第1話 新世界のとなり
僕はノートを書きながら、さっきの夢をもう一度と頭の中でなぞっていた。じいやんの言葉は、当時の僕にはすべてを理解することはできていなかっただろう。でも、大人になった今、子供の僕に向けられていた言葉が、深みを増して再び今の僕の元に返ってきた。そんな感覚だった。
じいやんの家は大阪にある小さなオートバイの修理屋さんで、そこのガレージにはガソリンとタバコの匂いがどっぺり染み付いていた。そんな小さなガレージで、じいやんはいつもオートバイをガチャガチャいじくっていた。そしてその作業に一区切りがついた頃、僕に向かってこう言う。
「ほな行こか!」
さっきの夢もそこから始まった。僕が小学2年生だった頃。じいやんは軽トラックの助手席に僕を乗せて、いつもどこかへ連れて行ってくれるのだったーー。
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「今日はどこに行くの?」
と、僕は胸を踊らせながらじいやんに聞いてみた。助手席から見るじいやんの横顔はいつも無表情だけど、何かおもしろいことを企んでいる時は、雰囲気でなんとなくわかった。
「どこやと思う?」
どこか目的地に向かう前、いつもはマイアミという喫茶店に僕を連れて行く。そこには卓上ゲーム機が設置されていて、コーヒーが飲めない僕でも楽しむことができた。けれど、今日はどうやらマイアミには行かないらしい。軽トラックはもうすでにマイアミを通り過ぎているからだ。
「西成や」
じいやんは行き先クイズを出しておきながら、僕に答えさせるつもりなどハナっからないことがたまにある。
「ニシナリ?」
「せや。お前たぶんびっくりするで」
びっくりする。とは、どういうジャンルのびっくりなのだろう。天王寺動物園に首の短いキリンがやってきたとか?タコの丸焼きが売られている文字通りのタコ焼き屋さんがオープンしたとか?それとも何か幽霊が出るような怖いところに連れて行かれるとか…
「どちらかというと“怖い”やな。なんなら生きて帰ってこれるかわからんで」
「は!??」
いやいや、ちょっとまって!それはさすがに想像の斜め上をいきすぎている。
「ねぇ!どういうこと!ちゃんと説明してよ!」
「ええやん、ええやん。まぁ楽しみにしとき」
いったい何が「ええ」のだろうか。といいつつも、ほんのちょっとだけだが恐怖の中にわくわくを感じている自分も見逃すことはできなかった。
しばらくすると、窓の外には「新今宮」と書かれたJRの看板が見えてきた。じいやんの表情をうかがうかぎり、どうやら目的地は目前にせまっているらしい。
「ほな行くで!」
お得意の台詞とともに、じいやんは交差点を曲がった。僕は反射的にグッと息を止める。
「え…」
そこにはたしかに想像以上の光景が広がっていた。僕が住んでいるところとは180°違う街並み。なんていうか汚い。そこらじゅうにゴミや空き缶、ダンボール、毛布、ブルーシートが散乱している。でも、それよりも驚いたのはそこに住んでいる人についてだ。というか人なのか?僕が今まで認識してきた人を「人」とするのなら、彼らはなんか違う。だって人は道端で寝転ばない。そしてあそこで空き缶をひたすら何かで押しつぶしている人(?)は何をしているんだろう。そんな不気味すぎる異世界の光景に、ただただ僕は言葉を失っていた。
「あ、言い忘れてたけど、目あったら殺されんで」
それをはやく言ってよ!!と僕はツッコむ間もなく、ドアのところに顔をふせた「わっはっは!」とじいやんは笑っている。この人はなんでこんなに余裕なんだろう。そして、やっぱりやつらは人じゃなかったんだ。だって僕が知ってる人は、目があっただけで人を殺さない。エイリアンか何かなのだろうか。宇宙人は存在したんだ。そんなことを考えているうちに、軽トラックは異世界を抜けていた。
あの人たちが「ホームレス」という人種だということを僕が知るのは、もう少し後のことだった。
「どや?おもろかったやろ?」
おもしろ…くはなかったかな。でもまぁ、こんな経験をしているのは友達のなかでも間違いなく僕だけだろう。今度みんなに教えてあげよう。そういうことを考えると、ちょっぴり鼻が高くなった。
「びっくりした。ほんとに」
「せやから言うたやん。ほな次行こか!」
「え、まだどっか行くの?」
「ワンメーター5000円で!」
そんな冗談を言いながら、じいやんはハンドルを切った。
いつの日からかこの軽トラックの助手席は、僕だけの特等席になっていた。気がつけば外はもうすでに暗くなっていた。そうだ。そうだった。この車内は外の世界よりも早く時間が過ぎるんだ。
「通天閣や」
じいやんは大阪にある有名な建物の前まで行くと、そう言った。この建物の存在は知っていたが、こんなに近くまで来たのははじめてだ。
「ちかくで見るとめちゃくちゃ大きいね」
「この辺りは“新世界”っちゅう場所でな。大阪の新名所いうて昔は大盛り上がりやったんやで」
「へぇ」
「登ってみよか」
そう言ってじいやんは、通天閣の入り口の方へ歩いて行った。少年特有の「登れるもんがあったらとりあえず登ってみなはれ精神」をしっかり持ち合わせていた僕にとって、今から向かう場所はとてもわくわくする場所だ。
「ビリケンさんや。しっかり足さすっときや」
僕は言われるがままに、この奇妙なキャラクターの足の裏をとりあえず撫でておいた。やたらと足の裏だけツルツルしている。
「ほな、こっからは目閉じといてや」
そう言ってじいやんは僕の手を引っぱった。
次、僕が目を開ける時。おそらく“はじめて”を見ることになるのだろう。僕はまだまだこの世界のことを知らない。でもだからこそ、毎日が冒険みたいだ。そんな僕を、誰よりも早く大人に近づけてくれる場所。それがじいやんの隣だったのだ。
「目開けてええで」
待ってました!と言わんばかりに、僕は勢いよくまぶたを開いた。そこにはやっぱり、見たことも味わったこともない大阪の夜景が一面に広がっていた。
「スーゲー!!!」
子供の僕は、ほとんどの人より背が低い。だから、ほとんどの人より見ている景色が少ないはずだ。僕はそれが嫌だった。早く大人になって、誰かにだっこをしてもらわなくても、ひとりでいろんなものを見れるようになりたかった。そんな僕が今、誰よりも高い場所にいる。どれだけ背が高くなっても見れないはずの景色を、今僕は見ているんだ。
「誕生日おめでとう。もう8歳やな」
そう言ってじいやんは照れ臭そうに笑った。
そう。僕はこの日、8歳の誕生日を迎えたのだ。実は知っていた。だから今日のじいやんは、いつもより張り切っていたこと。いつもよりおもしろい場所に、僕を連れて行ってくれること。
じいやんはいつも、大事な言葉は最後までとっておいてくれる。僕がいちばん喜ぶ瞬間をじいやんはわかっていて、その瞬間まで大事にとっておいてくれるのだ。
「へへへ。もう大人?」
「あほか。まだまだクソガキや」
「今日、どやった?」
僕はあらためて今日のことを思い出した。ニシナリという場所でエイリアンとそうぐうしたこと、はじめて新世界という場所に足をふみ入れたこと、そして通天閣の最上階から大阪の夜景を見おろしたこと。ニシナリに連れて行かれたことは怖かったけど、思い返せばぜんぶひっくるめて「めちゃくちゃ楽しかった」。
「そうか。なんで楽しかったんかな」
「え、だって見たことないものをいっぱい見れたから!」
「せやねん」
「うん?」
「あのな、お前はまだ8年分しかこの世界を味わってない。せやから、まだまだ見たことないもんばっかりやろうし、知らへんこともほとんどやろ?」
「うん」
「この先夢いっぱいやなぁ。これからお前は、どんなお前にもなっていけるんやで」
これから僕は、どんな僕にもなっていける。子供の僕がなんとなく抱いていた“わくわくの正体”を、じいやんはうまく言葉で表してくれた。
「ほんま毎日が冒険や。毎日知らんもんに出会っていくし、難しい言葉の意味もわかるようになっていく。書かれへん漢字も書けるようになっていく。せやから楽しいねん。新鮮な明日を迎えるのがめっちゃ楽しいねん。
でもな、もうちょい歳とって、ある程度この世界のことを知ってもうた時、もう十分やってみんな勝手に決めてしまいよるねん。やりたいことがあっても、そんなこと私にはできまへんって。自分で世界を閉じてしまいよるねんなぁ。おかしいやろ?子供の頃は、疑うことなくどんどんできる自分になっていったはずやのに。
毎日が冒険なんは、別に子供にだけに与えられた特権やないで。大人になってもなーんも変わらんねんで。どんだけ歳とっても知らんもんなんか底つきひんし、成長なんかどこまででもできんねん。自分次第で、自分が見たい世界なんかいくらでも見ていけんねん。
せやからこれだけは忘れんときや。
この世界はいつまでたっても、
「ほな帰ろか。パパとママが誕生日祝ってくれるわ」
そう言ってじいやんは、再び僕の手を引ぱって歩き出した。
新世界。願えば願った分だけ、この世界は新しい世界を、僕たちに平等に用意してくれるのだ。
つづく
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基本的に記事は喫茶店で書きます。その時のコーヒー代としてありがたく頂戴いたします。