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天知る地知る我知る
釣りはしないけど、セルフカウンセリングは、釣りに似ている気がする。
まるで浮きが沈むような反応が心にあったからだ。
「天知る地知る我知る」という言葉。
祖母が教えてくれた言葉だ。
2年生のとき、父が九州から呼び寄せた。同居が始まり、6年生のとき祖母が亡くなった。
途中から、ほぼ寝たきり。
ずいぶん後年になってから、母から当時の同居と介護に苦心したと語ったことを聞いた。
それはさておき、祖母は女手一つで四人の子供を育てた。正確にいうと空襲を間髪で逃れながら、生き延びさせた。
※その時のおじいちゃんはどうだったか、知る術もない。亡くなる直前の話だ。
時には罵声を浴びせられながら、男性がするような肉体労働をしたとも聞いたことがある。
祖母は幼い頃、働けば認められるそんな不遇の中、生きた。本を読むと怒られるからと便所で読んだと聞いた時は、そこまで勉強するの?と思ったが、意味がよくわかってなかった。
卑怯なこと、ズルいことを許さなかったようだ。母子家庭で食べるのに困ったはずたろうに、「お上の世話にはならない」と役場の補助や制度を利用しなかったらしい。
ちゃんと聞きたかった。
「天知る地知る我知る」は、人に安易に頼っちゃいけない、ずる賢く悪いことをしてもどーせバレるという教えだっただろうが、そう受けとれなかった。
祖母の生きてきた人生より、僕は遥かに贅沢。高望みしてはダメ。そして、一人でなんでもやらないといけない!
そう厳しく理解していた。
アホでよかったのに。わがままで、自分の欲望に忠実に生きればよかったのに。
祖母の苦労した人生や、父の恵まれなかった境遇に自分を無理やり重ねなくてもよかったのに。
祖母は仏間で寝起きしていた。
亡くなった後、僕の部屋になった。
環境が人を育てる。
野球部に入ったから野球ができるようになる。うまくなる。
自分を律するのがうまくなった。
でも自己不一致。こそこそ生きるようにもなった。こそこそするからこそ、「我知る」で、苦しくなった。
千代の富士が大好きだったおばあちゃん。
できる孫だと安心してもらうために、宿題のフリして子供部屋へ行かずに、仏間で一緒に大相撲を見て過ごせばよかった。
おじいちゃんではなく、おばあちゃんに胸の内を語ればよかった。
雪崩のような後悔。
5月の呪いの時もそうだったが、奥深い底には一人で苦しむ幼い自分しかいない。
カウンセリングで問題を釣り上げたはいいが、やりきれない。やりきれない。やりきれない。
こんなにも過去へ戻ってやり直したいと思うのは初めてだ。
バケットリストチャレンジ 331
5(達成)/42(やりたいこと)