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 私の本棚はカラーボックスを三つつなげただけの安物だ。ざっくばらんに本を詰められていて、ふとした拍子に中身を全部吐き出してしまいそう。棚の寸法が足りなくて横に倒して積んでいる本もあるし、並んだ背表紙と棚の間に詰め込まれた本もある。やたらめったらに引き出して中身がスカスカになった二段目では、状態の悪い文庫本が斜めに倒れて重なっていて、昔好んで読んでいた三浦しをんの小説のタイトルを久方ぶりに晒している。

 本をやたらめったらに引き出して私が何をしようとしていたかというと、単純に昔何が好きであったかを思い出すためだった。ジャンルや好みに関係なく、好きな音韻のタイトルを毟るように買って読んでいた頃は、そうして出会った作家――三浦しをん、小川洋子、木原音瀬――、とにかく好きな作家を見つけては作家買いを繰り返した。実家においてきた大量の小説の事を思い出さない事もないけれど、仕方ない。持ち運ぶには限度があった。そもそもあの量はカラーボックス三つに収まるものではないのだ。

 それでも引っ越しに連れてきた、昔好きだった少女小説があるのだけれど、最近読み返したらウワッと粗いところが見えてきて、すぐ本を閉じてしまった。ずいぶん遠いところまできたものだ、とつくづく思う。あの先生に憧れていたのに、今、私は何を考えている?

 カラーボックスの奥の方には十代の私が好んでいた本が身を寄せるようにして埋まっているのだが、その手前には最近資料として集めた新書、ノンフィクションのもろもろ、小説やシナリオの書き方のハウツー、古典読本、実用書「イラッとされないビジネスメールの書き方」などが我が物顔で居座っている。A6サイズの文庫本の乱れようもない整列は、明らかにこれらのサイズ違いの本によって乱されていた。収まりきらなくなった本はカラーボックスの上にうずたかく積まれていて、地震が来たらもうおしまいだ。この積んである本は大部分が「流行研究用」のライトノベルである。

 何を隠そう、私は出版社からライトノベルを出した経験がある。無論、続く本も出したいと考えている。だが最近、メンタルの不調や自身の現在地の置き所を見失って、つまりとんと上手くいかなくて、とにかく参っている。
 そこで、そもそも自分は何をしたいのか? を判別するべく私は本の整列を乱して、立てた膝のよこに地層のごとく本を積み上げ、これまでの読書歴を遡るようにして本の冒頭だったり中盤だったり後半だったりラストシーンだったりをつまんで読んでいるわけだ。そしてこの文章を書いている。

 私が最も苦手とするのはストーリーの構成部分にあたる。そして小説全体を序盤/中盤/結末と分けたときの、中盤以降の書き方がてきめんに下手くそだと自負する。逆に言えば序盤だけやたら上手に情報を開示できるというわけなのだが、あまり褒められたことではない。情報開示は大事だけれど、中盤以降、人をストーリーの旅へ誘うための起伏が作れないようじゃ、小説として、そして作家としても腕がいいとはいえない。練習するべきだ。
 なのに、書けない。上手く書けない。エタらせてしまう。つまり、続きを書けなくなってしまう。今まで魅力的に見えていた自分の物語が、路傍の石みたいに輝きを失うことがあって、まさにそれが立て続けに起こってしまった。
 上手く書けないから、失敗を恐れて冒頭すら書けなくなってしまった。

 終わらなくなった物語について、突然ニンジャが出てきて全員切り伏せてしまうなり、全部爆発させて消失させてしまうなりして「たたむ」べきだ、という話もあるが、それができるほど神経が太くない。いや、アマチュアだったらいくらでもそれをやれたと思う。でもいちど名を売ってしまった以上、下手な終わらせ方をするよりか、この続きは読者の想像にお任せして……という消極的方法をとりたくなってしまう。悪手だ。

十万字の壁は厚く高く、並大抵の事では破れそうにない。どうしてそんなに長いお話を考える事ができるのか、書き手の皆さんに訊いてみたい。

 なお、以上は文章を書くリハビリの一環である。

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