庄司薫「赤ずきんちゃん気をつけて」を読んで
前回166回芥川賞「ブラックボックス」について書いたが、今回は第61回受賞作の庄司薫について書く。1969年の話だ。作者は今84歳で、これを受賞したのが32歳。僕の父親が生まれる前にすでに30歳になっていた人と考えれば、もう古典も古典だ。
まずこの本だが、読み始め3行くらいでこう思った。「こういう人はどの時代でもいるもんだ」。海外文学が好きで、頭が良くて、文体がカッコつけで、おまけに作者自身のわりと爽やかで好青年風という、一言で言うと嫌な奴(作者の写真は表紙の裏に載っている)。
まずこの本の何が腹立たしいかというと、「ライ麦畑」の口語体を真似ているところだ。みんなライ麦畑は好きなのに、どこの馬の骨ともしれない若者が突然ライ麦風の小説を書くと「文学気取り」「イキってる」と認めない。もし現代でこれを書く人がいればまず嫌がられるだろう。サリンジャーの二番煎じところか、庄司薫の二番煎じになるのだから。
しかし選考委員の評価はかなり良い。「若さだけで書いているが、その若さを買っても良い」というようなコメントが多い。事実、この本はとても面白かった。
この本から「なんか」「みたいに」「誓っても良いのだけれど」「まいっちゃうんだけど」的なワードを抜いたらページ数は半分になるんじゃないかというくらい、上記の言い回しが多用してある。言いたいことは3文字か4文字で終わるのに、いちいち回りくどい言い方をして文章を延ばしている。だが、結局これはリズムの問題なのだ。まわりくどかろうがキザだろうが、リズムが良ければ面白い。この本は読んでいて気持ちいい。
この本から学ぶことは多くある。一つ。色々な本を読むことは良いこと。ということ。庄司薫がサリンジャーの文体を借用したのは色々読んできた中で「ライ麦」が結局一番性に合っていると気づいた結果だろう。歴史上の作家の中から「一番自分に似た性格の人」を見つけることができたのだ。そしてそれを見つけてしまえば、あとは真似するだけだ。
二つ。本は書き続けなければ意味がない。ということ。庄司薫が4冊の本しか出してないことはもったいないと思う。多分やる気がなくなったんだろう。確かにその意志の弱さは「赤ずきんちゃん」に現れている。どんなに面白い話が思いつけなくなっても、我慢して書き続ければ良いのに。庄司薫というだけで本を買う読者もいたろうに。
三つ。こういう中身のない本は、書いていて疲れる。ということ。面白いのは面白いけど、初見以上の印象を超えられない。デビュー作はこれで良いとして、作家としてやっていくならやはり3作目くらいでドンとした長編を書く必要があるということ。庄司薫だってやればできたろうに、そこまで踏ん張る情熱がなかったのだろう。
この本は50年以上前に書かれたのに、考えは現代の若者と同じだった。若者はいつだってこういう「ライ麦」的なみずみずしさがあって、おじさんの選考委員は結局そういうのが好き(というか羨ましい)んだろうな、と思った。
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