今一番辛いことは、自分が捉えている「価値」の解釈を言語化し、定義しないといけないこと
大学院、学会、修論、発表。自分の価値観の一部を切り取って、表現し、他者がわかるものとして伝えている。「ようやくわかった」と、わかるはずがないことを簡単にわかったと言われる。何年、悩み、考え、実践し、失敗しを繰り返し、それをも吸収し、実践してきたことか。
これまで起業家として、わかってたまるかという矜持を持ち、表現できないが確かに存在させることで認めさせる表現をしてきた。
「価値」を定義する
強い拒絶感がある。それは、僕自身の教育に対する考え方からきているように思う。前提として、人には教えられるものではないということがある。萌芽をたくさん生み出すこと。当たり前を見直すこと。他者との関係性を見つめること。答えはそれぞれがそれぞれの時間軸の中で、関係性の中で導き出し、改め続けることなのだと思う。その時間軸の中での気づきとそれぞれが改め続けたいものが「価値」なのだ。
だからこそ、プログラムを設計提供する者として「価値」を定義したくないと拒絶しているのだろう。
世の中に価値のないものなんてないという声が脳内に響いた。
それはそうだ。あらゆるものに価値がある。価値が認識できていないか、価値として捉えていないだけだ。
では、僕の捉えている価値は、あらゆることにあるという定義なのか。伝えたい価値とはそういうものなの?。
村・留学を通じて伝えたいことは、そうではないと断言できる。では、価値の定義をする必要があるだろう。なんだか、脳内で数人の僕が会議をしている。ふむふむ、なるほどと感心をした。
価値を定義する
少なくとも、価値として伝えたいものを定義するというといいのだろう。価値は時間軸の中に、そのストーリーの中においている。イヴァン・イリイチのヴァナキュラーに心惹かれる。ヴィンテージや復刻のファッションにも心惹かれる。そこには共通なものがあるように思う。
人の暮らしに基づいた、文化、コミュニティ、生業、信仰、方言、儀礼、慣習、自然との寄り添い、循環。その結果刻み込まれたもの。僕はこれを「価値」と名づけているのだろう。これからの制約条件下における社会にとって、これらの価値を見直すことがこれからの社会を持続可能の上に豊かに生きるヒントになることだと考えているからこそ「価値」と定義したい。
うーんと、果たして、価値の定義になっているのか。
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