生と死について
私は小学校四年生の頃から死にたいと思っています。一度も「生きたい」と思ったことはありません。けれど生きています。この時点で矛盾していると思うでしょうか?人間は矛盾する生き物だとか、そういう考えもあるうえで私は今回この矛盾についてお話ししたいと思います。
私が始めて死にたいと思ったのは、日本語を理解したことがきっかけでした。他人が自分に悪意を持っているとはっきり理解した瞬間でした。母が私を貶すだとか、産まなきゃよかっただとか、そういうことはままありましたがあの頃の私はそれに対して何かを思うことはありませんでした。いつもの事だったからです。
バカ、アホ、そんな月並みな言葉もありましたし国に帰れ、汚い血などどうしようもないことも言われました。容姿や母の事、国自体の悪口もありました。子供は本当に残酷だと思い、私は図書館にこもったり、学校に重きを置きたくなくて現実から離れようと演劇をしてみたり、習い事をたくさんしてみたり……とにかく、学校から逃げることで精いっぱいでした。
死にたいならこのタイミングで死ねばよかったと思いますか。逃げるようなことをせずに学校にただ留まって心を完全に殺してしまえば、新しいことを習ってわずかな希望なんかに縋らずに死んでしまえば楽になれたのにと思いますか?私もそう思います。
中学に上がり、自分の住む地域が自分に合わないのかと私は遠くの高校へ進学しました。通学に二時間もかかるような場所です。結果、そこでは二年生からはいじめはほぼなくなってました。先輩からいじめられることはあっても、私の顔が人間のものじゃないなんてことは小学校の頃からわかり切っていたので「はいはい」と流すことができました。分析すると、このころには死にたいと思う原因などほぼなく、ただ死にたいと思うことが当たり前の体になっていました。慣れって怖い。
私、恥ずかしながらインフルエンザに一回しかかかったことがないんです。インフルエンザの予防接種も仕事の指示で以外は受けたことない(ワクチン否定派ではないです)んですけど、その一回で髄膜炎を併発し麻酔なしで骨髄ぬかれたり結構大変な目に合いましてそれこそ死ぬかなと思ったのですがその時に思ったのが以下の言葉です。
「あー。これで死ねる」
まあそのあと意識を失ってヤバめの夢を見て気付いたら入院×日目みたいな感じだったのですが。
高校を卒業したあと、大学に行くはずが急に行けなくなった時も、私はまあどうせ死ぬし好きなことしたかったけどいいか、という気持ちで働き始めました。このころには自分がどういうタイミングで死にたくなるのか、どういう感情と体調が落ちていく合図なのかをほぼわかっていました。なので「あ、これは死にそう」「じゃあこうしよう」という対策が取れるようになってました。ちなみに私の自傷方法は首吊りとOD、過食と拒食を繰り返したり食べたものはいたりしてました。
ところで、あなたには信じたいことってありますか。親の愛とか、推しがトイレ行かないとか、何でもいいんですけど。ありますか?
私の信じたいことは人はみんな死にたくて、でも死ねないから生きてる、仕方なく生きてるということです。
だって私はずっと死にたくて、それが当たり前で、それが異常なんて思ったら生きていけないから。おかしいですよね、矛盾してますよね。死にたいなら死ねって、私もそう思います。
私はずっと死にたくて、だけど死なない理由を作って生きてきました。明日大事なプレゼンがあるから死ねない、一週間後には発表会があるから死ねない、一か月後には友達と旅行に行くから死ねない、今飼ってるペットが死ぬまでは死ねない。例えばそのすべてが吹っ飛んだら私は迷いなく死ぬと思います。
死を意識すれば死が身近になる、私は話せば「いやそれ死んじゃうじゃん!」と言われそうな経験ばっかりです。でも話せるだけ自分の中でのみこんで消化しているわけです、本当に話せないようなヤバい経験だってあります。あなたにはヤバい経験ありますか?誰にだって一つくらいはヤバい経験ってあると思います、特にアラサー世代くらいを超えると。それがプラスだろうとマイナスだろうと。
自分はいわゆるメンヘラでしょう。こんな文章をすらすら書いているわけですから。画面の向こうの私は表情一つ変えずにこれを書いているわけですけど、メンヘラツイートをしてるとき爆泣きしててもいいんですよ。どうせ顔も見えないし、真偽は誰にも分りません。
で、話がそれたけど本題。死にたいけど生きたい、だけど生きたいと思ったことはないという話に戻りましょう。私は今まで大けがして事故に巻き込まれてパワハラされて病気でもうろうとして難産を経験して、そのどれでも死にたくない生きていたいと思ったことはありません。
私の意識の中で、生きることは仕方がないことです。
仕方なく生きる、死ぬことができないから、無責任に何もかも放り出してしまえないくらいには精神が余裕を持っているからまだ生きられるし仕方ない。死んだら犬も猫も誰も世話をしてくれない。花に水をやる人はいないし。まあ子供は行政が何とかしてくれるでしょう。でも精神発達上絶対影響はあるだろうし。私が作ったものは私がいなくなったらすべて消えてしまうし。更新は途絶えて誰かに迷惑をかける。だから、死んではいけないし生きてなきゃいけないと仕方なくやれやれ生きるわけです。
死にたくてたまらないなんて日は月の半分はそうで、あとは義務感で生きているのが現状です。私の心は死にたがってるけど、私の体は生きていたいんだと思うことで折り合いをつけています。だって現実問題、私が死んだら私がやりたかったことは何もできないし。
もしこれを読んだあなたが今死にたくて、その死にたい理由が分かっているならもういっそ「死ぬんだからこんなものぶっ壊してやる」「逃げ出してやる」という気持ちでもいいのでは?でも犯罪は他人に迷惑がかかるし死にぞこなったときに面倒なので、平和的な方向で。体の性と心の性すらすれ違うんだから生き死にの意見もすれ違ったって仕方ないでしょうって思うんですよね。
私も早く楽になりたいです。大病したらそれはもう体がリタイアしようとしてるんだって思って何も抵抗したくないです。でも犬猫が心配なので次の死チャンスはその子たちを見送ってからがいいな
あなたにいま、生きる理由がないなら生きる理由を探せばいい、生きる理由を探す元気がないならただ床に転がって天井でもTwitterでも見ればいい。死ぬって決意してる人は、どうか良い旅路を。死ぬ理由を探すでもいい、自分の思うままにみんなが人生を使える世界になったらいいと思います。