中編小説 病葉 完
病葉、病に枯れた葉。枝に縋り付き、散れば地上の腐葉
2015年 10月
「それ以来連絡がありませんでした。俺も連絡しなかった。何も言ってこないのは、何とかなっているからだろうと都合のいいように考えた。まさか、こんなことに」
「雪ちゃんに子供ができていたなんて」
初めて知る事実はあまりに衝撃的だった。真由は、雪子と親しくなったころに孝一が子供を作れない体だと聞いていた。結婚して3年が過ぎたころ、孝一の提案で二人で不妊外来へ行って検査をしたという。結果が出て不妊の原因が孝一にあるとわかってから、もともとは只のきれい好きに思えた潔癖症が増幅していったのだ。
健吾の言葉に否が応でも引っかかる。母と子が「何とかなっている」わけがないだろう。父親になるべき男が知らないところで、父親になれない男の元でどうなるというのか。
それでどうしたのだろう。今の健吾の話では、孝一の元に戻ったということになる。そんなこととも知らずに何度か姿を見かけているが、身重のようには見えなかった。産めなかったということだ。この男のせいで。
「雪ちゃんを大事に思っていなかったのに、そんな関係になったのは、弄んだということよね。子供ができたからって逃げるなんて最低」
言葉は考える前に口をついて出てくる。雪子の喜びがわかるだけに、その喜びが束の間だったということがわかるだけに悔しさが怒りが募る。
「雪子は俺の意気地のないとこやこらえ性がないとこ、淋しがりやなとこ、いろんな穴を埋めてくれる人だった。彼女がいてくれたら自分は堅固なダムでいられる気がしていた。一緒に住もう。酒を減らす手伝いをさせてくれと言われて、劣等感のかたまりだった俺は有頂天になった。でもいきなりできた赤ん坊が決壊させてしまった」
この男の言葉からは子供への愛情は感じられない。もしかしたら自分の子と信じていないのかもしれない。前回話した時「本当か。俺の子か。産むのか」と思ったと言っていた。あれは、驚いて一瞬に感じたことだと思っていたが本音だったのだ。説明しなければならない、と辺りを見回した。あまり大きな声で話せない。
「まずいっておくね。雪ちゃんの旦那さんは子供ができない体だったの。だから孝一さんとの子供ではないのは確か。あなたの子供。雪ちゃんその時40歳くらいだった。やっと授かった子供だから産みたかっただろうと思う。でも産んだという話は知らない。第一孝一さんの所で産めるはずがない」
息を継いで、あたりを見回した。いつもと変わらない長閑な公園の景色。こんな事情を私は知りたかったのだろうか。健吾に説明して何をどうしたいのだろう。湧いた疑問を心の奥底にねじ伏せて続ける。
「子供が欲しくなくても、まず話し合いでしょう。雪ちゃんの気持ちを聞いてみなくちゃ。どんな未来を選ぶにしても二人で相談すれば理解が深まるし、何かいい案が浮かぶものよ。あなたは自分のことしか考えていなかった」
酔った頭に今の真由の言葉は染み入らなかったのか。怒りに赤くした顔を向けてきた。
「そうだ。俺はそういう男だ。だからこうなった。空いた穴はでかくてもう埋めようがない。わかるか。君のように完璧な生活を送る人間に、雪子のことや俺のことがわかるわけない。君もただ自分を満足させるために知りたかっただけなんだ。俺を自己中と言うな。言われなくてもさんざんわかっている」
今日は、恵まれた天候に誘われて公園をそぞろ歩きする人がいる。観光客はもちろんのこと、近隣のマンションから散歩に出てくる高齢者のカップルや犬の散歩をする人が多い。景色にそぐわない健吾の声に、立ち止まり振り返る老夫婦がいた。
大きな声に真由は俯いた。健吾の声が大きくて恥ずかしかったのもあるが、雪子と行き来することが減っていたのに、亡くなった理由が知りたいと思った自分が本当の友達だと言えるのだろうかという自問のせいだった。健吾に自己中と言われて「確かにそうかもしれない」と思っている自分がいた。
私は雪ちゃんに何もしてあげられなかった。マンションのごみステーションで会った時、きっと妊娠のことや健吾とのことを話したかったのだろうと今ならわかる。
孝一のインフルエンザや性格が大きな壁になったわけではない。特に理由もなくその後も連絡を取ろうとしなかった。連絡がとりずらかったというのは言い訳だ。「何となく」ずるずると時が過ぎていた。この数年の間に雪子に何があったのか知る由もない。本当に友達だったと言えるのか。
もう何も言うことがない。健吾は言いたいことを言い、怒りに任せて真由を責めたがすっきりしたようには見えない。さらに眉間の皺を深くして黙って前を向いている。雪子を思う形は違っても心の内をさらけ出し、たどり着いたところに落ち着いて二人の追悼は終わった。雪子は戻っては来れないところへ行ってしまった。
「帰ります」
健吾は前回と同じように突然立ち上がり頭を下げた。が、去らずに立ったまま話を続けた。
「すいません、言い過ぎました。大滝さんには世話になったのに余計なこと言ってしまいました。雪子のことがわかってよかったです。わかってもどうしようもないんですけど」
真由も立ち上がり横に並んで話を聞く。あからさまに「俺たちのことがわかるか」と怒られたが、妙に納得してしまっている。
二人の前に、膝に子供をのせて遊ぶ母子像がある。等身大なのか昼下がりの影が船形のような像の形を際立たせている。
「あれは確か『愛の母子像』といったかしら」
「さあ。そういえば前に俺の仕事のこと聞いていましたよね。俺、夜勤専門の警備員やっています。5年前から。雪子は知らなかったです。教えないうちにああなったから」
「そうだったの。昼に呼び出してごめんなさいね」
「昼から飲んでたのは寝るとこだったからで、今は雪子を心配させるほど飲んではいません」
「夜の仕事って大変ですね。お元気でね」
もう言葉はない。「自分がこうして生き続けているのが不思議」と会いしな健吾がいった意味が知りたかったが、聞くべきことではなかった。二人とも母子像をさんざん見て、どちらからともなしに頭を下げて二手に分かれた。
「花の母子像だわ」
少し歩いて真由はそう言って振り返った。母子像は木陰に隠れて見えない。健吾もどこへ向かったのかわからない。あの苦しみ様を見ていると、雪ちゃんを「弄んだ」といった自分の言葉が悔やまれる。頭の中は混沌としているが、気持ちは秋の陽射しのように静かだ。
いきなり一陣の風が吹いて、ニセアカシヤの夥しい数の黄色い葉が舞い散り、真由の足元でカラカラと遊ぶ。
2015年 10月
「そうか、俺との子供だったのだな」
部屋へ向かって大通公園の中を西へ向かって歩きながら、真由との話で分かったことを、いまさらのように自分に言い聞かせるが虚しいだけだった。
雪子と子供、二人とも葬ってしまった罪は重い。あの時、怖気付いて受け入れられなかった自分の醜さは、そのまま懐に収めてある。
夜勤に行く前に、再びロビー・ラカトシュを聴くようになっている。切ない調べを聴きながら、シラフの頭に浮かぶのは裸の雪子と俺だが睦み合わない。いつも見つめ合うだけだ。雪子の鎖骨の間にダイヤは輝いてはいない。健吾を見るまっすぐな眼差しがあるだけだ。怖気ず見つめ返す。それしかできない。
真由から雪子のスマホの番号を知らされ、初めて2人だけで会った藻岩山ロープウェイの山麓駅の近くにある古民家のカフェを思い出す。気取らない茶の間のような店内で、札幌市の街並みを背景に、ゆったり流れる時間を過ごした。大したことも話さず見つめあっていた。言葉はなくても一緒にいるだけで、その時の健吾の心は安神に満たされた。居心地が良いのはカフェの雰囲気というよりも、互いに積み重ねてきた小さな共感によるものだった。
「あけぼの」の配達を終了して一年は経った頃だ。健吾はすでに酒に侵され始めていた。
二人きりで何度か会ううちに、雪子は荒んでいく健吾を見かねたのだろう。心地よさだけでは何も変わらないと、夫との暮らしより健吾を選んだ。
俺は役割を果たさなくなった病葉。いつ幹から離されても仕方がない。離されて地に落ちるまで縋り付いているだけだ。せめてもの救いは、散り果ててから雪子に会えるかもしれないということ。雪子が俺を許してくれるならだが。