表現者の気持ちを体験しよう

本を出そうかと思う。自費出版のような形で。

美容師についての記事をはじめ、過去のnote記事のいくつかをまとめて書籍化する。苦情対策として、ラニーノーズ関連の話は全く入れないことにする。

本を出すには、どうしてもお金がかかる。本当は無料で配りたいが、そんなわけにもいかない。

でも、お金儲けに走るようなことはしたくない。

ちょっとバズっただけで自分に才能があると勘違いして、オンラインサロンのようなものを開設してみたり、大した戦略もなかったくせにバズるためのノウハウを後付けで語って講演会をしたり、書籍を出版したりする、勘違いブロガーになるわけにはいかない。

「じゃあ、書籍化なんかするなよ!!」と思われるだろう。

では、なぜ書籍化しようとしているか、どういう点が勘違いブロガーと異なるかなど、説明していこう。


まず、私の書籍は
「しゅんきのnoteを紙媒体で持っておきたい人」のために販売する。
極端な話、noteが突然サービス終了してしまえば私の過去の記事は一切読めなくなる。
そういう場合のことも考えて、紙媒体で持っておきたいという人は一定数居る。
「本にしてほしい」という意見を今まで質問箱やDMでいくつかいただいた。
書籍化のためのツール、サービスの紹介までしていただいた。
だから私は、そういう人のために販売する。

勘違いブロガーは、
「俺の文章は、無料じゃもったいねえぜ。金を払ってもらう価値があるわ。だから、新作はブログ上じゃなくて、お金払ってもらって本で読んでもらうことにするわ」と言う。

私は、無料のnoteをただそのまま載せるだけだ。書いている内容が、お金を払ってもらえるほどのものであるとは思えない。
私には、自分の文章が価値があるのかどうか、わからない。だから、新作を有料で書くことはできない。有料にしていい価値があるかどうか、判断がつかないからだ。

美容師のnoteが人気だが、私はあの記事を書いた当初はボツにしようかと思っていた。
「別に、髪切っただけの話だしなぁ…。千円カットのおっさんに耳まで切られて気づかなかった話はちょっと面白いかもしれないけど、それ以外特に面白くないしなぁ…。」と思いながら載せた。
まさか20万人に読まれるとは思わなかった。普段は数千人なのに。

このように、良いかどうか判断がつかない。
新作をたくさん書いて本にしても、読者から
「ハズレばっかりじゃねーか!!!」と思われる可能性がある。

この人のライブなら面白いだろうと期待して先にお金を払ったライブが全然面白くなかった経験のある私だから、自分の読者に私と同じような悲しい思いはしてほしくない。
自分のnoteや書籍を手に取った人をガッカリさせるようなことがないようにしたい。

だから、私は過去に無料で載せた記事を一言一句そのまま載せる。

なので、勘違いブロガーのような「俺の才能にお金を払え!」ではなく、
「今までのnote記事を書面にして印刷して製本します。製本されたものを持っておきたいという方は紙代、インク代等の費用をお支払いください」ということだ。

noteと一言一句同じにして販売するわけなので、
「書籍版のみ1話追加収録」「本だけの特典」などというものは一切ない。

noteを全部読んでいても、別に紙媒体で持っておきたいというわけではない人が大多数だ。
noteには書いていない話を書籍限定で1話追加収録してしまうと、そういう大多数の人達が、書籍用に追加収録された1話を読みたいがために書籍を購入する羽目になる。(別に買わないよ!という人も多いだろうが、「特典あるなら…」と買う人は出てくる。)
そして、渋々購入した読者は
「はぁ。書籍化さえなければ、私は無駄な出費を抑えられたのに…。」
「書籍化さえなければ、この追加収録の話も、普通にnoteに無料で投稿されていただろうに。書籍化してくれませんか?なんて言った馬鹿は誰だ!!」と思うことになる。

これは絶対に避けなければならない。

私は今まで、この「1話追加収録」のようなことで何度も同じものを買わせる卑怯な手口に引っ掛かってきた。

noteで、小林賢太郎という人間が作品を販売している。

彼は、約10分ほどの映像作品を、千円で販売した。
信じられないような強気な価格設定だ。
だが、購入してしまう。
千円払うしか、観る手段が無いので仕方がない。
安くしろ!と言っても無視されるだろう。

後日、また千円で別の映像作品が販売された。
また買うしかない。

これを繰り返す。

そして数か月後、小林は映画をつくったと発表した。映画館で上映されるという。
映画の内容は、
今までにnoteで販売してきた映像作品たちを繋ぎ合わせ、それに新作の映像を付け加えた短編集だという。

信じられない。今まで毎回千円を払っていたのに、映画の新録部分を見たいがために、また映画代数千円を支払う羽目になってしまった。
だったらnoteで1話1話売るようなことはせず、映画が出来上がってから映画だけを上映、販売すればよかったのに。セコい儲け方だ。セコすぎる。

私は映画に付け加えられた新しい映像が観たかったので、映画館に行った。

実は過去の作品たちには伏線が張られていて、映画になったときにひとつの繋がった作品になる…というようなことも期待したが、特に繋がっていなかった。新作の部分が思っていたより少なかった。ほとんど観たことのある作品だった。非常に残念だ。帰りに食べたびっくりドンキーのハンバーグもあまり美味しくなかった。
美味しいはずなのに。

さらに後日、
「映画館で上映された映画の映像と、メイキング映像をセットにしたもの」が販売されることになった。

セコすぎる。何回同じ映像で儲けるのか。
同じものに何度お金を払わされるのだろうか。
映画が面白くて何回も観に行って何回も同じものにお金を払う、なら良い。
だが、「この追加部分観たいんだろ?映画だけにしかない追加の部分観たいだろ?ばら売りはしてないんだ。じゃあ、今までの映像分とセットだからちょっと高めの値段だけど払えよ」
「メイキング観たいだろ?ん?メイキングだけで安く売るっていうのはしてないんだよね。映画代も込みだからちょっと高いけど、メイキング観たかったら、これを買うしかないからね」
というのは酷すぎる。


私はお客さんとして、こういう酷い経験をした。
だからこそ、自分のnoteの読者には、同じ経験を絶対にさせないようにしたい。
追加収録された部分のためだけにお金を払わせるようなことはしたくない。

だから、私が販売する書籍は、noteと一言一句同じにする。

追加で書き下ろしなど、絶対にしない。

書籍化にあたり自分のnote記事を見直すことになる。
誤字脱字などは気づけば修正するが、同時にnoteの記事本体も修正する。
もし表現を書き換えたい部分があれば、noteの記事本体での表現も書き換えようと思う。
こうして、結果として書籍とnoteは一言一句同じになるようにするのだ。

・過去のnote記事を、一言一句同じで収録する
・追加収録はしない

これで、おおまかな内容は決まり。
あとは、どの記事を収録するか、表紙をどうするか、価格設定はどうするかなどを決めて、PDFファイルをつくれば出版できる。

本をつくる作業、非常にワクワクする。

まさか自分が人生で、自費出版のような形とはいえ本をつくるとは思わなかった。

買う人が5人もいないのか、はたまた10人くらい買ってくれるのか、わからない。でも、買ってくれる人がいるかもしれないというのは、嬉しいことだ。
嘘をついている人も居るだろうけれど
「買おうと思っています」という声が何通か届いている。
ありがたいことだ。


私は最近何人かのnote読者の方とお会いしたが、
「なんでnoteを書いているんですか?」
「どうして書き続けているんですか?」
「いつまで書こうと思っていますか?」というような質問を受けた。

私がnoteをはじめたきっかけは、ラニーノーズ・Runny NoizeについてTwitterでいろいろ呟いていたとき、とあるファン仲間から
「書くこといっぱいあるなら、ツイートじゃなくてnoteにしてみるのはどうですか?お笑いファンでも、noteやってる人たくさんいますよ!」という風に教えてもらったことだ。

そして、ラニーノーズの話だけを書くnoteをやっていた。
ファン同士で彼らの良さや不満について共有し共感しあうのが目的だった。
一度だけ、「この話は是非みんなに伝えたいな」と思って祖母の話を書いたこともあるが。
すると、なぜか突然1つの記事がたくさんの人に読まれ、毎回の記事を何千人もの人が読むようになった。
そして、最近は「ファンです」という謎の人物が現れるようになった。

まさか自分にファンがつくとは思わなかった。

これはちょうどいい機会だ。
以前私に「演者側をやってみろ」「創る側をやってみれば、洲崎の気持ちが分かる」などと言ってくる人たちが居た。

ファン側ではなく、ファンを持つ側。
体験してみようじゃないか。

本当は逆で、お笑いとか音楽とかそういうのは特に商売にするのであればお客さんのためにやるのだから、私が演者の気持ちを体感するのではなく、演者が熱心なファンの気持ちを体感して、どのようにすれば満足してもらえるか考えなければならない。

だが、せっかく私もファンを持ったわけだし、ファンを持つ側を体感してみることにした。
そうすれば、熱心なファンのSNSをブロックしてしまう演者の気持ちが分かるかもしれない。
お客さんに不義理な、急に引退してしまうような人とか、そういう人の感情が理解できるかもしれない。
そういう人を許してあげられるようになるかもしれない。

私のnoteはいつしか、”ファンを持つ側を体験する”、”待っているファンのために何かをする、ということを体験する”という目的に変わった。
今回書籍化することを決めたのも、本を出す側を体験する、「本にしてほしい」という意見を反映させることを体験するのが大きな目的のひとつだ。
単純に自分の本が出せるって嬉しい、ということももちろんあるが。


私は好きなタレントにたくさん意見を出す。
ライブでアンケート用紙があれば、もし改善してほしい点があれば必ず書くようにしている。Twitterやnoteでも、いろいろ書く。
「え?本当にみんなこれで満足してる?もっとこうなってほうが良くない?」という、ファンのみんなへの問いかけと、演者にお客さんの気持ちを伝えてわかってもらおうというのが目的だ。

だが、「お前の意見なんかいらねーよ」「言われなくてもタレントさんはそんなことわかってますけど」と言う人達が一定数居た。

みんなが望むnoteを書こうとして、お客さんからの意見の重要さがわかった。
「お前の意見なんかいらねーよ」なんてことはなかった。
みんなが何を望んでいるのか、全く分からない。
美容師のnoteの何がそんなに面白いのか、わからない。
noteにこういうことを書いてくれ、というリクエストが来ることがある。
複数件、同じ内容のリクエストが来ることもある。
嬉しいことだ。その内容はきっと多くの読者から望まれている。
「このことを記事にすれば喜んでくれるはずだ」と分かる。ありがたい。


私は好きなアーティストや芸人でも、ダメなところは批判する。
みんなが言わないようなことも言う。
私がSNSで言うことをきっかけに「私も実はそう思ってた!!!」という意見が広がり、アーティストに伝わり、反映される。
これが私の望む世界だ。

私が最近noteを公開すると、質問箱に意見が届いた。

「最近しゅんきの不調が続いていて悲しい」

noteが面白くなかったのだろう。

「ごめんね!noteつまんなかった?」というような返答をして、Twitterに載せた。

すると、質問箱にいくつもの「今回はつまらなかった」という内容の意見が寄せられた。


質問箱に寄せられた投稿の一部

ツイートで全部取り上げていると大変だし、質問ではなく意見なので回答することも特にないし、全部をツイートで取り上げているわけではない。
だが、いくつもの意見が寄せられた。

私の望んだ世界だ。

ひとりが勇気を出して不満を述べ、それに繋がってどんどんみんなが意見を表明する。表現者が気づく。反省する。謝罪する。


せっかく時間やギガを使って読んでくださった方をがっかりさせてしまったのは本当に申し訳ないし、反省している。

でも、みんなが意見を表明できるような存在でいられたことは嬉しく思う。
演者によっては、否定的な意見を言った者は排除する、全肯定しか受け付けないような残念な人も居る。
私はそうはなりたくない。

私の望んだ推し活の世界は、
推しに自由に不満が言えて、
推しはお客さんに不満を持たせたことをきちんと反省できて、謝罪できて、
お客さんは「まぁ、今回は大目に見てあげよう。次からは気をつけろよ~」と思いながら、また推し活する。
そんな世界だ。

そんな世界が実現できるのかどうか。それを体験し、体感したい。

私の望んだ世界が実現できたのなら良いし、
できなかったならできなかったで
これまで私が推しにしてきたことは実現できないことだったと諦めをつけることができる。
そうなれば、何を諦め何を諦めないのか、いつ推しから離れるのかなど、今後の推し活の仕方の道しるべができるかもしれない。


私は今のところ、私の望む世界をつくれそうな気がしている。
私のファンは私に意見を言えるし、私はそれをもとに記事を考える。
またダメだったらさらにファンから意見を貰い、さらに今後に活かそうとする。
全ての意見を引き受ける。
全てを完全に反映させることなど絶対に不可能だが、なるべく多く反映させるために考える。

自分がお客さんだったときに体験した嫌な思いをさせない。
セコい商売をしない。
調子に乗ってファンクラブをつくらない。
新型質問箱「mond」の人から誘いが来て、mondを使って投げ銭付き質問箱やらメンバーシップ制度やらを始めないかと言われたが、2か月シカトしている。
読者のリクエストには応える。なるべく応える。
みんなが思うしゅんきらしい記事を書く。

こういう意見が届いた。


え?需要にこたえようとするなってこと?


うーん。

この意見で思い出したのは、狩野英孝だ。

狩野英孝のYouTubeチャンネルでのゲーム実況生配信を、時々観ていた。
私の大好きな野性爆弾ロッシー氏とコラボ配信をしていたのでそれを視聴して以来、狩野君のチャンネルも時々観ていた。
彼はテレビスターだった頃からの天然キャラをYouTube配信でも発揮していた。
しかしいつしか、ゲームでわざとらしいミスや、わざとらしい天然風な発言が増えた。

彼は「みんなが望む狩野英孝」になろうとしたが、
みんなが望むのは、何の計算もせずに奇跡を起こす狩野英孝だったのだ。
私は、コイツわざとらしいな…と思って、最近はあまり観なくなった。
なぜそんな計算して狩野英孝を演じようとするのか。
「こうしたら面白いかな…」じゃないよ。何もわかってないな。
そう思った。
その点ロッシーさんはいつまでも天然ロッシーで、面白い。
全くわざとらしくなくいつまでも変で、本当に天才だと思う。


私も、天然キャラとかではないが、みんなの望むしゅんきになろうとするのではなく、素の、ありのままのしゅんきでいることを望まれているのかもしれない。

でも、素を発信するのも不安だし、これで良いのか、このままじゃダメなのかもよくわからないし、とにかく「みんなが望むしゅんき」になろうとする。

私は、あのわざとらしい最近の狩野英孝と同じことをしていたのかもしれない。

不安だから、みんなの望む自分でいたい、と言う気持ちがよくわかった。

ラニーノーズとかの気持ちがわかりたかったのに、なぜかそこまでファンでもない狩野英孝の気持ちが分かってしまった。
まぁ、わかって損はないし、良しとする。


ありのままのしゅんきでいたい、とも思うが
私の今回の試みは
「ファンの理想の演者になる」ということは可能か?という検証も含まれているので、
なるべくファンの意見を聞いて反映したい。

「そのままでいて」「みんなの意見に左右されないで」というのもファンの意見のひとつであり、それを反映することで、
何もしないでありのままでいることでファンの意見を反映したことになるという考えもあるが。


書籍化の作業をしていると、本に関しても様々な意見が届く。

「表紙絵コンペやってほしい」と言われ、本当にやってみることになった。
実際にやってみたところ、いくつもの応募が来た。
しかし、
「しゅんきが描いた絵が良い」
「しゅんきが描いた表紙じゃなきゃ嫌だ」という意見も来た。


そういう人も居るか~。

さらに、
「購入した人だけが見れる特典がほしい」という声も出始めた。


話が複雑で難しい。


「だったら特別コンテンツのみを販売して、もっと安くしろよ」という人が出てくる

小林賢太郎が1作品ごとに単体で販売し、それをまとめてさらに追加収録をして映画にし、追加収録部分だけを新たに買いたい人も居たであろうに
全部セットの映画で観るしかなくて余計なお金を払った人がいるように、
1作品ごとに無料で読んでもらい、それをまとめてさらに追加収録をして書籍化し、追加収録部分だけを新たに読みたい人も居たであろうに
全部セットの書籍で読むしか無くて余計なお金を払う羽目になる人が出てきてしまう。

それは阻止したい。

でも、本を書いていて、いざ出すとなると、不思議なもので
「せっかく買ってくれるなら、買ってくれる人にだけオマケつけてあげたいな…」という気持ちが芽生えてきた。

オマケをつけてしまえば、オマケのために買って
「くそー!!オマケさえなければ買わずに済んだのに!」と言う人、
いざ家に本が届いてそれを見て
「あー!!こんなことなら、買わなきゃよかったー!!」と言う人が出てくるのは分かっている。
小林賢太郎の件で私はそれを体感したはずなのに。
わかっているのに。

なのに、
「オマケ、つけてあげたいな…」という気持ちが芽生える。

客側でつらい経験をした私でさえオマケをつけたくなるのだから、
連載をまとめて書籍化するときに1編だけ追加収録する人も
もしかしたら
「オマケつけてあげたいな…」という気持ちになっているのかもしれない。

「連載全部読んでた奴らも、このオマケのために買うしかないだろ~?買えよ~。連載そのまま刷って1話追加しただけで、大した労働してないのに、儲かるぜ~。へっへっへ。」という気持ちで1話追加収録していたのかと思っていたが、
「せっかく買ってくれるんだから、オマケつけてあげたいな…」の気持ちだったかもしれない。

さらに、この話をYouTubeの生配信で1度喋ったのだが
(生配信で聴いたよ!なんでnoteにも同じこと書くんだよ!もう聴いたわ!と言う人、本当に申し訳ありません。YouTubeもnoteも見ていただいて本当にありがとうございます)
「別に追加収録のために買っても損だとは思わない」
「そんないろいろ考えるなら買わない」
「そう思うのはしゅんきだけ」というような意見ばかり寄せられた。
「わかる!1話追加収録、マジ許せない!」という意見は見当たらなかった。

私の嫌いな追加収録、実はみんな好きなのかもしれない。

正直、何かしらを追加収録しようか、かなり悩んでいる。

ここで追加収録をすることにしてしまうと、
「コイツ!!!売上を少しでも伸ばそうと、なんかゴチャゴチャ言い訳して追加収録しやがった!!ひどい奴だ!!しゅんきはそんな酷い人間だと思わなかったのに!失望!」という人がでてくるだろう。

難しい。これも考えすぎなのだろうか。
めちゃくちゃ迷う。

さらに、表紙をどうするかについても迷い中。
一応、表紙絵コンペに応募していただける作品がもうすぐ出そろう予定だ。
応募は締め切っており、応募者があと1名、今描き途中とのことなので
それが出来上がり次第、採用不採用が決定する。

もしかしたら、私が何か描くとか、私の撮った写真を表紙に使うとか
そういうことがあるかもしれない。



表現する側を体験してみて、少しずつ分かってきた。

わざとらしい狩野英孝も、私と同じように、ファンを楽しませようとしてやっていたのだ。

何度も同じものの使いまわしをして儲けているようにみえる小林賢太郎も、実は「映画にしたいけど、noteで売ったものそのままじゃな~。ちょっとオマケつけてあげるか」
「映画を映画館に来れなかった人のために売りたいけど、そのままじゃな~。オマケでメイキングつけてあげるか」と言う気持ちだったかもしれない。

なんとなく、わかってきた。

少しわかっただけでも、推し活の苦しみが結構減る。

これからは、私の好きな人が連載をまとめて本にするとき、追加収録が1話だけあっても
「オマケつけてくれたんだな」と思えるかもしれない。

「この悪徳商法野郎が!!」と怒りながら買うのと、
「オマケつけてくれたんだな」と思いながら買うのでは大違いだ。


これからも、みんなの意見を聞きながら、いろいろ悩んで、頑張って、本を出したりnoteを書いたりしながら、
私の推したちの気持ちを体験してみようと思う。

あのとき怒らせてしまった、私の大好きだったあの人の気持ちも、
いつか上辺だけじゃなくて、心からわかるかな。