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長篠城

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 「長篠の戦い」の激戦地・長篠城(愛知県新城市長篠市場)の最大の特徴は、城内を鉄道(JR飯田線)が横切っていることではなく、宇連(うれん)川と寒狭(かんさ)川が合流して豊川(「豊川市」「豊川稲荷」は「とよわ」と清音だが、川の名は「とよわ」と濁る)となる合流点の絶壁上にあることである。(河川法上では、段戸山(愛知県北設楽郡設楽町)を水源とする寒狭川が豊川であり、長篠で宇連川と合流し、豊橋平野に出て、三河湾に流れ込む。)

※長篠の戦い:教科書では、「長篠城の戦い」(奥平 vs 武田)と「設楽原の戦い」(徳川&織田 vs 武田)を合わせて「長篠の戦い」とするが、現地では区別しており、「かるた看板」は設楽原のみで、長篠にはない。

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 川の合流点を、上流の人は「川合(かわい)」「落合」、下流の人は「二俣(ふたまた)」と呼ぶ。合流点で水流がぶつかりあう音が大きければ「とどろき(等々力、轟)」「百々(どうどう/どうど))」である。ここ長篠では「渡合(どあい)」という。

 渡合には牛淵橋が架かり、長篠城最大の撮影スポットとなっている。

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 長篠城へ行って思ったのは、

 ──小さい(狭い)

ということである。こんな小城を武田軍がなぜ落とせなかったかとえいば、意図的に落とさなかったからである。その意図は、次の2点であろう。
①長篠城をいじめ続けて、助けに来た徳川家康を倒そうとした。(武田軍の意図は徳川家康をおびき出すことであった。実際、徳川家康は来たが、織田信長という助っ人を連れてきた。この想定外の事態に、「ずるい」と言って逃げればよかったが、武田勝頼は「ラッキー(徳川家康と織田信長を一度に殺せる千載一遇のチャンス)」として設楽原へ向った。)
②長篠城は地理的に戦略上重要な場所にある城なので、火矢を放って焼かずに使おうと思った。(再建に要する費用と時間を惜しんだ。)

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 さて、長篠城の私の第一印象は、先に書いたように「小さい(狭い)」であったが、私が見たのは本丸だけであって、実は「大きい(広い)」。大手門は国道151号線よりも北にある。

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 また、空堀だと思っていた堀は水堀だったという。「深い空堀だな」と思ったが、川と繋がっているのであれば、容易に城内へ侵入できるのであろう。だから深くしてあるのか・・・。

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 不勉強を恥じて、長篠城址・史跡保存館へ勉強に行く。

・入館料は、一般(個人)220円。設楽原歴史資料館との共通入館券は440円。ただ、ここも設楽原歴史資料館も関連図書を多数販売しているので、2万円くらい持って行った方がいいと思う。

・「日本100名城」(No.46)「長篠城」のスタンプ以外にも、たくさんあるので、スタンプ帳を持っていくといいですよ。(「日本100名城」のスタンプは、1階多目的トイレ前にあります。館外なので、開館時間外でも休館日でも押印可能です。)私はスタンプ帳を持って行かなかったので、御城印帳に捺す羽目に。(御城印は、長篠城、柿本城、各300円。)

・長篠城は広いので、ガイドマップ(無料)を手に、「長篠古戦場レンタサイクル」を利用して回るのがよろしいかと。

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 踏み切りを越え、鳥居強右衛門が鈴木金七郎を伴って長篠城から脱出したという野牛郭の「野牛門(渡合門)」へ向う。

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 物見櫓跡を過ぎると殿井(とのいど)がある。案内板に「河岸段丘の砂礫層と岩盤の境から湧き出る泉である。城兵の貴重な飲料水であった」とある。『東三河の地学アルバム』には「基盤岩である結晶片岩とその上に重なる段丘堆積層との不整合面から流れ出て」いるとある。地層はよく見えなかったが、昨年7月の大雨で崩れたので、今は良く見える。
 籠城戦には食料と水が必要ですね。川が流れてるし、水は豊富に得られそう。

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 野牛郭。廃屋があるが、旅館だったという。泊まってみたかった・・・。
 野牛郭から細い道を降りると「野牛門(渡合門)」であるが、「この靴では危険だ」と諦めた。(岩場もあるし、マムシもいるらしい。)
 川から物資を城に運び込むこともあったのであろう。見た感じでは「長篠城から川に出るのも、川から長篠城に入るのも、想像以上に楽そう」であった。

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 2枚上の写真に「8野牛郭趾」とある。全部で25。いつの日か全部回りたい。(まずは、それなりの靴を履いて、野牛門(「24櫓趾」)へ行くぞ!)

1 大手門趾
2 弾正郭趾
3 家老屋敷趾
4 糧庫倉屋敷趾
5 巴城郭趾
6 瓢郭趾
7 搦手門趾
8 野牛郭趾
9 厩趾
10 物見櫓趾
11 内堀
12 帯郭趾
*13 蟻封塔
*14 医王寺
*15 片葉の葦
16 史跡長篠城趾
*17 馬場信房殿戦忠死の碑
*18 信長賞詞地
*19 鳥居強右衛門の墓
20 本丸趾
*21 伝高坂又八郎助宣の墓
22 殿井
*23 大通寺盃井碑
24 櫓趾
*25 鳥居強右衛門磔死の跡

*印の標柱は無くなった。

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