第21回「長篠を救え!」(動画集)
■時代考証担当・小和田哲男先生(毎週日曜の放送終了後)
■歴史学者・呉座勇一先生(毎週日曜の放送終了後)
■濱田浩一郎先生のYouTube歴史塾(毎週日曜の放送終了後)
■戦国BANASHI(毎週月曜)
■高橋学長のむさしのチャンネル(毎週月曜)
■日本史サロン(毎週火曜21:00~)
※「作手城」は別名で、普通は「亀山城」です。
■かしまし歴史チャンネル
※「田峯」は「たみね」ではなく「だみね」と読みます。
■G-yu〜檜尾健太さん〜
■松村邦洋さんのタメにならないチャンネル(毎週月曜)
■歴女のモトコマ 大河ドラマ「どうする家康」感想動画
■大河ドラマオタク女子 小川さなえさん
■青江さんの評論
■時代考証・平山優先生のツイート
よくある誤解。三河の国衆奥平氏の通字は、「貞」ではなく「定」。奥平定勝、定能などとなる。「貞能」なんかは、系図か軍記物のみで、当時の文書ではすべて「定能」。これは2010年代初めには明確に指摘されていた。要注意ですね。
奥平信昌の「信」は、武田から与えられたもの。天正3年以前に、「信昌」署名の発給文書あり。奥平家は、信昌を称揚すべく家伝を創作した。だって信長から一字を貰った、しかも亀姫も輿入れした特別な家となるから。
援軍に来なければ、織田と手を切り武田と合力すると家康が言ったという史料は、近世のものだが存在する。金子拓氏はありうると考えておられる。私は懐疑的ですが。
遅いって思っていたようですね。岐阜から出陣するまで相当時間がかかってます。このあたりは拙著『長篠合戦と武田勝頼』を参照してみて下さい。
鳥居強右衛門が城に向かって叫んだと伝わる場所は、弾正曲輪の掘端。現地に立つと物凄く近いんですよ。
鳥居強右衛門の姿を今に伝える背旗は、「落合左平次指物」と言われるものです。かつて落合は武田家臣とされてきましたが、金子拓氏の調査により、子孫家蔵の文書、記録、そして鳥居強右衛門背旗の下絵などの発見、精査がなされ、徳川家臣だったことが判明しました。
鳥居強右衛門背旗でもう1つ。この姿が通常の磔か、逆磔かで議論がありましたが、金子拓氏の調査により、通常の磔姿で決着となりました。詳しくは金子拓『鳥居強右衛門』平凡社をご覧くださいませ。
強右衛門が城に向かって叫んだところと、磔にされた場所は違うのですよ。現在の磔跡の石碑は、かつては別の場所だったのですが、飯田線敷設に伴い現在地に移されています。
大河ドラマ「どうする家康」第21回「長篠を救え!」はいかがでしたでしょうか?さて、今回に関する時代考証のポイント解説をしましょう。
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