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「当たり前」は当たり前じゃないっていう当たり前の話

マガジンをはじめるにあたりまして。
今回から週に1回、メンバー各々が興味のあるテーマを設定し、noteを書くことにしました。昨年はnoteを続けたいなぁとは思いながらも、仕事の忙しさなどを言い訳になかなか続けられませんでした。そのため、今年は投稿する環境を整え、仲間と切磋琢磨し、続けられるよう努めたいと思っています。


さて、肝心の第1回のテーマは「水」となりました。
もしテーマになってなかったら、「水」について改めて考えることはなかったのではないだろうかと思ってしまうほど、「水」というものは存在していることが「当たり前」のものです。テーマは水ですが、軟水と硬水の違いもわかっていない私が、水の違いやら歴史を語っても仕方がないので、、、今回は水に関連して「当たり前」ということについて書いていきたいと思いますのでお付き合いいただけたらと思います。



1. 「当たり前」ってすごく地味

 「当たり前」のありがたさや存在意義は失ってから気がつくことがとても多いと思います。例えば、足を骨折したときには、普通に歩けていた生活を恋しく思うだろうし、停電が起こったときには、電気が生活の至る所で使われていることに気付くと思います。逆にいうと、怪我や停電などの非常事態にでもならないと、基本的にその存在は意識されないということになります。これってすごく影が薄く、地味だなって思いませんか?

ここは賛否分かれるかもしれませんが、個人的には、「当たり前」は地味だからこそ良いと思うんですよね。

どういうことかというと、例えば、家庭での食事シーンで、奥さんが作ってくれた料理に対して、旦那さんが美味しいと言うか言わないか問題をイメージしてみてください。奥さんとしては、美味しいやありがとうと言われることは嬉しいですよね。

じゃあ「地味」だから良いとはどういうことか。

もし美味しいと言われたとしても、奥さんが自分から「今日の料理はすごく手の込んだ料理なんだよ」とか「今日はとても疲れていたんだけど頑張って料理したんだよ」と伝えたうえでの、旦那さんからの美味しいという言葉なのか、それとも旦那さんが奥さんの想いや苦労を想像したうえで、自分から伝えた美味しいという言葉なのかによって奥さんが感じる嬉しさは変わってくると思います。当たり前に関しては、自分から存在を目立たせるのではなく、地味に徹した方が嬉しい気がします。



2. 「当たり前」の価値は受け手によって決まる

 ヒーローが危機から街を救ってみんなに感謝されるのと、「当たり前」が感謝されるときは違うと思います。それは「当たり前」はその存在が当たり前であるから。街が平和であることが「当たり前」だからです。

「当たり前」のことをした人が、俺がやってやったぜ感をだすと、何か違うなって思いませんか?ヒーローがだしても違和感はないのに。

「当たり前」のことをした人がそのことを誇示するのは、ださいと感じてしまいます。それは、当たり前とは、やることが当然ということ対して、使う言葉だと思うからです。

でも、「当たり前」のことをした人が自分の功績を主張したい気持ちもすごくわかります。毎日料理をすることは本当に大変なことだと思います。頑張って作ったものを、食べる側が当たり前だからということで、何も言わずに食べるのは寂しいですよね。

だからこそ重要なのは、「当たり前」の重要性に受け手が気付いてあげることだと思います。「当たり前」をする側は主張したくてもできないんです。主張することはかっこ悪いし、当たり前は行うことが当たり前だから。



親が大工さんで働く姿を見ていたから憧れたり、お医者さんに命を助けてもらったことで医者を目指したり、これまでの経験によって人それぞれ違うと思いますが、何かに心を動かされることって誰にでもきっとあると思います。

人によっては、お金を払っているんだから、家を建てるのも病気を治すのも当たり前のことだろと思うかもしれません。

大工さんもお医者さんもやることはいつも一緒です。でも、その受け手はそれを当然のこととして捉えるか、凄いこととして捉えるか選ぶことが出来ます。

すべてのことに感謝して生活しようということを言いたいわけではありません。今まで「当たり前」と思っていたことも、受け取り方次第で価値を変えることができるから、見逃しているもったいないよねって話です。



3. 誰かの「当たり前」を目指そう

 ここからは私個人の経験の話ですが、私は小学生から大学までずっとサッカーをやってきました。小学生のときは、所属していたチームは弱く、指導者もあまりサッカーに熱心な人ではありませんでした。

中学高校は幸運にも良い指導者とチームメイトに恵まれ、楽しくサッカーをすることができました。

小学生の頃の経験があったからこそ、自分がサッカーを楽しく続けてこれたことは、周りの指導者やチームメイトのおかげであるという意識を強く持てるようになれました。つまり今回の話でいうと、「当たり前」を失っていたことで、「当たり前」のありがたみを強く実感しているということですかね。そういうこともあって、大学時代や現在は自分が学んできたサッカーを他の人に伝えることに興味を持ち取り組んでいます。自分は周りからたくさんの恩恵を受け取り、サッカーをより楽しめるようになったので、それを他の人にも伝えたいという気持ちです。

サッカーの指導者がサッカーを教えるのは「当たり前」です。私の元チームメイトも同じ指導を受けていたわけですが、人によっては今では何も覚えていないという人もいるでしょう。同じ指導でも、私にとっては、サッカーの魅力を教えてくれ、一生続けたいと思わせてくれるものでした。だからこそ、今度は誰かの「当たり前」となり、自分が学んできた魅力・おもしろさを伝えることで、サッカーの魅力を感じてくれればいいなと思って活動しています。

仕事のやりがいとか人生の生きがいとかはまだよくわかりませんが、自分から生み出すものってよりかは、誰かにもらったものを他の人にも共有することで生まれるのかなと思っています。


4. まとめ

 長々と書きましたが、まとめると「当たり前」は当たり前ではないと受け手が気付けるといいよねってことです。

「水」はどこにいったんでって話ですが、、、笑


水に流しましょうということで。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

では、何卒。

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