桶狭間の戦い
徳川家康の人生の転機となった「桶狭間の戦い」についてはよく分からない。なぜ3000人で25000人に勝てたのか?
「桶狭間の戦い」の資料は、『豊明市史』「資料編」にまとめられているので重宝する。Q&A集もあり、面白かったのは、「織田方には今川義元の顔を知る人物がいたが、今川方には織田信長の顔を知る人物がいなかった」という話である。ということは、織田信長の影武者の首が届けられた時点で、今川義元は勝利宣言して酒宴を開いて舞い、今川軍は戦闘放棄して乱取りを始めた可能性がある。そして、この気の緩みが敗戦に繋がった。(ちなみに、今川義元の首は、整髪料なのか、とてもいい香りがしたという。)
・『豊明市史』資料編(補2)「桶狭間の戦い」¥4000
「桶狭間の戦い」の研究書には、
・山澄英竜(尾張藩士)『桶狭間合戦記』(跋文)17世紀後半
⇒山崎真人『桶狭間合戦記』1807
⇒田宮篤輝『新編桶狭間合戦記』1847
などがある。
・帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』
・小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』(学研M文庫)2000
・藤本正行 『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(新書Y)2008
■今川義元の出陣理由
古い本には「上洛」とある。乱世を鎮めようというのである。
天下を治める方法には2つある。
「武を以って治めるは覇道。徳を以って治めるのが王道也」
織田信長の「天下布武」は覇道。今川義元の方針は「徳」による統治で、法律「今川仮名目録追加」を制定した。この方針を家康が引き継ぎ、名字を本来の「得川」ではなく「徳川」と表記して麒麟を呼んだ。(覇道の織田信長の前には麒麟ではなく、明智光秀が現れて討たれた。)
※松平初代親氏の幼名は「徳太郎」で、出家した時は「徳阿弥」と名乗った。彼の松平郷運営には徳があったという。そして、彼のDNAは徳川家康に引き継がれている。
織田信長→豊臣秀吉→徳川家康
というよりも、
武の系統:織田信長→豊臣秀吉
徳の系統:松平親氏&今川義元→徳川家康
か。
さて、現在、①上洛説は、学会では否定され、大石泰史氏は、学者の非上洛説を次の6つに分類している。
②尾張攻撃説
③伊勢・志摩制圧志向説
④尾張方面領土拡張説
⑤旧名古屋今川領奪還・回復説
⑥鳴海城・大高城・沓掛城封鎖解除・確保志向説
⑦三河・尾張国境の安定化説
「大高城の救援(兵糧入れ)」は三河衆だけで出来ること(実際に出来た事)であるので、今川義元が出陣する必要はない。三河衆、遠江衆、駿河衆の3つを使わないと出来ない事をやるので、今川義元が出陣する必要があった。そして、それが従来説のように「上洛」であれば理解出来るが、先に書いたように「大高城の救援(兵糧入れ)」では理解できない。
今川義元の進軍コースは、
大高→鳴海→熱田→清洲
だと思っていたが、最近の私は、
大高→鳴海→熱田→(本隊)名古屋→清洲
→(別働隊)津島→清洲
かなとも思っている。
──「大高城の救援」であって、「鳴海城の救援」ではない。なぜか?
鳴海城には兵糧があった。今川方の鳴海村の人たちが入れたのである。(桶狭間村は織田方の水野家の家臣・中山勝時の領地である。)大高城の兵糧は水路で鳴海城から入れればよいのであるが、鳴海城にはそんな余裕はなかった。それで大高城の兵糧は陸路で沓掛城から入れるのであるが、大高城は周囲を砦で囲まれてしまった。こうして大高城への兵糧入れは水路のみとなったが、村木砦が落とされたので、熱田や津島に討ち入って、伊勢湾航路を掌握する必要があったのであろう。
「桶狭間の戦い」は、何が史実なのか分からないから面白い。学者ですら、今川義元の出陣理由1つをとっても6グループに分かれてしまうのである。史実が書かれているか分からないが、古文書はわんさかあり、4000円で全てが手に入るから、素人も考察戦に参戦できる。「桶狭間の戦い」は、戦国浪漫あふれる合戦である。(合戦(多くの人を殺す方法)に浪漫を感じるというのは不謹慎であろう。「謎解きが残されている(問題は示されているが、正解はまだ示されていない)」「知的好奇心がくすぐられる」と言い換えておこう。)
■今川義元の敗因
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