Recoの君語り ー『光る君へ』(第39回)「とだえぬ絆」ー
主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)
【前半】
第一部「青春篇」
康保 3年(966年) 藤原道長、生まれる。
天禄元年(970年)? 紫式部、生まれる。
寛和 2年(986年)6月23日 「寛和の変」(花山天皇の退位と出家)
一条天皇(7歳)即位。
寛和 2年(986年) 「庚申待ちの夜」
第二部「関白争奪篇」
永祚 2年(990年) 7月 2日 藤原兼家、死去。
正暦 4年(993年) 7月29日 源倫子の父・源雅信、死去。享年74。
長徳元年(995年) 4月10日 藤原道隆、病没。享年43。
長徳元年(995年) 5月 8日 「七日関白」藤原道兼、病没。享年35。
長徳元年(995年) 6月19日 藤原道長、右大臣に転任し藤原氏長者宣下。
長徳元年(995年) 8月下旬 朱仁聡、林庭幹ら70余人が若狭国に来航。
長徳 2年(996年) 1月28日 藤原為時、越前守に就任。
長徳 2年(996年)夏 「月夜の逢瀬」
第三部「越前篇」
長徳 2年(996年)夏 藤原為時&紫式部、越前国へ。
長徳 2年(996年) 10月 高階貴子、死没。
長徳 2年(996年) 12月16日 藤原定子、脩子内親王を出産。
長徳 3年(997年) 紫式部、帰京。
第四部「結婚生活篇?」
長徳 4年(998年) 8月27日 藤原宣孝、山城守に就任。(『権記』)
長徳 4年(998年) 晩秋(ドラマでは9/30?)紫式部、藤原宣孝と結婚。
長徳 5年(999年) 1月13日 「長保」に改元。
長保元年(999年) 2月 9日 藤原彰子、裳着の儀(『御堂関白記』)
長保元年(999年) 2月 「石山寺の夜」
長保元年(999年) 2月末日頃 『枕草子』「二月のつごもりごろに」
長保元年(999年) 11月 1日 藤原彰子、入内。
長保元年(999年) 11月 7日 藤原定子、敦康親王を出産。
藤原彰子に女御宣旨(「本宮の儀」)。
長保元年(999年) 12月 紫式部,、藤原賢子(大貳三位)を出産。
長保 2年(1000年) 5月5日 『枕草子』「三条の宮におはしますころ」
長保 2年(1000年)12月15日 藤原定子、媄子内親王を出産。
長保 2年(1000年)12月16日 藤原定子、死没。享年25。
長保 3年(1001年) 4月25日 藤原宣孝、病没。享年不明。
長保 3年(1002年)閏12月22日 藤原詮子、死没。享年40。
【後半】
第五部「『源氏物語』篇?」
長保 4年(1002年) 6月13日 和泉式部の夫・為尊親王、病没。
長保 6年(1004年) 7月20日 「寛弘」に改元。
寛弘元年(1004年) 『源氏物語』の執筆開始。
寛弘 2年(1005年) 9月26日 安倍晴明、死没。享年85。
寛弘 2年(1005年) 11月15日 月食。内裏炎上。八咫鏡、熔解。78
寛弘 2年(1005年) 12月29日 紫式部、初出仕。
寛弘 3年(1006年) 8月2日~14日 藤原道長、金峯山参詣。
寛弘 4年(1007年) 10月 2日 和泉式部の夫・敦道親王、薨去。享年27。
寛弘 5年(1008年) 2月 8日 花山法皇、崩御。享年41。
寛弘 5年(1008年) 5月25日 媄子内親王、崩御。享年9。
寛弘 5年(1008年) 9月11日 敦成(あつひら)親王誕生。
寛弘 5年(1008年) 11月 1日 敦成親王の「五十日(いか)の儀」
寛弘 5年(1008年) 『源氏物語』の豪華本(献上用)制作
寛弘 5年(1008年) 11月17日 中宮還御
寛弘 5年(1008年) 12月30日 夜、藤壺に強盗
寛弘 6年(1009年) 1月 7日 藤原伊周、正二位に。
寛弘 6年(1009年) 1月30日 呪詛発覚。
寛弘 6年(1009年) 2月20日 呪詛の連座で藤原伊周、参内禁止に。
寛弘 6年(1009年) 3月 4日 藤原為時、左少弁に(『権記』)。
寛弘 6年(1009年) 6月13日 藤原伊周に参内許可。
寛弘 6年(1009年) 11月25日 敦良(あつなが)親王誕生。
寛弘 7年(1010年) 日付不詳 藤原為時、正五位下に(『弁官補任』)。
寛弘 7年(1010年) 1月28日 藤原伊周、死没。享年37。
寛弘 7年(1010年) 7月17日 敦康親王、元服。
寛弘 8年(1011年) 1月 5日 藤原惟規、正五位下に(『蔵人補任』)。
寛弘 8年(1011年) 2月 1日 藤原為時、越後守に就任。
寛弘 8年(1011年) 2月?秋? 藤原惟規、越後国で死没。享年38?
・・・・・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
寛弘 8年(1011年) 6月22日 一条天皇、崩御。享年32。
寛弘 9年(1012年)12月25日 「長和」に改元。
長和 3年(1014年) 6月17日 藤原為時、任期を残して越後守を辞任。
長和 5年(1016年) 4月29日 藤原為時、三井寺で出家。
第六部「終活篇?」
長和 6年(1017年) 4月23日 「寛仁」に改元。
寛仁 2年(1018年) 10月16日 藤原道長の3女・藤原威子が立后。
藤原道長、「この世をば…」と詠む。
寛仁 2年(1018年) 12月 7日 敦康親王、病没。享年20。
寛仁 3年(1019年)3月末~4月「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」
寛仁 5年(1021年) 2月 2日 辛亥革命により「治安」に改元。
治安 4年(1024年) 7月13日 「万寿」に改元。
万寿 2年(1025年)? 清少納言、死没。享年61?
万寿 4年(1027年)12月 4日 藤原道長、病没。享年62。
万寿 5年(1028年) 7月25日 「長元」に改元。
長元 2年(1029年)? 藤原為時、死没。享年81?
長元 4年(1031年)? 紫式部、死没。享年62?
永承元年(1046年)1月18日 藤原実資、死没。享年90。
永保 2年(1082年)? 藤原賢子、死没。享年84?
今回はドラマに沿って。
1.藤原彰子、敦良親王(後朱雀天皇)を出産
【現代語訳(藤村作訳)】
やがて十一月の廿五日に、中宮御產の御徵候が見えたので、例の如く騷ぎの聲は殿中に鳴り滿ちた。けれど今度は御物怪がおとなしいのは、限りなき御祈の効驗であらう。間もなく大相安らかに皇子御誕生遊ばされた。
中宮(藤原彰子)が御帳に入られた後、辰三つ(たつみつ/午前8時~午前8時半)に、男皇子(おとこみこ/敦良親王)を降誕させた。暫くの間、重く苦しむことが有ったのではあるが、大したことは無くいらっしゃった。
※敦成(あつひら)親王の出産時には、呪詛されていたのか、難産であったが、今回は安産であった。
※南北朝時代の後醍醐天皇の子供たちの名は「~良親王」で、読み方は、「~よし」か、「~なが」かと議論が絶えないが、敦良親王の読み方は「あつなが」だという。「なが」は「長」だと思うけど・・・。
2.三夜の御産養(うぶやしない)
※産養(うぶやしない):平安朝の貴族社会などで行われた通過儀礼の一つ。子どもが生まれた日の夜を初夜といい、その日から3、5、7、9日目にあたる各夜に祝宴を催す。「生養」「養産」とも表記する。
酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃、中宮に参った<東御門から参った>。上達部(かんだちめ)の饗饌(きょうせん)を東対の西面に設置したことは、去年と同じであった。左大臣(藤原道長)は、諸卿を歓引して座に着させた。参入しなかった人は、ただ右大臣(藤原顕光)・内大臣(藤原公季)・帥(そち/藤原伊周)だけであった。
3.子の日の宴
※子の日の宴(ねのひのえん):正月の初めの子の日に、宮中で公卿(くぎょう)や侍臣(じしん)などに賜った宴。
※大饗(だいきょう):大きな饗宴。二宮大饗(にぐうのだいきょう)と大臣大饗(だいじんのだいきょう)とがある。
二宮大饗とは中宮と東宮の二つの宮の大饗をいい、1月2日に行われる。
大臣大饗は正月と大臣任官時に行われる。
(一条)天皇の出御が有った。殿上間(てんじょうのま)にお坐りになられた。管弦の公卿(くぎょう)や殿上人(てんじょうびと)は、小板敷(こいたじき)に伺候した。ほかの人は台盤に着した。盃の巡行が数度あった。御楽遊が数曲あった。御衣(おんぞ)を賜った。
公卿(くぎょう)方は清涼殿に参られ、主上(一条天皇)も殿上の間にお出ましになられて、管弦の御遊びがあった。殿(藤原道長)はいつものようにお酔いになられている。私はうるさいと思って隠れていたのに見つけられて、「どうしてお前の父は、(一条天皇の)御前の御遊びに呼んだのに伺候もしないで急いで退出してしまったのか。ひねくれているな」などと、(藤原道長に)絡まれてしまった。
※野辺に小松のなかりせば:「子の日する野辺に小松のなかりせば 千代のためしに何をひかまし」(壬生忠岑)。正月(立春)初めの子(ね)にあたる日には、野辺に出て小松を引き抜いて長寿を願う、または引き抜いた小松の根の長さで長寿を占う。京都では「根引き松」といって、根が付いた松が門松として飾られるが、手ごろな松の木が無い時は、何を引き抜こう。
4.藤原伊周の死
前大宰帥(さきのだざいのそち)正二位藤原朝臣(あそん)伊周が薨去(こうきょ)した<37歳>。
5.藤原妍子の入内
※入内(じゅだい):天皇の后(きさき)として宮中に上がること。
尚侍(ないしのかみ/藤原妍子)が東宮(居貞親王)の許(一条第)に参入した。時に亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)であった。
6.敦康親王の元服
※元服(げんぷく):男性が成人して髪形や服装を改め、初めて冠をつける儀式。
7.藤原惟規従五位下
正五位下になったのは1月5日のことだと思われる。
8.藤原為時の越後守就任
紫式部の父・藤原為時は、越後守に就任し、国衙勤務となる。
越後国では宋との貿易が盛んになっていたので、中国語を理解でき、越前守の経験がある藤原為時が適任と考えられたのであろうが、『小右記』「長和3年6月17日条」には、三女(紫式部の異母妹)の婿・藤原信経(「信経は前司の姪也。又、聟也」)から、越後守の地位を譲られたとある。
高齢であったので、長男・藤原惟規一家(藤原惟規と彼の妻子)がついていったという。
※このドラマには、紫式部の姉や妹、藤原惟規の妻子は登場しない。しかも藤原惟規は、登場以来、年を取っていないように見える。
9.藤原惟規の死
藤原為善(「為時」の誤り)という儒者(「歌人」「漢詩人」の誤り)の子に藤原惟規という人がいた。父(藤原為時)が越中守(「越後守」の誤り)に任官して下る(京都から離れる)時、六位蔵人(天皇家の家政機関)であったので、京都を離れられなかったが、後に五位に昇格すると、蔵人を辞し、父の任地の越後国に向かったが、道中、病気にかかり、危篤状態になった。
※『俊頼髄脳』には誤りが多い。そして『俊頼髄脳』を写した『今昔物語集』も、同じ箇所を同じように間違えている。
※藤原惟規が越後国へ向かった時期であるが、正五位下になったのは1月5日で、藤原為時が越後守に就任したのは2月1日であるので、『俊頼髄脳』にあるように「後から行った」のではなく、ドラマで描かれたように「(妻子を連れて)一緒に行った」と思われる。
また、 6月22日の一条天皇の崩御後に越後国に向かったとする説もある。死の直前の僧との会話に紅葉、尾花、虫の声が出てくるのは、季節が秋だからだという。
『後拾遺和歌集』「恋三」764番歌
都にも恋しきことのおほかれば猶このたびはいかんとぞ思ふ
■感想
キョウリュウレッドが逝った。
(落馬して逝くって、橘逸勢かよ! 源頼朝も。)
次回はキョウリュウグリーンが逝くのか?
秋風の露のやどりに君を置きて
塵を出でぬることぞ悲しき(『新古今和歌集』779)
それにしても、1話で重要人物が2人亡くなるって珍しいのでは?
まぁ、以下の2年間を1話で描いたから・・・
寛弘 6年(1009年) 11月25日 敦良親王誕生。
寛弘 7年(1010年) 日付不詳 藤原為時、正五位下に(『弁官補任』)。
寛弘 7年(1010年) 1月28日 藤原伊周、死没。享年37。
寛弘 7年(1010年) 7月17日 敦康親王、元服。
寛弘 8年(1011年) 1月 5日 藤原惟規、正五位下に(『蔵人補任』)。
寛弘 8年(1011年) 2月 1日 藤原為時、越後守に就任。
寛弘 8年(1011年) 2月?秋? 藤原惟規、越後国で死没。享年38?
それにしても、2人共、理由は異なれど、
まだ死にたくなかったことしょう。
藤原惟規の享年は不明だが、一説に38。
1年前に亡くなった藤原伊周の享年は37。
つまり、2人の生年は同じ(ドラマでは同級生に見えない・・・)。
当時の平均寿命は35歳だというから、早世というわけではない。
さて、話は39回まで進んだ。
今は1011年。
紫式部が1031年に亡くなったとすると、余命20年!!
ドラマは残りあと9回!!!!!!!!!
今後も1回2年ペース?
■おまけ 今回の『新楽府』
太宗は常に人を鏡とし、
歴史を鏡とし、現状を鏡とし、己の容姿を鏡に映さなかった。
四海(天下)の安全と危機を掌中に握り(把握し)、
百人の王(百代)の治世(平和と戦争)=歴史を心得ていた。
これにより、天子は平民とは別の鏡を持っていることが分かる。
とはいえ、それは揚州で鋳られた(王に献上する)磨かれた鏡ではない。
※「太宗は特別な鏡を持っていた」というと、「普通の人には持てない(買えない)高価な揚州製の銅鏡を持っていた」と思うかもしれないが、そうではなく、「人の鏡」と「歴史の鏡」を持っていたのである。