見出し画像

愛という名の孤独

毎月なんだかんだ文芸誌をチェックしている。目次を見て気になる作家がいたら少しだけ読んでみる。

10月には新潮、すばる、文藝の新人賞が発表された。気になったのは文藝の「ハイパーたいくつ」。2回立ち読みし、3回目で買った。新人賞が出るとまず気になるのが作者の顔だ。どんな顔をしているか。これが「よさそう」であると、読むモチベーションがちょっとあがる。

ハイパーたいくつの作者はよさそうだった。文章も、最初は最近なぜか流行りのラップ調、体言止めのリズム重視でやれやれと思ったが、2、3ページ読み、リズム100%というわけでもないなと思った。ところどころ共感できるポイントがあったからだ。最近のサブカル好きの若者のあるあるを正直に書いている点、1文1文をこだわって書いている点が好印象だった。

印象が良ければ読み進められるが、僕はこのごろ、こういう都市文学?は必ずサガンと比較してしまう。

僕は今、失われた時を求めてを読んでいるので、それ以外の本を読むのを禁止している。文芸誌はよしとする。なぜなら、どうせ1作すら読み終えないから。例えば不意にフォークナーが読みたくなったとする。これはダメだ。海外文学はダメ。せっかく読んできた失われた時を求めて求めてを上書きしてしまうから。

……なのに、サガンの新しい本を図書館で借りてしまった。「愛という名の孤独」。図書館で文芸誌を読んでいたら、不意に読みたくなったのだ。サガンのエッセイというは気になっていた。小説ではあんな感じだが、実際の声はどうなのか。

読んでいくと、小説のままだった。周りがしない喋り方、あいづちをしたい。本の感想を言うにしても、みんなが言うようには褒めない。あえて脈絡のない言い方をする。1文か2文を飛ばしたような。悪いことを良いことと言い、良いことを悪いことと言う。

サガンに本当の親友がいたのかは怪しいところだ。

僕はこの訳者を朝吹登水子だと思って読んでいたのだが、後になって由紀子の方だと気づいた。これは朗報だった。登水子の訳の文体だけが好きなのだが、登水子訳のサガンの小説はほとんど読んだので、同じ本を繰り返し読んでいた。
これでまた1つ楽しみが増えた。

文芸誌の小説と違い、サガンの本はすらすら読める。僕は文体さえ良ければどれだけつまらない話でも読めると思うのだが、本当はそうではないのだろうか。

ハイパーたいくつは、文体が良いと思う。しかしサガンのように夢中で読めないのはなぜだろう? だいぶんいいと思う新人作家なのに。

シックかどうか、というのだろうか……

いいなと思ったら応援しよう!