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史実と異なり(?)難解だった『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』(第6回)「鱗剥がれた『節用集』」

 『どうする家康』にしろ、『光る君へ』にしろ、視聴後、調べたいことが山ほどありましたが、『べらぼう』は分かり易く、これといって調べたいことが無かったのですが、今回は難解でした。

■今回の設定

・諸藩=貧乏。さらに日光社参の負担がのしかかる。
・鱗形屋=貧乏(「明和の大火」で店も版木も焼失)。

■史実

・諸藩=貧乏。さらに日光社参の負担。
・鱗形屋=黄表紙の創刊により貧乏ではない。

 鱗形屋が日本初の「黄表紙」である『金々先生栄花夢』を出版すると、これが大ヒットし、「金々」「金々~」、「源四郎」(金々先生のお金をちょろまかす手代の名)は流行語となりました。
 しかし、『べらぼう』では、恋川春町の『金々先生栄花夢』で儲かったことには触れず、貧乏で、『吉原細見』や「青本」の改良を考えていたとしました。

『金々先生栄花夢』は、粟餅が出来上がるまでに金々先生が見た夢の話であり、最後に長谷川平蔵が、

NHK

「濡れ手に粟餅

と締めくくれば、これまでのように分かり易い回になったと思います。

──儲かっている鱗形屋がなぜ海賊本を制作したのか?

この点については不明です。

【仮説】 鱗形屋を裕福にした『金々先生栄花夢』の作者・恋川春町は、実は駿河国(静岡県中部地方)の小島藩の藩士なのです! 貧乏な小島藩が海賊本で儲けようと思い、鱗形屋に制作を依頼したのではないでしょうか? 鱗形屋にしても、鱗形屋を立て直した人気作家の上司からの依頼ですから、断りにくかったのでしょう。

■「鱗剥がれた『節用集』」あらすじ

 小島藩は、財政立て直しのために鱗形屋に柏原屋(吉本新喜劇元座長・川畑泰史さん)の『節用集』の海賊本の制作を依頼した。
 江戸や板元の柏原屋がある大阪での販売ではバレるので、藩士が地方の本屋に売っていた。
 しかし、柏原屋が尾張国熱田(愛知県名古屋市)の本屋で海賊本を見つけ、江戸に乗り込んで来た。それを恋川春町(岡山天音さん)から聞いた小島松平家家老の斎藤茂右衛門(蔵元康文さん)は、すぐに対処しました。

NHK

 斎藤茂右衛門は、江戸城で老中・田沼意次宛の「日光社参の取りやめ嘆願書」を勘定奉行・松本秀持(吉沢悠さん)に渡す際に賄賂も渡し、「鱗形屋の海賊本の件に当藩は一切関わっていない」と念を押した。そして上司の命令で御書院番士・長谷川平蔵が鱗形屋を逮捕し、金銭による示談が成立して、海賊本事件は幕を閉じました。

【まとめ】 このドラマでは、

『金々先生栄花夢』発行→「金々」流行→摘発・示談→逮捕・江戸所払い

ではなく、

「欣々」流行→摘発・示談→『金々先生栄花夢』発行→逮捕・江戸所払い

のようです。

・「摘発・示談」は5月で、「逮捕・江戸所払い」は12月です。
・日本初の黄表紙である『金々先生栄花夢』の発行月日は不明です。ただ、「金々」の流行は、『金々先生栄花夢』の発行によるもので、『金々先生栄花夢』の発行前は「欣々」と書いていましたので、NHKは「キンキン」としたのかな。

 安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙の出版の先駆けとなり、同年には江戸の黄表紙30余点のうち10余点、翌安永5年(1776年)には30余点のうち10余点という具合に安永年間の黄表紙出版をリードした。
 しかし、安永4年(1775年)5月に、大坂の柏原屋与左衛門・村上伊兵衛の板株(版権)であった『早引節用集』を、鱗形屋の手代の徳兵衛が重版して『新増節用集』と銘うって売出していたのが発覚し、訴訟の結果、板木71枚、摺込本3400冊の内売れ残り分2800冊が没収され、12月には徳兵衛が家財欠所及び十里四方追放、孫兵衛が急度叱及び過料鳥目廿貫文などの処罰を受けた。
 さらに、旗本某家の用人が遊興のために主家の重宝を質入れしたのを仲介したことが発覚し、孫兵衛は江戸所払いに処せられ、安永10年(1781年)頃まで江戸に戻ることができなかった。
 これらの事件がきっかけで鱗形屋は没落し、孫兵衛は寛政年間まで版元を続けた後廃業した。廃業後は、永寿堂の初代西村屋与八の養子となり、後に二代目を継いだ孫兵衛の二男が鱗形屋の板行書の版権を譲り受けたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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