満月の夜は、"一千億人分の一"の孤独と奇跡をかみしめて
例えば、今朝読んだ新聞を思い出してみる。
それは、記者が「過去から現在に至る人類の総数」について読者から質問をされたが、答えがわからず頭を悩ませた結果、著名な本から引用した、という内容だった。
〈時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が地球上に足跡を印した〉とある。数字の当否は見当もつかない。
勿論前後には色々書いてあったのだが、最近特にポンコツになった頭で明確に思い出せるのはこの一文くらい。
年々、記憶容量の目減りは著しいが、今はそれを嘆いているわけではない。
注目したのはその数字だ。
一千億人とは、途方もない数だ。
その内の何割が、私のように母親になったのか。
それこそ、太古の昔から地球に寄り添い、足跡を見つめ続けた月のみぞ知ることだろう。
お月様とって
「まま、おつきさま、とって」
そんな、宇宙ロマンを交えた人類の歴史への思いは、2歳の言葉にあっさり中断される。
ちなみにこの言葉を聞くのは2回目だ。
何のことはない。
珍しく高尚なことを考えたのは、全て現実逃避したかったからである。
「ええ…もう遅いからやめようよ…」
1回目は聞こえないフリをしたが、2回目は通用しないので、
「めんどくさい」という感情を隠しもせず、顔と声に全力に押し出して返事をする。
原因はアレだ。
図書館から借りてきた、「パパ、お月さまとって!」を読んだからだ。
お月様と遊びたいという娘の為に、パパが長い梯子を持ってお月様を取りに行く仕掛け絵本にすっかり魅了された息子は、今夜も仕事で不在のパパの代わりに私に声をかけた。
エリック・カールの一見地味な色彩のこの絵本にそこまで入れ込むなんて、という感慨にふけってもいいのだが、もう時間が遅い。21時すぎてる。
幼児は寝る時間。
そして一日中その幼児の相手をした母も寝る時間だ。
保育園も幼稚園もまだ行っていない子どもと2人きりというのは、体力も気力もガリガリと削られる。
おまけに、我が子はイヤイヤ期真っ盛り。
1日に消費するエネルギーは計り知れない。
そんな幼児と共に数々の家事をこなすというハードワークを経て、ようやく布団ありつけた私にとって、外に出るなんて絶対にしたくない。
このまま眠りにつきたいし、体温でいい感じに温まったお布団に朝まで包まりたい。
しかし、そうは思いながらもよっこいしょ、と体を起こす気になったのは、
2歳のイヤイヤ大王の爆音泣きに付き合うのと、
ちょっくら月を見に行くのではどちらが楽か天秤にかけた結果だった。
月見
温かく柔らかい身体を抱っこして、カラカラと窓を開けてそこそこ広いベランダに出れば、
ふわり、と頬を撫でる風が冷たく、秋を実感する。
「ほら、お月様よ」
折しも満月で、その光は私たちを照らせるぐらい明るい。
息子は、腕の中でその小さな手を一生懸命伸ばして月を我が手に取ろうと画策し、いくらやっても出来ないことを不思議がる。
それはとても微笑ましいのだが、そのあとの発言がいただけない。
「近くいこう」
そうきたか。そうきましたか。
いやだいやだ。
もう玄関より先は行きたくないんだ。
目の前のイヤイヤ大王よりイヤイヤしたい。
しかし、大王は許してくれるはずもなく、腕の拘束から解き放たれようともがき始める。
あー。待って。素足だから君。
なんとか部屋まで戻って開放すると、やはり玄関にまっしぐら。
紛れもない。外に行く気満々だ。
でもね。待ってくれよ。
21時はすぎてるし、君も私もパジャマだ。
そんな姿でうろうろしてたら通報されてしまう。
イヤイヤスイッチが入る前に手早く着替え、息子のパジャマも脱がして、普通の服をタンスから引っ張り出している間、「待つ」という言葉を知らない2歳はとんでもない格好で外に出ようと勇んでいる。
何ということでしょう。
肌着一枚にリュックとサンダルを組み合わせ、だいぶ見えてるオムツがポイント。
時代の最先端をいくそのハイセンスでの外出は、お母さんの逮捕は免れません。
奇妙な散歩
よちよち、がまだ残る歩き方で夜の町へ勇ましく、月を追いかける2歳とそれを後からついていく毛玉だらけの服を着たくたびれた母親。
意外なほど人通りは多いが、やはりこんな珍妙な二人組はすれ違う人たちの視線を集める。
好奇の目にさらされて、「早く帰りたい」という気持ちはさらに膨らむが、そんな母の気持ちなど知ったこっちゃない我が子は、月を追いかけていたはずなのに、気がつけば道端に落ちている小石に夢中になっている。
車のヘッドライトが途切れれば、満月の光が道路を照らす。
まじまじと見れば、きっと、ウサギの影を見つけることができるのだろうが、目を離せば道路まで石を追いかけて行ってしまうので、代わりに小さい息子の背中を眺める。
(この散歩は、いつまで続くのだろう)
それは、このイヤイヤ期はいつ終わるのだろう、という思い。
些細なこと、と私は思うことで簡単に2時間は泣くエネルギーには、ほとほと消耗する。
今日はこんな遅い時間に外に出たが、陽がとっくに落ちてから外出するのは毎日のようだ。
なぜ、私は今こうしているのだろう。
一千億人の内、どのくらいの母が満月の夜に、しかも幼児はもう寝てなければいけない時間に外を歩いてるというのだ。
孤独だ。
どうしようもなく孤独だ。
一日中いつ爆発するか分からない幼児といて、気が狂いそうだから、人類について考えたりして。
どんなに遡ってもこんな夜を過ごす人なんていない。いるはずが、無い。
下を向いたままだと、涙が落ちそうなので無理やり前を向くと、交差点の向こうにコンビニの光が見える。
その煌々と光るその存在を、終わりの無い1日のゴールにしたい。
「息子さん、あそこに月があるかも知れない」
その声に、何を探しにきたか思い出した息子は、小石から目を離し、ようやくとよちよちと光に向かって歩みを進めた。
あんまんと月
「ほら、息子さん。お月様だよ」
眩い光を放つコンビニ内をくまなく散策し、月が見つからないと外に出た息子に、さっき買ったあんまんを見せる。
ほかほかと暖かく、イーストの優しい香りが鼻腔をくすぐる。
つるっとした表面は、夜空に浮かぶ月に見えなくも無い。
(もうこれでいいじゃん)
そんな安易な考えは、当然イヤイヤ大王には通じるはずもなく。
「これちがう!あーまん!!」
はい。その通り。
一蹴されたあんまんをすごすごとレジ袋に戻し、イヤイヤスイッチが完全にオンになった息子を抱っこ紐に入れる。
(ああ。今夜の散歩も徒労に終わった)
顔を真っ赤にして癇癪を起こしまくる我が子に、これなら、最初から出なければ良かった、なんて思ってしまう。
「あーまん、食べたいの!」
「そうだね」
熱々のあんまんをすぐに食べさせるわけにはいかないが、NOと答えれば火に油。
しかし、YESとも答えられない。
そんな時の回答が、さきほどの「そうだね」だ。
これは、長い間イヤイヤ期に付き合って、唯一私が見出した対策である。
泣き喚く幼児と、くたびれた母は、やはり道行く人に好奇の目に晒されながら、行きよりも早く家路を歩く。
いや!!だめ!!きらい!!!
金切り声と一緒に顎パンチをしてくる息子の背を撫でて、早足に歩く。
こんなことをしても癇癪はおさまりはしない。
帰り道は、コンビニも無いし、月に背を向けているせいか、行きよりも視界が暗い。
そんな目の前を見ていると、この道の先に出口なんて無い気がする。
癇癪を起こさないように外に出てもダメ。出なくてもダメ。
理不尽なその態度は、今の時期だけだと分かっているし、
誰かに相談すれば、『そんなの今のうちよ』とか、『誰もが通る道』と返ってくる。
そんな言葉は聞きたく無い。
そんな言葉で、頼りない足元は変わらない。
母でいる孤独も、重圧も、変わらない。
何も変わりはしないのだ。
何も。
耐えられるだろうか。
いつか現れる出口まで、私は、歩けるだろうか。
こんなに、心細いままで。
「おつきさま、明るい」
いくらパンチしても動じない母に、癇癪は徐々に治まり、目線の先にある月に息子の興味は移る。
「そうだね」
つかれた。早く寝たい。
「まんまる」
「そうだね」
「ついてくる」
「そうだね」
つられて見上げれば、まんまるの月は随分高く空にのぼっている。
この時期の月の美しさは、何度見ても見惚れてしまう。
そのせいで、本心とは違う言葉を気がつけば口にしてしまった。
「今ならお月様、捕まえられるかも」
水月
ベランダの隅に転がったバケツを拾い、中に水を貯める。
ざわめいた波が収まるのを待ち、慎重にバケツを動かして、もぞもぞと抱っこ紐から抜け出したい息子に声をかける。
「ほら、見て」
穏やかになった水の上に、ぷかりと月が浮かぶ。
先ほどの散歩で、月が真上にあると気づくことができた。
「大きいお月様を捕まえるのは無理だったから、赤ちゃんお月様に来てもらったんだ」
だから、こんなことも言えたりする。
息子に見えるように中途半端な姿勢で屈むのだって苦痛じゃない。
「あかちゃん?」
「そうだよ。息子ちゃんより、赤ちゃんかな」
先ほど買ったあんまんほど小さく、薄汚れたバケツに浮かんだ不格好な月。
(だめかな)
いくら何でも、これでは通用しないか。
さて、どうやってはぐらかそうか。なんて幾らか余裕が出てきた頭で、次の作戦を考えていれば、当の息子は真剣に眺めている。
そして、ようやく口にした言葉は、今までの激しさなど一切感じさせぬほど、穏やかだった。
「おつきさま、きれいね」
たったそれだけ。
ただ、それだけなのに。
「これちがう!」「いや!」では無い言葉が、こんなに嬉しい。
キラキラと瞳を輝かして穏やかに笑う顔が、愛おしい。
叫び出したい孤独も、終わらない1日の疲労も、ほろほろと溶けていく。消えていく。
今日でイヤイヤが終わるわけではない。
明日も、明後日も、その先も、ほんの些細なことで息子は否定し、癇癪を起こし、泣き叫ぶ。
それでも、ほんの気まぐれでも、息子の言葉は、笑顔は、この長く孤独な夜が無駄では無かったと思えてしまう。
「うん。きれいね。本当にきれい」
水上の月はいつまでも揺れる。
それは、私の瞳に涙がいっぱいに溜まっているからだと気づいたのは、幾つも頬に伝ってからだった。
孤独と奇跡
例えば、今朝読んだ新聞を思い出してみる。
時のあけぼの以来、およそ一千億の人間が地球上に足跡を印したという。
その内、どのくらいの母親は、孤独さを抱えて月を捕まえに歩くのだろう。
泣きながら月を眺めるのだろう。
そして、何割が「あーまんほしい」とねだる子どもに、小さなお月さまに似た、つるりと丸いあんまんを半分渡すのだろう。
「おいしいねぇ」
とろりとした餡はすっかり冷えて、本当はそんなに美味しく無くないのに、息子は満面の笑みで頬をぺちぺち叩く。
半年前、この子はこんなに喋れなかった。
1年前、この子は歩けなかった
2年前、自身の首すら安定していなかった。
3年前、私は母ですらなかった。
今夜の私は、寝床を抜け出し、僅か数年前には存在すらしていない子と一緒に月を捕まえに出かけ、あんまんを分け合っている。
一千億の人類の内の、母になった総数は、月にしか分からない。
けれど、それこそ太古まで時を巻き戻して、世界中を隅々まで探しても、この子が「ママ」と呼ぶ人間は、たった1人。
細い細い、蜘蛛の糸のような縁の先に、些細な偶然が積み重なって、今ただ1人の母として、私はここにいる。
それは、どうしようもない「孤独」で、
ただ一つきりの「奇跡」だ。
一千億人分の一の孤独と奇跡をかみしめて、空高く上った満月を眺めていた。
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