦天皇(三浦芳聖)の父・三浦市次郎は、死に際に、
「おくごおりのざおうざんよりきそのみうらやまをみよ!」
と絶叫して亡くなった。三浦天皇(三浦芳聖)は、
「奥郡(渥美郡)の蔵王山より木曽の三浦山を見よ!」
と解釈し、地図の蔵王山(愛知県田原市浦町蔵王)と三浦山(長野県木曽郡王滝村滝越)を結んでみると、その一直線上に蒲郡市大塚町の大門、生誕地の岡崎市牧平町の大門、岐阜県中津川市付知町の大門が乗っており、串呂の存在を知ったという。
※参考「元伊勢串呂」:天照大神は、「降臨の地はここだ」と高天原から鈴を落とした。倭姫は数十年かけてその鈴を伊勢の川岸で見つけ、その川を「五十鈴川」と名づけ、神宮を建てた。途中、寄った神宮候補の神社を「元伊勢」と呼ぶ。
──なぜ鈴を見つけるのに数十年もかかったのか?
実は早くに見つかっていたが、神宮建築の前に皇城守護の結界をはっていたのであり、元伊勢を繋いだ線を「元伊勢串呂」と呼ぶ。(「元伊勢串呂」のを「串呂」は「結界」の意で、「レイライン」の意ではない。)
※参考「三河吉野朝」:南朝が、正統・北陸朝、副統・吉野朝のみでなく、「三種の神器」が保管された東三河(愛知県東部地方)にもあったという。三河吉野朝の新都を定めるに当たって北畠親房が卜占させた結果、熊野本宮と伊勢神宮とを結ぶ串呂に廟社「神明宮」(愛知県蒲郡市大塚町)と後醍醐天皇副陵「天皇山」(愛知県蒲郡市相良町)を建立し、その串呂の東方への延長線上の御津(愛知県豊川市御津町御馬長床)に新都を建設することになったという。御津町には皇居に由来する地名などがあり、それらは全て持統上皇三河御幸の行宮があった名残だと考えられてきたが、持統上皇は、「三種の神器」を持たずに三河国へ行っており、「三種の神器」の渡御を表わす「剣(つるぎ)」「加美(かがみ)」「玉袋」などの地名は、三河吉野朝の皇居に由来するとされるようになった。
※参考
・三浦芳聖『神風串呂』
・串呂哲学研究会
https://note.com/shinpukanro
・「串呂哲学研究ノート」
http://kanro.0394.daa.jp/