見出し画像

Recoの君語り ー『光る君へ』(第39回)「とだえぬ絆」ー

 主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
 変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)


【前半】
第一部「青春篇」

康保  3年(966年)     藤原道長、生まれる。
天禄元年(970年)?    紫式部、生まれる。
寛和  2年(986年)6月23日 「寛和の変」(花山天皇の退位と出家)
               一条天皇(7歳)即位。
寛和  2年(986年)      「庚申待ちの夜」
第二部「関白争奪篇」
永祚  2年(990年)  7月  2日 藤原兼家、死去。
正暦  4年(993年)  7月29日 源倫子の父・源雅信、死去。享年74。
長徳元年(995年)  4月10日 藤原道隆、病没。享年43。
長徳元年(995年)  5月  8日 「七日関白」藤原道兼、病没。享年35。
長徳元年(995年)  6月19日 藤原道長、右大臣に転任し藤原氏長者宣下。
長徳元年(995年)  8月下旬 朱仁聡、林庭幹ら70余人が若狭国に来航。
長徳  2年(996年) 1月28日 藤原為時、越前守に就任。
長徳  2年(996年)夏    「月夜の逢瀬」
第三部「越前篇」
長徳  2年(996年)夏     藤原為時&紫式部、越前国へ。
長徳  2年(996年) 10月   高階貴子、死没。
長徳  2年(996年) 12月16日 藤原定子、脩子内親王を出産。
長徳  3年(997年)      紫式部、帰京。
第四部「結婚生活篇?」
長徳  4年(998年)  8月27日     藤原宣孝、山城守に就任。(『権記』)
長徳  4年(998年) 晩秋(ドラマでは9/30?)紫式部、藤原宣孝と結婚。
長徳  5年(999年)  1月13日  「長保」に改元。
長保元年(999年)  2月  9日  藤原彰子、裳着の儀(『御堂関白記』)
長保元年(999年)  2月   「石山寺の夜」
長保元年(999年)  2月末日頃  『枕草子』「二月のつごもりごろに」
長保元年(999年)  11月  1日 藤原彰子、入内。
長保元年(999年)  11月  7日 藤原定子、敦康親王を出産。
               藤原彰子に女御宣旨(「本宮の儀」)。
長保元年(999年)  12月   紫式部,、藤原賢子(大貳三位)を出産。
長保  2年(1000年)  5月5日 『枕草子』「三条の宮におはしますころ」
長保  2年(1000年)12月15日 藤原定子、媄子内親王を出産。
長保  2年(1000年)12月16日 藤原定子、死没。享年25。
長保  3年(1001年)  4月25日 藤原宣孝、病没。享年不明。
長保  3年(1002年)閏12月22日 藤原詮子、死没。享年40。
【後半】
第五部「『源氏物語』篇?」
長保  4年(1002年)  6月13日 和泉式部の夫・為尊親王、病没。
長保  6年(1004年)  7月20日 「寛弘」に改元。
寛弘元年(1004年) 『源氏物語』の執筆開始。
寛弘  2年(1005年)  9月26日 安倍晴明、死没。享年85。
寛弘  2年(1005年) 11月15日 月食。内裏炎上。八咫鏡、熔解。78
寛弘  2年(1005年) 12月29日  紫式部、初出仕。
寛弘  3年(1006年) 8月2日~14日  藤原道長、金峯山参詣。
寛弘  4年(1007年) 10月  2日 和泉式部の夫・敦道親王、薨去。享年27。
寛弘  5年(1008年)  2月  8日 花山法皇、崩御。享年41。
寛弘  5年(1008年)  5月25日 媄子内親王、崩御。享年9。
寛弘  5年(1008年)  9月11日 敦成(あつひら)親王誕生。
寛弘  5年(1008年) 11月  1日  敦成親王の「五十日(いか)の儀」
寛弘  5年(1008年)  『源氏物語』の豪華本(献上用)制作
寛弘  5年(1008年) 11月17日  中宮還御
寛弘  5年(1008年) 12月30日  夜、藤壺に強盗
寛弘  6年(1009年)  1月  7日 藤原伊周、正二位に。
寛弘  6年(1009年)   1月30日 呪詛発覚。
寛弘  6年(1009年)   2月20日 呪詛の連座で藤原伊周、参内禁止に。
寛弘  6年(1009年)   3月  4日 藤原為時、左少弁に(『権記』)。
寛弘  6年(1009年)   6月13日 藤原伊周に参内許可。
寛弘  6年(1009年)  11月25日 敦良(あつなが)親王誕生。
寛弘  7年(1010年) 日付不詳 藤原為時、正五位下に(『弁官補任』)。
寛弘  7年(1010年)  1月28日 藤原伊周、死没。享年37。
寛弘  7年(1010年)  7月17日 敦康親王、元服。
寛弘  8年(1011年)  1月  5日 藤原惟規、正五位下に(『蔵人補任』)。
寛弘  8年(1011年)  2月  1日 藤原為時、越後守に就任。
寛弘  8年(1011年)  2月?秋?  藤原惟規、越後国で死没。享年38?
・・・・・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
寛弘  8年(1011年)  6月22日 一条天皇、崩御。享年32。
寛弘  9年(1012年)12月25日 「長和」に改元。
長和  3年(1014年)  6月17日 藤原為時、任期を残して越後守を辞任。
長和  5年(1016年)  4月29日 藤原為時、三井寺で出家。
第六部「終活篇?」
長和  6年(1017年)  4月23日 「寛仁」に改元。
寛仁  2年(1018年) 10月16日 藤原道長の3女・藤原威子が立后。
                 藤原道長、「この世をば…」と詠む。
寛仁  2年(1018年) 12月  7日 敦康親王、病没。享年20。
寛仁  3年(1019年)3月末~4月「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」
寛仁  5年(1021年)  2月  2日 辛亥革命により「治安」に改元。
治安  4年(1024年)  7月13日 「万寿」に改元。
万寿  2年(1025年)?    清少納言、死没。享年61?
万寿  4年(1027年)12月  4日 藤原道長、病没。享年62。
万寿  5年(1028年)  7月25日 「長元」に改元。
長元  2年(1029年)? 藤原為時、死没。享年81?
長元  4年(1031年)? 紫式部、死没。享年62?
永承元年(1046年)1月18日 藤原実資、死没。享年90。
永保  2年(1082年)? 藤原賢子、死没。享年84?


今回はドラマに沿って。

1.藤原彰子、敦良親王(後朱雀天皇)を出産

 十一月二十五日の程に、御氣色ありて、惱ましげに思召したり。例の聞き憎きまでおはしまなりみちたり。されど御もののけなどおとなし。その方の心のどかに坐すも、限りなきたひらか御祈りのしるしなるべし。いみじく無事に、程なく御子生れ給ひぬ。

『栄華物語』

【現代語訳(藤村作訳)】 
 やがて十一月の廿五日に、中宮御產の御徵候が見えたので、例の如く騷ぎの聲は殿中に鳴り滿ちた。けれど今度は御物怪がおとなしいのは、限りなき御祈の効驗であらう。間もなく大相安らかに皇子御誕生遊ばされた。

 二十五日、丙子。(『御産記』による)寅剋ばかり、源宰相・前大和守朝臣・資平等の許より、中宮、御産の気有る由を告げ送る。仍りて案内を取るに、「上下、首を挙げて参会す」てへり。辰の始めばかり、参入す。是より先、諸卿、参入す。下官、参る後、内府、次いで右府、参入せらる。辰剋の正中、御産<男。>。其の後、左相府、簾外に出づ。喜悦、殊に甚し。命せて云はく、「寅剋ばかりより、其の気色有り。今、此の時に臨み、幾くの悩気無く、平安かに遂げ給ふ。今般に至りては男女を顧ず、只、平安を祈る。而るに平らかに遂げ給ふ上、又、男子の喜び有り」てへり。加持僧・陰陽師等に禄を給ふこと、去ぬる年のごとし。又、云はく、「今日、御湯殿有るべし」てへり。余、暫く候じ、罷り出づ。
 資平、云はく、「頭中将公信、勅使と為て御釼を持ち参る」と。夜に入りて、資平、来たりて云はく、「御湯殿の間、弓を執る者、朝大夫十人・六位十人。広業朝臣、読書」と。

『小右記』寛弘6年(1009年)11月25日条

 二十五日、丙子。丑の了りばかり、宮の御方より女方、来たりて云はく、「悩気、御座す」と。即ち参入す。悩気有りと雖も、殊なる事無し。暫く有りて、尚ほ其の気有り。仍りて左衛門督の許へ人を遣はす。陰陽師を召す。又、内に事の由を奏するに、教通を以てす。次いで傅・大夫・権大夫等の許へ人を遣はす。参会の人々、多く参る。寅に白き御帳等を立つ。此の間、悩気、頗る重きこと有り。御帳に入り給ふ後、辰三刻、男皇子を降誕し給ふ。暫くの間、重く悩むこと有りと雖も、殊なる事無し。傅以下の上達部、悉く参る。御降誕の後、内府・右府、参る。此の間、御使、数度、往還す。
 二十五日。巳時、内より御釼を給ふ。使、右近中将公信朝臣<頭。>。女装束を賜ふ。小舎人に二疋。午時、御臍の緒を切り御す。御乳付の両事、は々、奉仕す。同じ時、初めて御湯殿の具を造り初む。酉時、御湯を供す。鳴弦の者、五位十人、六位十人。読書、右少弁広業朝臣。『御注孝経』天子章。御湯を供するは宰相乳母<傅の女子。>、迎湯、宰相<三位遠度の女子。>。侍長等、奉仕す。簾外に奉仕するは、地下の庁の属以下史生以上。夕の御湯、朝に同じ。読書、大博士惟宗為忠。『礼記』文王世子篇。

『御堂関白記』寛弘6年(1009年)11月25日条

 中宮(藤原彰子)が御帳に入られた後、辰三つ(たつみつ/午前8時~午前8時半)に、男皇子(おとこみこ/敦良親王)を降誕させた。暫くの間、重く苦しむことが有ったのではあるが、大したことは無くいらっしゃった。

※敦成(あつひら)親王の出産時には、呪詛されていたのか、難産であったが、今回は安産であった。

※南北朝時代の後醍醐天皇の子供たちの名は「~良親王」で、読み方は、「~よし」か、「~なが」かと議論が絶えないが、敦良親王の読み方は「あつなが」だという。「なが」は「長」だと思うけど・・・。

2.三夜の御産養(うぶやしない)

※産養(うぶやしない):平安朝の貴族社会などで行われた通過儀礼の一つ。子どもが生まれた日の夜を初夜といい、その日から3、5、7、9日目にあたる各夜に祝宴を催す。「生養」「養産」とも表記する。

二十七日、戊寅。(『御産記』による)酉剋ばかり、中宮に参る<東御門より参る。>。上達部の饗饌を東対の西面に設くること、去ぬる年のごとし。左大臣、諸卿を勧引し、座に着せしむ。参入せざる人、只、右大臣・内大臣・帥のみ。勧学院の学生等、秉燭の後、参入す。先づ見参を啓す。其の後、召さしむるに依り、東対の南庭に参入す。別当左大弁説孝、上首と為て列に立つ。拝礼し了りて、禄を給ふ<弁に褂、学生に疋絹。>。上達部の座、両三盃の後、御膳を供す<懸盤六脚[打敷有り。]、悉く銀器。馬頭盤有り。>。四位・五位、之を取り、采女に付す<采女、白き装束。>。件の御膳、権大夫俊賢卿、奉仕せる所。俊賢、云はく、「入るる所の銀、四百余両」と云々。皇子の御衣、筥二合<筥、玉を以て飾る。>に納め、机上に居う。覆ひ有り<「左中将教通、奉仕す」と云々。>。又、銀の鶴一双を洲浜に立つ。其の鶴、皇子の衣を納め、翼を以て蓋と為す。鶴の長さ二尺余りばかり。大夫斉信卿、奉仕せる所なり。斉信卿、云はく、「是れ如何」てへり。余、答へて云はく、「毛衣にこそあめれ」と。左丞相、云はく、「最も感歎に足る。記すべし」てへり。斉卿、同じく感詞有り。其の後、盃酌、数巡し、杖酔し朗詠す。更に座を渡殿に移し、衝重を羞む。一巡の後、大夫、戯れて云はく、「猶ほ二巡、令有るべし。其の盃を執るべし」てへり。数度、相勧む。固辞して聞かず。大夫、硯を召し、毫を染め、序題を注す。左相国、左中将教通に瓶子を執りて来たるべき由を仰す。気色有るに似る。仍りて余、盃を執りて云はく、「令有れば、精する後」と云々。「彼此を以て和歌を□」と云々。余、祈り有り。去・今年の和歌、相府、深く感歎すること有り。卿五、六輩、和歌を漏らす。和歌の後、相府、盃を執り、下官に擬して云はく、「去・今年の祈詞、尤も賀すべし。仍りて勧盃す」てへり。大納言道綱、上に在り。然れども彼の雅意に依り、受けて道卿に擬す。二巡の後、擲采の戯有り。粥大夫、已に其の戒め無し。仍りて悉く退去す。「重義・信通・則孝等の朝臣三人の外、又、人無し」てへり。件の三人を以て其の事を役せしむ。清通朝臣、之を問ふこと、去ぬる年のごとし。子の終はりばかり、退出す。

『小右記』寛弘6年(1009年)11月27日条

酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃、中宮に参った<東御門から参った>。上達部(かんだちめ)の饗饌(きょうせん)を東対の西面に設置したことは、去年と同じであった。左大臣(藤原道長)は、諸卿を歓引して座に着させた。参入しなかった人は、ただ右大臣(藤原顕光)・内大臣(藤原公季)・帥(そち/藤原伊周)だけであった。

3.子の日の宴


※子の日の宴(ねのひのえん):
正月の初めの子の日に、宮中で公卿(くぎょう)や侍臣(じしん)などに賜った宴。

※大饗(だいきょう):
大きな饗宴。二宮大饗(にぐうのだいきょう)と大臣大饗(だいじんのだいきょう)とがある。
 二宮大饗とは中宮と東宮の二つの宮の大饗をいい、1月2日に行われる。
 大臣大饗は正月と大臣任官時に行われる。

二日、壬。天晴る。上達部、来らる。内府、渡り給ふ。引出物、馬一疋。随身に疋絹。事了りて、東宮に参る。又、中宮に参る。饗有り。巡行の後、殿上に参る。御出有り。御座に御す。管絃の上達部、殿上人、小板敷に候ず。自余の人、台盤に着す。巡行、数度。御楽、数曲。御衣を賜ふ。

『御堂関白記』寛弘7年(1010年)1月2日条

(一条)天皇の出御が有った。殿上間(てんじょうのま)にお坐りになられた。管弦の公卿(くぎょう)や殿上人(てんじょうびと)は、小板敷(こいたじき)に伺候した。ほかの人は台盤に着した。盃の巡行が数度あった。御楽遊が数曲あった。御衣(おんぞ)を賜った。

 二日、宮の大饗はとまりて、臨時客東面とり払ひて、例のごとしたり。
 上達部は、傅大納言、右大将、中宮大夫、四条大納言、権中納言、侍従の中納言、左衛門督、有国の宰相、大蔵卿、左兵衛督、源宰相、向かひつつゐたまへり。源中納言、右衛門督、左右の宰相の中将は長押の下に、殿上人の座の上に着きたまへり。
 若宮抱き出でたてまつりたまひて、例のことども言はせたてまつり、うつくしみきこえたまひて、上に、
「いと宮抱きたてまつらむ」
と、殿ののたまふを、いとねたきことにしたまひて、  
「ああ」
とさいなむを、うつくしがりきこえたまひて、申したまへば、右大将など興じきこえたまふ。
 上に参りたまひて、主上、殿上に出でさせたまひて、御遊びありけり。殿、例の酔はせたまへり。わづらはしと思ひて、かくろへゐたるに、  
「なぞ、御父の御前の御遊びに召しつるに、さぶらはで急ぎまかでにける。ひがみたり」
など、むつからせたまふ。
 
「許さるばかり歌一つつかうまつれ。親の代はりに。初子の日なり。詠め詠め」
とせめさせたまふ。うち出でむに、いとかたはならむ。こよなからぬ御酔ひなめれば、いとど御色合ひきよげに、火影はなやかにあらまほしくて、
「年ごろ、宮のすさまじげにて、一所おはしますを、さうざうしく見たてまつりしに、かくむつかしきまで、左右に見たてまつるこそうれしけれ」
と、大殿籠もりたる宮たちを、ひき開けつつ見たてまつりたまふ。  
「野辺に小松のなかりせば」
とうち誦じたまふ。新しからむことよりも折節の人の御ありさま、めでたくおぼえさせたまふ。

『紫式部日記』寛弘7年(1010年)1月2日条

 公卿(くぎょう)方は清涼殿に参られ、主上(一条天皇)も殿上の間にお出ましになられて、管弦の御遊びがあった。殿(藤原道長)はいつものようにお酔いになられている。私はうるさいと思って隠れていたのに見つけられて、「どうしてお前の父は、(一条天皇の)御前の御遊びに呼んだのに伺候もしないで急いで退出してしまったのか。ひねくれているな」などと、(藤原道長に)絡まれてしまった。

※野辺に小松のなかりせば:「子の日する野辺に小松のなかりせば 千代のためしに何をひかまし」(壬生忠岑)。正月(立春)初めの子(ね)にあたる日には、野辺に出て小松を引き抜いて長寿を願う、または引き抜いた小松の根の長さで長寿を占う。京都では「根引き松」といって、根が付いた松が門松として飾られるが、手ごろな松の木が無い時は、何を引き抜こう。

小松引(こまつひき)
子の日の遊・子の日・初子の日・子の日の松・子の日草・子の日衣・松引
【解説】平安時代、正月初の子の日に、宮廷では郊野に出て小松をとる習わしがあった。松は霜雪にもめげず千年を経る木である。松の中でも、小松はことに祝儀にかなうとされていた。そこで松を引き、千代を祝って、そのあとで歌宴を張った。春のはじめの優雅な野遊びであった。この日に着用する狩衣(かりぎぬ)を子の日衣、引いてとる松を子の日の松、または子の日草といった。

講談社『日本大歳時記』

4.藤原伊周の死

二十九日、己卯。忌日。前大宰帥正二位藤原朝臣伊周、薨じ了んぬ<三十七。>。

『権記』寛弘7年(1010年)1月29日条

前大宰帥(さきのだざいのそち)正二位藤原朝臣(あそん)伊周が薨去(こうきょ)した<37歳>。

5.藤原妍子の入内

※入内(じゅだい):天皇の后(きさき)として宮中に上がること。

二十日、庚子。尚侍、東宮に参る。時に亥。上達部十余人、来らる。中宮より女方、二車に八人、本より二十人、童女四人。下仕、又、同じ。糸毛車を用ゐる。参入の後、上達部・殿上人、西渡殿の饗に着す。子時、参上す。御使の女方に女装束を賜ふ。綾の褂を加ふ。未だ参らざる前に、御書を賜ふ。御使、知光朝臣。女装束を賜ふ。又、小舎人に二疋を賜ふ。

『御堂関白記』寛弘7年(1010)2月20日条

尚侍(ないしのかみ/藤原妍子)が東宮(居貞親王)の許(一条第)に参入した。時に亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)であった。

6.敦康親王の元服

※元服(げんぷく):男性が成人して髪形や服装を改め、初めて冠をつける儀式。

十七日、甲午。天晴る。此の日、一宮、御元服す。時に巳時尅。御装束、常のごとし。人々、参入の後、親王、装束す。彼の宿に詣で、之を見る。前大和守景斉朝臣、御装束、并びに総角の事を奉仕す。事々了る間、道方朝臣を以て奏せしむ。束帯を奉仕する事に、景斉朝臣、昇殿を聴さるるは如何。昇殿を聴さる。禄を賜ふ間、宣旨を下さる。事了りて、殿上に参上す。親王、之に同じ。御出の後、道方朝臣を以て親王を召す。参上す。次いで同朝臣、余を召す。参上す。御前の座に候ず。仰せに依りて、人を召す。公信朝臣、進みて殿上の戸口に候ず。仰せて頭の調度を置かしむ。殿上五位、之を座の左右に置く。二階、東。御冠を柳筥に入れ、二階の上に置く。座の右の唐匣・泔坏に置く<台を加ふ。>。櫛巾・刀・紙等を柳筥に入る。次いで仰せに依りて、道方朝臣を召す。道方朝臣、称唯し、戸前に候ず。仰せて理髪を奉らしむ。了りて退下す。戸口に候ず。余、進みて加冠す。座より下り、座に復す。道方、又、理髪し、退出す。次いで親王、退出の間、衣袴の上、見苦しきに依り、余、小し進み寄せ引き下す。次いで我、退出す。親王、下侍の衣服に就くこと、良久しきなり。次いで又、御出す。親王、仙華門より入り、庭中に於いて拝舞し、退出す。次いで内侍、殿上の戸口に出で、余を召す。進みて御前の座に着す。女蔵人、禄を取り、之を給ふ。座を立ち、長橋の内の方より下る。頸に懸け、笏を執る。道より出づ。庭中に至り拝舞す。此の間、御馬二疋を引く。梅樹の南方に立つ<馬允二人。>。退出す<禄を頸に懸くる間、物の数、多きに依り、小々、置橋の内に落とす。>。御馬を本のごとく引き出す。殿上に候ず。次いで内侍、道方朝臣を召す。進みて戸口に候ず。女蔵人、禄を取り、之を給ふ。道方、又、長橋より下り、同じく拝舞し、退出す。次いで公卿等、陣座に着すこと、旬儀のごとし。二献あり。侍従等を召すに、参り着す。汁物を居う。一献の後、蔵人頼国、来たり、諸卿を召す。座を立ち、御前の座に参上す<親王の調度・座等、上卿の座、常のごとし。>。酒肴を賜ふ。一両献の後、左右衛府、滝口の下に於いて乱声す。次いで舞を奏すること、各三曲。陵王の間、侍従已上、見参を奏す。道方に付し、之を奏す。次いで仰せて云はく、「右兵衛尉多吉茂、年七十余。当時、物の上手なり。右衛門権少尉に 加任すべし」てへり。是れ舞を立つる間、上達部等、多く哀憐す。仍りて仰せ有るか。長橋に就き、蔵人頼国を以て、楽所に候ずる吉茂を召す。此の由を仰す。即ち拝舞し、退出す。次いで座に就く後、御前に候ずる上達部に禄を賜ふ<白き大褂。>。諸卿等、座を立ち、庭中に列立す。拝舞し、退出す。次いで又、召し有り。御前に候ず。伶人を召す。此の間、御膳を供す。余を召さる。親王の叙品の事を仰せらる。仰せを承りて退出す。内記を召し、位記を作らしむ。道方朝臣に付し、奏聞す。陣座に着し、請印を奏せしむ。即ち親王に給ふ。下侍に候ずる間、彼の宮の別当侍従中納言に付す。次いで御前に参る。余、御酒を供す。数曲の後、御衣を上達部に賜ふ。入御す。公卿、退出す。親王に位記を賜ふ。即ち位袍を着す。庭中に於いて拝舞す。退出す。此の間、猶ほ上下、絃歌を奏す。親王、中宮に参り御す。御送物を給ふ。野釼一柄・横笛一管。

『御堂関白記』寛弘7年(1010)7月17日条

7.藤原惟規従五位下

 正五位下になったのは1月5日のことだと思われる。

8.藤原為時の越後守就任

https://dl.ndl.go.jp/pid/13393595/1/5

左少弁 正五位下 同(注「藤」)為時 二月一日 任越後守

『弁官補任』

 紫式部の父・藤原為時は、越後守に就任し、国衙勤務となる。
 越後国では宋との貿易が盛んになっていたので、中国語を理解でき、越前守の経験がある藤原為時が適任と考えられたのであろうが、『小右記』「長和3年6月17日条」には、三女(紫式部の異母妹)の婿・藤原信経(「信経は前司の姪也。又、聟也」)から、越後守の地位を譲られたとある。
 高齢であったので、長男・藤原惟規一家(藤原惟規と彼の妻子)がついていったという。

※このドラマには、紫式部の姉や妹、藤原惟規の妻子は登場しない。しかも藤原惟規は、登場以来、年を取っていないように見える。

9.藤原惟規の死

為善と申す儒者の子に惟規と申ものありき。おやの越中守に成てくだりける時に蔵人にて得くだらでかうぶり給てのちにぞまかりける。みちより病をうけていきつきければ、かぎりなるさまになりにけり。

『俊頼髄脳』

 藤原為善(「為時」の誤り)という儒者(「歌人」「漢詩人」の誤り)の子に藤原惟規という人がいた。父(藤原為時)が越中守(「越後守」の誤り)に任官して下る(京都から離れる)時、六位蔵人(天皇家の家政機関)であったので、京都を離れられなかったが、後に五位に昇格すると、蔵人を辞し、父の任地の越後国に向かったが、道中、病気にかかり、危篤状態になった。

※『俊頼髄脳』には誤りが多い。そして『俊頼髄脳』を写した『今昔物語集』も、同じ箇所を同じように間違えている。

※藤原惟規が越後国へ向かった時期であるが、正五位下になったのは1月5日で、藤原為時が越後守に就任したのは2月1日であるので、『俊頼髄脳』にあるように「後から行った」のではなく、ドラマで描かれたように「(妻子を連れて)一緒に行った」と思われる。
 また、 6月22日の一条天皇の崩御後に越後国に向かったとする説もある。死の直前の僧との会話に紅葉、尾花、虫の声が出てくるのは、季節が秋だからだという。


逢坂関(おうさかのせき)跡

  あふさかの関うちこゆる程もなくけさはみやこの人ぞこひしき

『後拾遺和歌集』「別」466番歌

『後拾遺和歌集』「恋三」764番歌
  都にも恋しきことのおほかれば猶このたびはいかんとぞ思ふ

■感想


キョウリュウレッドが逝った。

(落馬して逝くって、橘逸勢かよ! 源頼朝も。)

次回はキョウリュウグリーンが逝くのか?

  秋風の露のやどりに君を置きて
       
塵を出でぬることぞ悲しき(『新古今和歌集』779)

それにしても、1話で重要人物が2人亡くなるって珍しいのでは?

まぁ、以下の2年間を1話で描いたから・・・

寛弘  6年(1009年) 11月25日 敦良親王誕生。
寛弘  7年(1010年) 日付不詳 藤原為時、正五位下に(『弁官補任』)。
寛弘  7年(1010年)  1月28日 藤原伊周、死没。享年37。
寛弘  7年(1010年)  7月17日 敦康親王、元服。
寛弘  8年(1011年)  1月  5日 藤原惟規、正五位下に(『蔵人補任』)。
寛弘  8年(1011年)  2月  1日 藤原為時、越後守に就任。
寛弘  8年(1011年)  2月?秋?  藤原惟規、越後国で死没。享年38?

それにしても、2人共、理由は異なれど、
まだ死にたくなかったことしょう。

藤原惟規の享年は不明だが、一説に38。
1年前に亡くなった藤原伊周の享年は37。
つまり、2人の生年は同じ(ドラマでは同級生に見えない・・・)。

当時の平均寿命は35歳だというから、早世というわけではない。


 さて、話は39回まで進んだ。

 今は1011年。
 紫式部が1031年に亡くなったとすると、余命20年!!

 ドラマは残りあと9回!!!!!!!!!

 今後も1回2年ペース?


■おまけ 今回の『新楽府』

太宗常以人為鏡  太宗は常に人を以て鏡と為し、   「人の鏡」
鍳古鍳今不鍳容  古を鑑み、今を鑑み、容を鑑みず。 「歴史の鏡」
四海安危照掌内  四海の安危照掌内に居き、
百王理乱懸心中  百王の理乱、心中に懸く。
乃知天子有別鏡  乃ち知る。天子には別に鏡有るや。
不是揚州百錬銅  是れ揚州百錬の銅ならず。      「洞の鏡」

白居易『新楽府』「百錬鏡」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1140254/1/41

太宗は常に人を鏡とし、
歴史を鏡とし、現状を鏡とし、己の容姿を鏡に映さなかった。
四海(天下)の安全と危機を掌中に握り(把握し)、
百人の王(百代)の治世(平和と戦争)=歴史を心得ていた。
これにより、天子は平民とは別の鏡を持っていることが分かる。
とはいえ、それは揚州で鋳られた(王に献上する)磨かれた鏡ではない。

※「太宗は特別な鏡を持っていた」というと、「普通の人には持てない(買えない)高価な揚州製の銅鏡を持っていた」と思うかもしれないが、そうではなく、「人の鏡」と「歴史の鏡」を持っていたのである。

■『貞観政要』「三鏡(銅の鏡、歴史の鏡、人の鏡)の教え」




いいなと思ったら応援しよう!

レコの館(やかた)
記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。