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長編小説 みずみち 7

古民家の花村家が広くなった。住むのは圭二郎と福子、二人。福子は今まで通り、和裁と家事を担当していた。違うのは、病に倒れる前のフミのように、圭二郎の身の回りの世話までするようになったことだ。福子自身にとってそれは当たり前のことだ。圭二郎は、困惑するほど何一つ不便を感じなかった。
 フミの月命日が来るたび、賢一の家族や圭二郎の兄嫁清子、フミの実家の者が出入りする。二人の様子にはまるで隔たりがなく、自然なようで不自然ともいえる関係。親子でも夫婦でもない二人を、彼らの中にはまっすぐ見ない者が出てくるようになった。時が経つにつれ二人で暮らしていることに不安心や違和感を持つようになった。

 昭和60年11月、一年忌の法事が花村家の菩提寺信円寺で営まれた。親族一同のほとんど集まったが、福子はいなかった。
 前日、清子に出席を控えるように諭されたのだ。賢一や秀二にとって大切なフミの法事が、圭二郎と福子の関係を取りざたされる場になるのを慮ってのことだったが、かえって逆効果だった。
 会席でその他の身内が、福子は来ないのか、何かあったのか、散々世話になったフミの法事になぜ来ない、来られないくらいの何があったというのだと、あからさまな詮索が始まり不在の意図が奪われた。
 圭二郎は、福子の欠席を当日まで知らされていなかったので、その騒ぎを、理解するのに時間がとられ、家に戻った時やっと何事かを知った。福子は家にいなかった。
 賢一家族と秀二が実家に泊まった。圭二郎にとって福子の不在は、自身が思っている以上に大きな欠落だった。賢一の妻と子供たちが寝静まって、親子三人が、居間のペチカの前に座った時、薪が立てる音が響くくらい静かだった。
「福子さんはどこへ行ったの?」
 秀二が圭二郎に問う。
「わからない。今までこんなことは一度もなかった。フミの法事に
行く支度も昨日までしていたのに」
 圭二郎は、本当に見当がつかなかった。
「清子伯母さんが、法事に出るなと言ったのが、気に障ったのかな。ムッとしてどこかでいじけているんじゃないか」
 賢一は、清子と考え方が近かったので、福子の不在を善意には取っていない。
「いじけるって、福子さんはそんな人ではないよ。法事に出るなと言われて、泣くことはあったとしても怒るとかむくれるとか、そんなことは出来ない人だ。兄さんは一緒に暮らしたことがないからそんな風に言う」
「親戚が喧しいから、伯母さんは気を回してくれたんだ。それが気に入らないならしようがないだろう。子供じゃないんだから心配することはないと思う」
 圭二郎は、法事の席での、親戚共の根拠のない話に辟易した。一年忌の準備を通して清子から何やかやと言ってくることの中に、二人で暮らしていることへの不満、不安があったが、余計な心配位にしか考えていなかった。しかし今は、一人でどこかへ行ってしまった福子に、もっと気を遣うべきだったと後悔していた。
「お父さんはどう思っているの?」
 賢一が尋ねるが、圭二郎は訊かれた言葉を頭の中で繰り返すが、返答を考えているわけではない。ペチカの扉を開けて新たな薪を入れながら、自分はどう思っているのか? 何を? 福子のこと? 胸騒ぎのようなざわざわした感覚が胃の周りに湧いていた。立ち上がってレンガの上の薬缶を持ち上げる。湯は減ってはいない、足さなくてもよいななどと思う。二人の息子は何も言わない。返事を待たれているのを感じる。
「何が、かな」
「お父さんと福子さんの関係がどうなっているのか聞いているんだよ。全部そこから始まっているんじゃないか」
 賢一の口調は癇だち、溜息と共に吐き出す言葉の剣が圭二郎の神経に障った。
「そこってどこだ。何も始まっていないし、今まで通りで何も変わらない。それをどう話せというんだ」
 福子はどこへ行ったのだろうと、圭二郎の気持ちは大方そちらに囚われて、賢一の癇癪に付き合う気力はなかった。納得していない顔でなおも言い募ろうとする賢一を遮って、秀二が言った。
「お父さん、今日はもう遅いから、明日どうするか考えよう。姉ちゃんは案外しっかりしているから、大丈夫だよ。今日はもうお仕舞にしよう」 
 秀二が立ち上がって賢一に促す。渋々立ち上がった賢一は、父親の顔を一瞥し、頭を振りながら弟に付いて2階へ上がっていった。
 圭二郎はフミが晩年を過ごした東向きの部屋へ入った。明かりをつけずに窓辺へ寄ると、篠突く雨が降っていた。2階の窓明かりで、ぼんやりと雨に打たれる草原が見えるが土手までは見渡せない。ちょうど1年前のこの部屋で、フミに言われたことが思い出された。
 この1年、周りが騒ぐほど完璧な二人暮らしだったわけだが、福子がいても居るという存在感が小さかったのは、圭二郎にとっては生前のフミの存在が大きく、喪失した間隙を埋めるのに苦悩していたからだ思う。福子自身は、フミ以上に大きな何かになりたいなどとは一瞬も考えていなかったに違いない。フミが亡くなってからの辺りの騒ぎ様は、圭二郎にとっては理解しがたい出来事だったのだ。
 今日の今までは。福子の不在がこんなにも不安を掻き立て、訳もなく淋しいと思うのが自分としても意外で新鮮だった。肘掛椅子に座り、2階の部屋の電気が消え、真っ暗になっても雨の闇に目を向け続けていた。

 福子が帰ってきたのは、法事の翌日の夕方だった。月曜日で、賢一たちは早朝、飯も食べずに家へ帰った。秀二はコーヒーを淹れて、圭二郎の分もパンを焼き二人で食べた。
「姉ちゃんはきっと帰ってくるよ。捜すと大げさになるから、もう少し様子を見た方がいいと思う。夕方電話するから」と言って札幌の銀行へ出勤していった。
 賢一家族が寝泊まりした部屋を、片付けようとのぞくと、布団は押し入れにしまわれて、使った枕カバーや、タオルがたたんであった。隣の秀二の部屋は、また帰ってくるかの如く、布団が二つ折りにされ、使ったバスタオルが勉強机の椅子に広げて干してあった。
 二つの部屋の窓を開け空気を入れ替える。ペチカのレンガでできた太い煙突が二部屋を挟むように据えてあり、室温は一定に保たれていた。窓を閉め、枕カバーやタオル類を集め、一階のランドリーに置いてある洗濯籠にいれた。洗濯は福子が帰ってからするだろう。自分がしてもよいが、してしまうと福子が気を悪くするか、などと朝の片づけをし、皿を洗いながら思い悩む。
 福子を捜すといっても、親しい誰かがいると聞いたことはない。裁縫の先生か、柿崎か、加藤か。思い当たるのはその辺だったが、連絡を入れると逆に心配されて大事になりそうな気がしてためらわれた。今日中に帰宅しなかったら、秀二から連絡が入ったときに相談しよう。とめどなく考えているだけで腹が減った。
 妻の一周忌を済ませた安堵と昨夜の寝不足で、昼飯にカップラーメンをすすった後、新聞を読んでいるつもりが、腹の上に新聞紙を広げたまま居間のカウチで眠ってしまった。
 夕方圭二郎はチャイムの音で目を覚まし,慌てて新聞紙を散らかし、よろめきながら玄関へ向かった。辺りはすでに薄闇で、玄関灯を点け鍵を開けた。目の前に福子が立っていた。
 紺色のトレンチコートの上の白い顔が、心成し微笑んでいた。ナッツ型の目が、圭二郎をじっと見つめている。
「ただいま帰りました」
 圭二郎は、どこへ行っていた、心配したんだぞ、なんで連絡をくれなかった、とつらみを並び立てたかったが、我慢して平静を装った。
「お帰り」
「夕食は食べましたか?」
「まだだ」
「よかった。美味しそうなタチを買ってきたので、タチポンを作ります。圭二郎さん好きでしたよね。それとキャベツが安かったから、ロールキャベツ」
 見るとふくらんだ買い物袋を提げている。福子は、圭二郎の脇を通って台所へ向かう。圭二郎は後ろをついていったが「できたらお持ちしますから」と言われて、居間へ戻った。
 清子や親戚がとやかく言ってこなければ、自分が福子をどう思っているのかを考えたりはしなかった。廻りのせいで意識に上った、と思うのは簡単だったが、そもそも自分の気持ちの中に、福子に対する何があるのか。そこまで考えて、ふと我に返った。
 圭二郎は福子が帰って来た瞬間、白い顔、すべすべの頬、濃茶の
目、濃い睫毛、見慣れたすべてを愛おしいと思っている自分が、既
にここにいるのを知った。素直な自分の実感だった。
 ダイニングのテーブルに、料理が並んだのは福子が帰ってきてから1時間半後だ。呼ばれて席に着くと、福子は黙って青磁の銚子の温燗と、揃いの大振りのぐい吞みを並べて置いた。フミが気に入って砂川時代に購入した物だ。フミと2人で酒を酌み交わすのに何度も使っていた。
「後、他に何かなければ私、納入期限が迫った仕事があるので、下がってもいいですか」
「夕食は食べないのかい」
「一段落してから頂きます」
 この1年、不在の時以外は2人で食事を摂ってきた。フミの生前はこの6人掛けの大きなテーブルでフミと圭二郎が窓に向かって並んで座り、福子は角を挟んで、フミの斜め前に座るのが定席だった。フミがいなくなってからもその席は変わらず、二人の間にはいつもフミの椅子が一つ挟まれていた。
 1人で飲み始めた圭二郎は、福子がいないことが返って不自然に感じられ、温燗は好みの温度だったが酒が進まない。タチポンは、ゆで過ぎていず、ポン酢の酸味もちょうどいい。フミの味にそっくりだ。
 仕事を仕上げるためだと言って、食卓に着かないなんてことは一度もなかった。清子に言われて、法事に出られなかったことが影響しているのだろうか。圭二郎は味気ない酒を切り上げて、飯にした。和風だしで煮込んだロールキャベツもまたフミの味に似ていた。御代わりをし、とろりとした醤油ソースをかけていると秀二から電話が入った。
「やっぱり帰ってきたんだ。よかった。兄貴には僕から連絡を入れておくよ。お父さん、今まで通りにしてればいいんだと思うよ。彼女の居場所は家しかないんだからね」
 まったく秀二の言うとおりだ。周りの意見に振り回され、すったもんだするのはもうまっぴらだった。

 翌日から、福子は食卓に着かなくなった。圭二郎が理由を訊ねると「仕事のリズムを乱したくないので、自分の好きな時に食べたいから」という。福子は当然のように応え、有無を言うスキがなかった。
 仕事が、と言われると、納得せざるを得ない。圭二郎も農繁期は、作業が一段落するまでは手を休めず、食事を遅れて摂ることが儘あった。信金に勤めている時も似たり寄ったりで、当別に来てからも、定時に食事をするのは、農閑期だけだった。
「あまり気にすることはないか」
 一人合点して、自分の気持ちに蓋をした。

 翌、昭和61年の正月は、家族全員が揃った。神棚に全員で参拝して年賀を祝った後、福子と大晦日から泊りがけで来ている賢一の妻の、手作りのお節料理が並んで会食の席に着いた。
 新年の挨拶を圭二郎が始めると、皆あらたまった顔で姿勢を正した。福子は席についていない。昨年の法事以降、家族とも圭二郎とも食事の席を同じくすることはなかった。
「明けましておめでとうございます。昨年一昨年とみんな色々大変だったと思うが、今年こうして新たな年を皆で迎えられて良かったです。今年は私から一つ提案があるので、聞いて欲しい」
 賢一が神経質そうな眉を上げて、台所の扉を見た。他のものは圭二郎かテーブルの馳走を眺めて聴いている。子供はそわそわしながらも座り続けていた。
「私は引退します。この地が好きでここ当別を終の棲家と考えた賢一に家督を譲ります。理由は、フミがいなくなったことが一番大きい。急に気力が萎えてしまいました。年齢というもあります。細かいことは今夜話そうと思っています。ひとまず乾杯しましよう」
 それぞれに驚きを隠しえない顔で圭二郎を見詰めたが、お神酒を廻し注ぎ乾杯をした。
「お父さん。僕は急に言われても、はいそうですかとはいかないよ」
 賢一は祝賀の席に無頓着なのかまず談判し始める。
「兄が亡くなって、俺が此処を継ぐと決まった時、賢一とは家督相続について話し合ったよな。俺に何かあれば次はお前が花村家の家や農園を継ぐことになると。その時、賢一は『了解した』と言ったはずだ。俺が急死して右往左往するよりは準備の時間はある。お前の心づもりができるまで待つよ。俺としては今年の収穫が終わるまでには引き継ぎたいがな」
 賢一は言って返せなかった。了解と言ったことは覚えているし、心の内で、自分が継ぐのが当然だと考えていた。大学卒業後、当別へ来たのも、賢一のライフワークである伊達家の北海道開拓の歴史への探求心と自分なりの先祖への拘りがあったからだ。圭二郎は、賢一の考えを理解していた。
 秀二が傍に寄って、父の盃にお神酒を注ぐ。自分の盃を出して父に酌をしてもらう。
「この家を兄さんが継ぐのなら、お父さんはどうするの? 同居して隠居生活を過ごすつもり?」
 当別町春日町のこの家は、普請番だった花村家の祖父が、明治44年に造ったのが最初だ。当時の家は木造平屋で、広いが隙間だらけの寒い家だった。昭和24年、圭二郎の父が50歳の時、大規模に改築して2階建ての頑丈で大きな家に建て替わった。修一郎と圭二郎兄弟は、古い家のことを覚えていた。祖父や父の家に対する愛着や拘りを見て育っている。部落の男衆が集まって普請した時の活気と騒がしさ、改装祝いの賑やかな宴の様子は記憶に深く根ついていた。
 修一郎が、昭和56年に築70年のこの家を再び大規模改修した。セントラルヒーティングにして、居間にペチカをつけたのもその時で、冬は薪が燃え煉瓦の煙突が家全体を心地よく暖めた。水廻りのほとんどをリニューアルしたが、心柱など父が改築した時の頑丈な柱や土台は生かせるだけ生かし、外観や雰囲気は当初の趣のままを残していた。修一郎は、家1軒立てるより高上りだったと圭二郎に話したことがあった。
 先祖代々護ってきた家のことを考えると、矢継ぎ早に決めたことが正しいのか、気持ちはかなり揺らぐ。
「俺は、札幌へ引っ越そうと思っている。福子も一緒だ」
「福子と一緒になるということか」
 賢一はやはりそこへ拘泥して口を出す。
「あの時、家で福子を引き取っていなかったら、どうなっていたのかいつも考えてしまう。少なくとも、こんな形で僕に家督を譲ることはなかった」
 圭二郎は事あるごとに福子を引き取ったことへ話を持っていく賢一を宥めるように言う。
「福子はまだ何も知らない。もし俺がここを出るとなると、置いてはいけないだろう。ここで二人暮らすのも、よそで暮らすのも同じことだ。周りの物がとやかく言う中にいたくないというのが本音だ。静かに暮らしたい」
「僕は、兄貴が家を継ぐのには賛成だ。お父さんがしたいようにすればいいと思う。気になるのは姉ちゃんが幸せかな、ってことだけだ。最近、前と違って他人行儀っていうか、気持ちが離れて行ってしまったようで気になっていた。僕たちが追い込んでしまったのかなって。ここにいて廻りからいろいろ思われるより、別なところで暮らした方が楽だと思う」
 秀二は圭二郎と似たように考える。福子と同じ釜の飯を食ったという経験から育まれた感情には、信頼と連帯感があった。
 圭二郎は話が一段落したところで自室へと移動した。福子が用意してくれた温燗を手に、昔々の建築中の我が家で、男たちが農作業の済んだ田圃を背景に、声を掛け合い材木を掲げ、鑿を穿つ姿を瞼に浮かべ杯を重ねた。四季の変わり目に鳴るこの家の音を、間近に肌で聴くのはあと少しの間だけだった。

 海北信金時代の同僚から、北大植物園近くの北三条に面した場所にマンションが建築されるという情報が入ってきたのは昭和60年の春のことだ。防火対策地帯としての公園を挟んで、南北に、民家や商店がパラパラと立ち並んでいたが、区画整理で、大型マンションの建築を勧めるという。その第一棟目が、夏に着工するというのだ。フミを亡くしたばかりで、その話に食指は湧かなかった圭二郎が、法事の折の福子の問題をかかえて気が塞ぎ、ふ、とここを出て都会の片隅にいるなら、福子も自分も居心地が良いのではないかと思ったのが家督を譲ると決めた始まりだ。
 詮索好きな、好奇な目線から逃れられる。圭二郎は福子が帰ってきたとき、全てが愛おしいと思った自分の心情に、まだ正面から向き合っていない。フミと二人三脚で関わってきた福子は、あまりにも身近すぎ、感情をあからさまにするのが憚れた。
 話を持ってきた同僚に問い合わせると、入居募集はまだ始まっていないので、優先的に確保できるか問い合あわせてくれるという。
結果を待つ間、圭二郎はフミに福子を頼まれたことの意味を考えて
いた。同僚から返事が来たのは、成人の日の翌日だった。
「発売初日に、不動産の何某という担当へ連絡すれば確実に購入できると思う」
 海北信金の伝手ではなく、同僚自身の大学の同窓という伝手だという。どちらにしてもマンションは土地付き不動産に比べると、札幌ではまだ人気物件ではないので、通常の申し込みでも購入はできるが、拘りの条件があるなら早めに連絡を取った方が良いという話だった。
 日を空けずに、紹介された不動産屋を訪問し、マンションの最上階、10階の3LDKを先行予約し、仮契約を結び、マンションの実際の契約を交わすことになっている年度明けの販売開始日を待っていた。自室で経済界の新聞を読んでいると、部屋のドアがノックされた。
「圭二郎さん。今いいですか。お話したいことがあってきたのですが」
 福子が扉の前に立っていた。圭二郎の部屋のドアをノックするのは初めてだった。いつも掃除のときに入っているので、ドアはあってないようなものだった。何かあらたまって言いたいことがあるのは表情を見ても明らかだった。
 圭二郎は机の前に別の椅子を運び、二人は机を挟んで向かい合った。
「話というのは、私が一人暮らしをするということです。清子さんから、圭二郎さんが賢一さんにここを譲って、札幌へ引っ越すと聞きました。私は縫物で身を立てられるので、私のことは心配しないで、と言いたいのです」
 圭二郎は、福子に余計なことを吹き込んで、と清子の出しゃばりに腹を立てた。黒いセーターを着ているので、体はか細く頼りなげで、顔はますます白く見える。
 フミがいなくなっていろんなことの歯車が狂って行く。修正は可能だろうかと、内心頭を抱えた。
「福子。君は僕と一緒に札幌へ行くんだよ。仕事は、今まで通り続けられる」
「私は独りでやっていけます」
「それは認める。いっしょに行けない理由が何かあるのか」
「そういうのはまずい、と清子さんが言いました」
 圭二郎は「フミ、なんとかしてくれ」と心から救いを求めた。
 福子は、書棚に目をやり、飾られているフミの写真を見詰めている。うら若いフミが一人で両手を頬に当てて、にっこり笑っていた。隣に、賢一と秀二とフミが3人で写っているものもあった。秀二はまだ幼稚園ぐらいで、フミの膝に乗っていた。
「私は、ふゆさんを亡くしました。そして今度はフミさんを亡くし
ました。もう大事なものを失くしたくありません。1人だと、何も
失わなくていいからです」
 福子の濃い茶色の瞳から一粒、涙が零れた。圭二郎はふゆさんとは誰か知らなかった。頬を伝い顎へ流れた涙の軌跡から目が離せない。
『フミ、ふゆさんの話は聞いたことがあったか。わからないことがまだたくさんある。助けてくれ。このままで俺は福子を幸せにできるか?』
「ふゆさんのことを話してくれ」
「ふゆさんは、砂川の病院で私にとても優しくしてくれたおばあちゃんです。私のことをとてもわかってくれた人です。でも死んでしまいました」
 ゆっくりともう一滴、透明の涙が軌跡を伝わった。
「フミさんは、私にとてもよくしてくれました。私の二つ目の宝物でした。でも死んでしまった。もう失うのは怖い」
 福子の涙はとめどなく流れはじめた。
 圭二郎は、机を回り椅子の背にあったタオルを福子に渡して、傍に跪いた。タオルで顔を覆う福子の背中を抱いた。泣き止むまで長い間背をさすった。しゃくりが止まって、圭二郎の肩に福子がもたれかかった。
「福子、顔を上げて。いいかい。よく聞いてくれ。俺は福子を幸せにしたい。札幌で、二人で暮らそう」
 圭二郎は自分の発言に驚いた。連れて行くつもりではあったが、これではまるでプロポーズではないか。
 何もないところからいきなり生まれたわけでもない。フミが亡くなってからずっと気持ちの奥底で、イラクサのように絡みついて逃れえなかった常識が引っ込んで、自分の気持ちが、自然と浮かび上がったのだ。
「無理です。フミさんが亡くなる前に私に言いました。圭二郎さんをよろしく頼みますって。一生懸命フミさんのようにお世話をしました。でも私はフミさんにはなれません」
 フミは福子にも亡くなってからのことを話していたのだ。
「フミになって欲しいわけではないよ。君は君だ。フミが亡くなってまだ間がないのに二人で暮らすのはおかしいと言う者もいる。フミがいた頃のように戻りたいが、もう不可能だ。俺は新しい生活を君と始めたい」
 福子はしばらくじっとしていた。タオルをつかんだまま立ち上がり、圭二郎から身を引いて、一言も言わずに部屋から出て行った。 
 圭二郎は空いた腕と胸が寒くて一瞬震えた。引っ込んだイラクサのとげは、世間体ばかりではなく、親子ほど違う自分の年齢でもあった。若く初々しい福子への、明らかになった思慕が圭二郎の胸に渦巻いていた。

 夏休みに、賢一家族が引っ越してきた。賢一の妻は2人目を身ごもっている。圭二郎は2階の自室を賢一に譲って1階の東向きの部屋へ自分の引っ越し荷物を運んだ。福子も仕事部屋にしていた和室を片付けて、寝室にしていた1階の4畳半へ全て持ち込んだ。
 北3条通りのサンライズマンション10階の、3LDKを購入した圭二郎は9月の引き渡しを待っている。内装の打ち合わせで、しばしばマンションを訪れていたが。福子が同居の了解をしてからは、2人で行くようになっていた。
 福子が同居することに納得したのは、賢一達が夏に越してくると確定した、4月のことだ。
 福子は「1人暮らしをするとは言ったが、いろんな手続きができるのか、いいや、やらなければ駄目なのだという切羽詰まった気持ちで毎日を過ごし、泣いたあの時の意志は固かったのに、具体的なことは、何もできていない」と圭二郎へ打ち明けた。圭二郎の荷物になるのが耐えられなかったのと、清子の「あなたが圭二郎さんと二人でいることは世間的にはマズイことよ」という言葉に脅かされてした決心なのだという。
 「君はもう誰も失いたくないから一人で暮らすと言ったが、私も同じだ。フミの次に君を失うのは嫌だ。今までと同じように札幌で一緒に暮らそう」
 圭二郎に説得されて、独り暮らしの「夢」は霧散した。一人で生活することへの不安が「夢」を消し、新たな生活への希望が生まれ育っていった。
 しかし、新しい生活が始まることに安穏としてはいられなかった。圭二郎は、福子がいつも何かを考えこんで塞いでいるのを気にしていた。以前にはなかった暗さが全身にまとわりついている。縫物をしている時だけは、素の福子に近かった。福子の変貌は、あの時フミの一周忌を欠席した日以来、積み重なってきている。

 2人が、北三条通り公園の12丁目のサンライズマンションに越したのは、9月6日大安の日だった。秀二と柿崎が手伝い、新居に荷物を運び入れた。2人分とはいえ、圭二郎の持ち物は多くはなかったし、福子の裁縫道具も嵩張るものはミシン、布物と裁縫道具、衣紋掛かや竹の定規くらいだ。まもなく荷解きも終わり、秀二は昼前に帰って行った。
 柿崎は砂川の市立病院を定年退職後、圭二郎より早く札幌へ越してきていた。単身の気楽さで、世界一周の旅をして帰ったと連絡があったのが、フミが亡くなった年の翌年だ。付き合いが再開したのは言うまでもないが、この日、柿崎が福子を見て驚いた顔をしたのは一瞬で、圭二郎の脇をつついて後は何も言わなかった。「落ち着いたら」といつもの飲むしぐさをして、柿崎も帰っていった。
 公園を見下ろす居間の窓辺に立ち、圭二郎と福子は下の公園を見渡した。紅葉しかかった若木が何本か立ち、公園の向かい側は広大な整地された土地だ。公園の右、13丁目には水飲み場と木製のベンチが見えた。左手は、石山通りと北大植物園が見通せる。
 昼時だが、買い整えたばかりの冷蔵庫には何も入っていない。2人で外へ出て、昼食をとる場所を探した。植物園の方へ歩くと、マンションの並びの角に、焼肉定食と書いた旗がはためく店を見つけた。二人で暖簾をくぐると、店の見かけのわりに混雑しているのに驚いた。生きのいい掛け声で迎えられ、隅に唯一空いた席へ案内された。
 福子は焼肉定食を頼み、圭二郎はタン定食とビールを二人分注文した。ビールが運ばれてくると互いに引っ越しの労をねぎらい乾杯した。
「お待ちどう様でした。タン定食はどちらさまですか?」
 女店員が問うと、福子が圭二郎へ両手を広げて指す。圭二郎の前に置かれた膳の中で鉄板がジュージュー音を立てている。
「奥様は焼肉定食ですね。どうぞごゆっくり」と言って福子の前に別な膳を置いた。
 30歳以上年が離れているので、これまで二人で行った先で、福子が奥様と呼ばれたためしはなかった。福子は真っ赤な顔をして定食を食べ始めた。圭二郎は気づいていたが、見ぬふりをして福子の若々しい仕草や食べっぷりをそれとなく眺めていた。当別にはなかった空気が2人の間に流れていた。

 その夜、福子が自室にした4畳半の和室で、パジャマに着替えると、引き戸の外から圭二郎が声をかけた。
「福子、はいっていいか」
 圭二郎は昼のままの格好で、布団のそばに慌てて座った福子の向かいに座った。
「君を幸せにしたいと言っただろ。君さえよければ結婚しよう。福子」
 圭二郎は、福子の返事を待たずに福子の両手を握る。昼から今までそぶりも見せなかった圭二郎の変わりように福子は戸惑い退く。
「驚いているね。でも、今日、正式にプロポーズしようと決めていた」
 圭二郎はポケットから、小さな水色の箱を出して開けた。指輪が入っていた。
「こんな年の男で嫌かもしれないが、君のことを大事に思っている。幸せにしたいと思っている。信じてくれるね」
 福子は左の薬指に圭二郎が嵌めた、黄色く輝く石の指輪を見ていた。
「君の誕生日は11月だからトパーズにした。気に入ってくれたか
な」
 何となく左の薬指にはめた指輪を、くるくると廻している。緩いからというより何か他のことに気を取られている仕草だった。
「私の話を聞いてもらわなければなりません」
 福子は唐突に指輪を外し、圭二郎の手に返した。
「私の全部を知って、それでもいいと言ってくれるなら、私は圭二郎さんのお嫁さんになります」
 福子の口調は緊張で固く、圭二郎を寄せ付けない。本当に変貌したのは圭二郎ではなく福子の方だった。かつて、フミが福子の哀しそうな様子が気に掛かると言ったのを思い出す。フミは内気の底の傷心と説明していた。

「話は聞くよ。言って御覧」
 傷心が何だったのか今明かされるよ、と心の中でフミに言う。福子が圭二郎の目をひたと見て、打ち明けたことは、すでに福子の記憶が戻っているということだった。パジャマの前を掻き合わせるように両の手でつまんで頭を深く下げた。
「私は、平松ふきと言います」
 圭二郎の思考の殆どが吹き消えた。
「いつ記憶が戻ったのだ?」
「滝川から当別へ越す少し前です」
 引っ越して初めての夜に、4畳半の福子の部屋で、向かい合って座っているこの女性は、フミが生きていたころから福子ではなかったということか。福子と思ってプロポーズしたこの不可思議はどうなっていくのか。心の内で、またしてもフミに救いを求めていた。
『フミ、5年前に福子は記憶を取り戻していたんだと』

「記憶が戻る前のことです。フミさんは何かの用事で家を空けて留守の時、加藤さんが訪ねてきました。フミさんはすぐ帰ると言っていたので、いつものように応接室へ案内しました。紅茶とお菓子を出して下がろうとしたら、今日は君に話があるというのです」
 加藤勝は、福子より8歳年上だ。現在も酒屋の仕事をしながら砂川の消防団で活躍していると、柿崎から聴いていた。
「結婚して欲しいと言われました。私はびっくりしました。自分にそんなことが起きるとは思っていなかったのです」
 まもなく帰宅したフミは、福子の赤い顔を見て熱でも出したのかと思ったが、加藤に結婚を申し込まれたと福子に聞いて驚いたという。砂川時代から、加藤は何かと花村家へやってきていたが、目当てが福子だったとは想像もしていなかった。福子が幼げで結婚適齢期と思えなかったのも理由の一つかもしれない。その時福子は28歳で斎野タミの元で縫子として働いていた。
「フミさんが、加藤さんへしばらく返事を待ってほしいと話してくれました。加藤さんは帰りました」
 その日のことは圭二郎も覚えていた。帰宅すると妙にフミと福子が浮かれてはしゃいでいたからだ。フミから加藤の求婚の話を聞いて、圭二郎の第一声は「ダメだな」だった。
 客観的に見て、老舗の酒屋の女房が福子に勤まる筈はない、とフミに向かってなぜか断言までした。
「その次の日曜日に、加藤さんは、私を映画に誘ってくれました。フミさんがいいと言ってくれたので出かけました」
 海北信金の中央店に戻ったのは昭和51年の10月だったから、9月ぐらいのことかと思って話を聞いている。
「曇り空で暖かい日でした。私たちは滝川の映画館で『カッコーの巣の上で』を見た後、歩いて帰宅しました。家のそばにある公園で、ブランコに乗って私たちは映画の話をしました。哀しくて理不尽な映画でした。加藤さんは私の手を握りました。2人でゆらゆら揺れていました。廻りには誰もいません。私は加藤さんが好きでした。手を握られたときは嬉しかった。黙っていたら、加藤さんが私の前へ立ち、私の両手を引いて立たせました。そして私の肩を抱き、口に……」
 その時を思い出したのか福子はぶるっと震えた。
「加藤さんの唇が触れた時、頭がパァンと鳴って、しゃがみこんでしまいました。頭の中が、パッパッパッツって光るというか、頭の中を場面が流れるのです。早くて一瞬で、音のようにパッって何回も鳴って。頭を抱えて、泣いていたのだと思います。加藤さんが困って、傍に座り込んで心配そうに見ていました。でも加藤さんの顔の上に次から次へと違うものが見える。今ならパニックっていうんだってわかっているのですけど。加藤さんは私を抱き起して家へ連れ帰ってくれました。玄関の前で、しゃんとしなくちゃって何度も深呼吸をして平静を装って家に入りました。加藤さんはフミさんに説明したいと言ったのですが、もう大丈夫といって断りました。フミさんへ挨拶した時、私を見て何か言いたそうだったけれど私は『とても悲しい映画だったの。おやすみなさい』と言って部屋へ入りました。目の前に映るものは間遠になっていました」
 福子の初めてのデートで何かあったみたいと、フミは違う意味で捉え、圭二郎へ報告していた。
「部屋へ入って、落ち着いて考えました。私は平松ふき。お父さんは私が13歳の時、血液の病気で亡くなった。お母さんは…お母さんは私が15歳の時、再婚しようとしていた。いっぺんに思い出しました」
「でも、俺達には言わなかった。記憶喪失のままで暮らしてきた」
 圭二郎は、何故だと問い詰めたかった。フミに知らせたらどんなにか喜んだか、と思ったところで福子は「まだ続きがあります」と座り直した。

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