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『光る君へ』(第12回)反省会

「庚申待ち」の夜──

同じ気持ちの二人のすれ違い。

傷心の紫式部はただ泣き、

藤原道長は源倫子のもとへ──

切なすぎる。

<反省事項>

①藤原道長よ、文も交わさず、相手の家へ行ってはダメだろ。
②藤原道長よ、庚申の日にエッチしちゃダメだろ。
③藤原道長よ、庚申待ちしないで寝なきゃダメだろ。明日の仕事のために


①藤原道長よ、文も交わさず、相手の家へ行ってはダメだろ。

 文を書くために仮名の練習を始めた藤原道長であったが、文を出さず、アポ無しの突撃───紫式部に妾になることを断られた反動、つまり、若気の至りか。
「庚申待ちで起きているだろう」
とは計算済みであろうが。

②藤原道長よ、庚申の日にエッチしちゃダメだろ。

 庚申と言えば「三猿」(見ざる、聞かざる、言わざる=三尸に悪事を見せず、聞かせず、天帝に悪事を報告させず)であるが、東南アジアでは、股間をおさえた「せざる」を入れた「四猿」になる。(済州島のトルハルバン、奈良の猿石も「せざる」か?)

「庚申の日にエッチして生まれた子は泥棒になる。泥棒にならなければ馬鹿になる」とされる。貴族の子が泥棒にはならないだろうから、お馬鹿な子が産まれるんだろうね。

③藤原道長よ、庚申待ちしないで寝なきゃダメだろ。明日の仕事のために。

 言いたいことは「藤原兼家の家では庚申待ちをしないので、さっさと寝ろ。寝ていればこんな悲劇は起こらなかった」なんだろうけど、出典不明。もしかして、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「藤原超子」か?

のち従四位上に進むが、天元5年(982年)急死。庚申待の明け方、脇息に寄りかかったまま眠るようにしていつの間にか息絶えていたという[2]。超子の卒去後、兼家一門では庚申の催しを行うことはなかったという[3]。
出典
[2] 『栄花物語』巻第二,花山たづぬる中納言
[3] 『富家語談』『古事談』

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「藤原超子」

だったら間違い。 『富家語談』にも、『古事談』にも、「兼家一門では庚申の催しを行うことはなかった」とは書いてないよ。やってたよ。『ウィキペディア(Wikipedia)』は言葉足らず。信じちゃダメだよ。

※庚申の日は寝てはいけないが、江戸時代には3年間の辛抱に変わる。18回連続で「庚申待ち」をすると三尸は死ぬので、達成記念に庚申塔をたてて終了。庚申信仰が盛んだった地域には無数の庚申塔がある。村人の数だけあるんじゃないかな。(お金のない人は、複数人で、連名でたてる。)
 庚申信仰は、修験道同様、明治政府によって中止されました。仏教ですら廃仏毀釈の憂き目にあいました。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の『栄花物語』の言及は正しい。鶏が鳴いたので「夜が明けた」と知らせに行ったら、脇息(きょうそく)に寄りかかったまま死んでいた。今なら、椅子に座ったまま死んでいたって感じかな。死因は不明。『栄花物語』には「物の怪の仕業では?」とある。亡くなったのは天元5年1月28日(982年2月24日)であるから、寒の戻りで凍死かな? 京都盆地は底冷えするから。

PS.個人的には、紫式部は藤原道長の妾にならなくてよかったと思う。というのは、藤原道長の子供を産んでいるのは、正妻・源倫子と妻・源明子だけで、4人の妾は子供を産んでいない。(正確には源重光の娘が男子を産んだが、出家させられた。)紫式部が藤原道長の妾になっていたら、母になれなかった可能性が高い。まぁ、「女の幸せ=母になること」ではないし、子供がいない方が執筆活動に集中出来ると思う。

※詳しくは↓に書いてあります。読んでね☆彡


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