長編小説 みずみち 4
フミは、初めて福子と会った日から夏にかけて、週一度会いに行くようになった。初回の面会で、意思疎通は不可能という婦長の説明とは裏腹に、もの言いたげな福子の眼差しが印象的で、圭二郎が望むように何とか福子の心を開いてみようと心を砕いた。
7月29日、6回目の面会の前日、フミは圭二郎から家庭裁判所から就籍許可が出て、公に砂川福子となったと聞かされた。当初、水から救われ命を取り留めて、仮の名を砂川ミズエにしようという声もあったが、早坂医師の一声で砂川福子になったいきさつは聞いていた。福子という呼び名は、聞いただけで心が温かくなる名前だと思った。
住所は砂川市立病院と同じ。福子の生年は病院で推定した昭和27年で、誕生日は発見された11月30日になっているという。
その翌日、フミはケーキを焼いて福子のところへ持って行った。いつもの面会室で待っていると、前回フミが差し入れた手作りの花柄のワンピースを着てやってきた。紺地に白いユリを染め抜いた上品な柄が、福子の色白な肌によく似合っていた。
入院患者は日中私服で過ごすことになっている。社会復帰を目指して生活にメリハリをつけるのが目的だ。着た切り雀だった福子も、フミの世話で女の子らしい服装を手にしていた。
「福子さん素敵よ。とてもよく似合うわ。思った通り」
「ありがとうございます」
突然のことだった。フミは目の前で何かが弾けたのかと驚いた。福子の頭を下げたり首を振ったりという意思表示は、だんだん理解しやすくなって来ていたが、発声は初めてのことだ。フミはびっくりして口を開けたまま福子を見ていた。福子が今度は照れくさそうに微笑んだ。笑うとえくぼが引っ込むのを初めて見た。
「嬉しいわ。あなたの声を聴けた。いつから話せるようになったの?」
小首をかしげて福子は考えている。右手でテーブルを指さした。
「今、ということ?」
フミは福子の深い頷きを見て全身に鳥肌が立った。
「何ということ。今の今なんて」
二人でしばしの間テーブル越しに見つめ合った。髪を梳りワンピースを着て、あらたまって座る姿は普通のお嬢さんだ。質問したいことが山ほどあったが、問い詰めて萎縮させてはいけないと自重しつつ、どうしても聞きたいもう一つのことを問いかけた。
「自分のことは思い出したの?」
微笑みが消えて眉間に苦悩の皴が寄った。それは、ここでの入院生活が長くなるにつれて少しずつ深くなっている。本当なら箸が転んでもおかしがる年頃だ。15歳で眉間に皴ができてきたのが不憫で、フミは面会の度に楽しいことばかり話すように気を付けていた。
福子が首を横に振った直後、不意に表情に笑顔が戻った。
「なあに。どうしたの?」
福子が指さした買い物かごを見て、フミはケーキと今日話すべきことを思い出した。バターの香りに気づいて微笑んだのだ。洋風の菓子が好物だと知ったのも、面会を重ねてのことだ。
戸籍のことを本人は知っているのか圭二郎が柿崎に聞いてくれていた。事務方では、いまだに会話が成立しないと病棟から聞かされているという。金銭のこともあり、肩身の狭い思いをしなくてよいと伝えるために柿崎が直に一度話したが、理解しているのかが良くわからないので、フミからも説明してやって欲しいと頼まれていた。
「福子さんの名前は戸籍上も砂川福子になって、記憶が戻るまでは、お国の保護も受けられるようになったの。わかる?」
福子は小さく頷いた。
「そのお祝いにケーキを焼いてきたのよ。この香りがわかったのね。一緒に食べましょうね。お紅茶も持ってきたのよ。食べながら詳しく話してあげる」
フミは買い物かごからケーキと魔法瓶を出した。持参のプラスチックのカップに紅茶のティーバックを入れ、湯を注いだ。ケーキを懐紙に乗せると、福子は目を輝かせてバタークリームの上できらきら光るアラザンと、波打った縞模様のクリームを眺めている。表情は複雑で嬉しさと哀しさが入り混じっていた。記憶のどこかに、クリームケーキがあるのだろうか。
「久しぶりに焼いたものだからスポンジが少し硬くなってしまったけど、味は大丈夫だと思うわ」
フミは紅茶を一口飲んでから、福子の戸籍は仮のもので、記憶が戻ったら元の戸籍に戻れることと、毎月の補助で入院費が払え、生活必需品が買えることを話した。
屈託のない表情の福子からは、話が分かっているのかどうかは見て取れない。ケーキを少しずつ美味しそうに口にしている。
「柿崎さんが手続きを全部してくれたのだけれど、柿崎さんってわかる?」
福子は頭を傾げた。柿崎は何回か福子と話したというが、自己紹介したのかわからないし、話は専門用語が多くてちんぷんかんだったのかもしれない。
「柿崎さんは、うちの人の友達で、福子さんを助けたきっかけを作った方なのよ」
圭二郎が福子の命の恩人だと、初回の面会時に田村から聞かされていたが、柿崎も関係していたとは知らないようだ。今度は大きく頭を傾げた。新しい記憶のほとんどが、フミの話と少女雑誌のものかもしれない。フミは噛んで含ませるようにゆっくり話しを続けた。
「うちの人が川であなたを見つけられたのは、柿崎さんが他の人からの通報を、消防団員のうちの人に伝えたからなの。消防団の見廻りの日で、通報を確認するために動いたからできたことなのよ。それに、柿崎さんはここの事務長さんで、福子さんは、いろんなことでとってもお世話になっているの」
福子は、ケーキを食べ終わり紅茶を飲んでいた。もっと詳しく教えてやりたかったが、一遍に説明しても混乱するかもしれないと、話を区切った。レモンが入った甘い紅茶とともに、初めての発語と戸籍のこと、お金のこと、フミの言葉とともに少しでも新しく記憶に残ればよいのだ。
8月は、当別町の花村家とフミの実家の墓参や、互いの実家訪問などで忙しく過ごした。賢一が夏休みで帰ってきており、体格が大きくなっているので着るものを直したり、購入したりと久しぶりに喜々と息子の世話をした。福子へは戸籍の話をした時に、8月はあまり来られないかもしれないと話してあった。
フミが福子の面会に行けたのは長男の賢一が、札幌の下宿先へ戻ってからだった。ひと月ぶりに福子に会うのが楽しみだ。見るたびに表情が豊かになっている。福子は内気だから、質問する時に短い返事だけで答えられる聞き方ではなく、言葉で説明しなければならないように聞いた方が良いだろう。
食事や着るもの、洗濯や入浴などでも、記憶に残っていることと、全く覚えていないいろんなことがあるのだろう。二人で焦らずゆっくりと一歩づつ確かめながら進もうと考え、病院へむかった。
9月の初めだというのに、温かな日が続いていた。天気予報では午後は真夏日になるという。盆を過ぎると初秋の風が吹くのが北海道の気候で、摂氏20度にならない日があり過ごしやすい。久し振りの暑さにフミは半袖のワンピースという出で立ちだ。
顔なじみになった受付も、愛想よく通してくれた。いつものように面談室で待っていると、古いズボンによれよれのシャツを着た福子が入ってきた。いつもと様子が違うのは、服装も乱れた髪もだがそれだけではない。眉間の皴が消え、顔つきがもさっとしている。
「福子さん、しばらく来られなくて……」
顔を見ていると言葉が続かない。福子はいつもと同じように、両手を膝にのせてフミを見ていた。眼差しは膜が張ったようで、意思が見えない。
「なにかあったの?」
声も出さず、首も振らない。
面談室へ田村が入ってきた。
「花村さん、お久しぶりです」
その口調には険があった。今までにないことで、面会の間隔が空きすぎたのを責めているのかと思い、かすかな罪悪感が生まれた。
「お話があるのです。ご家族というわけではないのでお電話はしませんでした。いらっしゃったらお話ししようと思っていました。面会前に話せたらと思っていたのですが、今日は会議があったので、タイミングが合いませんでした」
婦長は福子の横に座った。
「砂川さん、今回のことは花村さんにも聞いてもらわなくちゃね。お話ししますよ」
田村の話によると、同室者に、フミが差し入れた紺色のワンピースを盗られたという。
前回の面会で着た後、自分のベッドの横にハンガーに掛けて下げてあったらしい。朝になったら無くなっていた。当初は泣きべそをかくだけで、何が起こったかわからないため心配していた。翌朝、同室者が自分の荷物からワンピースを出して着ようとしているのを見つけて、取り返そうとして揉みあいになり、若くて体力が勝る福子が奪い返した。それはいいが、ワンピースが裂けてしまった。
「かなり怒ったのだろうと思います」
婦長はここでいったん話を止めて大きく息を吐いた。
「相手にケガさせてしまったの。強く押したみたいで、相手が倒れるとき、ベッドのヘッドボードに後頭部が当たって切れて、8針縫いました。傷は大きかったのですが、頭の中には影響がなかったのがさいわいでした。同じ部屋には置けなくなって、砂川さんに移ってもらいました。先に人のものに手を出した方が勿論悪いのです。ケガさせたことが尾を引いたのか、砂川さんの興奮が暫く治まりませんでした。今はしゃべれる人がいない静かな四人部屋です」
いつも淡々とした様子の福子が、相手に手を出したというのは、意外だった。田村の話にはまだ続きがあった。
「それで北川先生が、精神安定剤を飲ませることにしました」
精神安定剤。だからぼぅとしているんだ。身につまされて涙が浮かんできた。初めて面会に来た時、患者の女達の表情や動作、年齢や体格に関係なくみんな同じ様と感じたのが思い出された。一か月近く薬を飲んでいることになる。取り返しがつかない事態に半袖の腕に鳥肌が立って消えない。罪悪感が大きくなり面会に来なかった自分を責めた。親族ではない身勝手なただの面会者。
「いつまで薬を飲むのでしょうか」
「それは先生が決めるので私には何とも言えません。薬で興奮が治まりました。止めてまた興奮すれば本人も苦しいと思うので、すぐには止めないかもしれません」
フミは両手で福子の手を握ったが、福子の両手は反応することなく、握られた態のままになっている。話が済むと田村は部屋から出て行ったが、二人は振り向きもせず、手を握って握られていた。フミはいろんなことを静かに話しかけたが、福子は一言も言葉を発さない。
フミの頭の中は慌ただしい。
「福子さんをどうしよう。このまま、ここにこの状態で置いておくの? 時々面会に来て福子さんの手を握って帰るの? あの人や、柿崎さんや、加藤さんが救って生き延びた女の子をここでずーっと暮らさせるの? せっかく話せるようになったのに。内気で、何も覚えていなくて、ケーキが好きでえくぼが可愛いこの子をここに……」
フミは面会を終えて帰宅することにした。家に帰らなければこの膠着して動かない事態をどうにもできない。帰り際「ワンピースを直してくるから心配しないように」と言って聞かせると。福子がうっすら微笑んだように見えた。福子の肩を撫でた。何回も何回も優しく撫でた。
面会室を出る時、福子は振り向かなかった。扉を閉めて窓越しに見たが、椅子に座って背を丸くして机の上をながめており、前のように見送りをする気配は全くなかった。
圭二郎に話さなければ。会話できるようになった時、圭二郎と幸運を喜び合ったが、空喜びにならない手立てはあるのだろうか。
9月20日土曜日の夕方、花村家に賢一が帰ってきた。家族会議だと招集されたのである。フミが玄関で出迎えると、何かあったのかと心配しているのが表情でわかる。いらぬ心配をかけてしまったようだが、息子たちの承諾なしにはできない問題があった。
賢一はまっすぐ台所へ入って、食卓テーブルの前に腰かけた。
「おかえりなさい。急に呼び出されて驚いたでしょう。ごめんね」
「お母さん、どうしたの。誰か病気?」
膝の上にかばんを置いたままだ。
「それともお父さんとけんかしたとか。職場でなんかあったとか」
賢一は食卓に向かいあって座るフミに畳みかけるように続けたが、フミが無理に作った笑顔で薫のことや学校のことを聞くと、歯がゆいのか話を止めてしまった。直後に秀二が帰ってきて、息詰まる空気が軽くなった。フミは秀二から部活の洗濯物を受け取り、軽い調子でいう。
「今日は栗ご飯とポークシチューを作ったのよ。すぐ温めるからね。賢一、手を洗っていらっしゃい。秀二もよ」
再び食卓に着いた賢一と秀二は、フミの顔を伺いつつビートルズの話をしはじめた。賢一が下宿している薫の家の、従妹の麗子がビートルズのLPを全部持っていると話して聞かせている。全曲テープに取らせてもらって部屋で聴いているというと、秀二は僕もテープが欲しいと兄に頼み込んでいた。久しぶりの兄弟の会話は、話している方にも聞いているフミにも気持ちを落ち着かせる効用があった。
夕食を摂りながら、今度は薫のシチューの話になった。
「お母さんのシチューと違ってすごく濃いんだ。全然違う料理みたいな味だ」
「兄ちゃん、どっちが美味しい?」
「好みだな。僕は家のが好きだ。さっぱりしていて飽きないから」
「薫おばちゃんは、ルーを使っているのよ。いつも同じ味でしょう」
下宿させてくれている薫はどちらかというと流行物が好きだ。去年の暮れには、編み物に凝っていた。ジャンボ編みと言う太い編み針で太い毛糸を使う編み方で、網目が大きいのであっという間にセーターやマフラーが出来上がるのが面白いという。なんでもこれっ、と飛びつくと「とってもいいわよ」とフミにすすめてくる。大体はすぐに飽きてお蔵入りなるのだが食べ物はそうでもないようだ。
「そうそう、入っているものが違っても、味はあまり変わらない。ルーって何?」
「今流行なのよ。シチューの元みたいなもの。カレールーと同じよ。テレビで盛んに宣伝しているわ。手間がかからなくて便利みたいね」
「お母さん一回作ってよ。食べてみたい」
食べ盛りの男の子が二人揃うと、大鍋のシチューはあっという間になくなる。今夜も圭二郎が食べそびれてしまうからと、一人前を小鍋によけた。
春先の受験の頃、健一は遅くまで勉強して腹が空くのだろう、朝になるとあるはずの食物が消えていることが多々あった。おむすびや鍋焼きなど、フミが作った夜食を食べている上にである。頭を使うとエネルギーを消費するのだろう。
夕食が終わった頃、圭二郎が帰ってきた。
「賢一、お帰り。学校はどうだ」
フミと同じことを聞くので、フミと賢一が同時に笑い出した。
「お父さん、何か話があるんでしょう。聞かないと気持ちが落ち着かないからさっさと話してほしい。秀二はもう聞いているのか?」
「僕、何も聞いてないよ。兄ちゃんが帰ってくるから一緒に、としかいわれてない」
圭二郎は、賢一の口振りから話を待ち倦む様がわかり、着替えずにテーブルに着いた。フミがビールを持ってくると、一口飲んでからすぐに話し始めた。
「まず、ある女の子がいる。その子についての話だが、少し長くなるけど聞いて欲しい」
圭二郎は、去年の11月末に、石狩川と空知川の合流地で、女の子を救助したこと。砂川市立病院へ入院して手当てを受け、今は記憶喪失で、自分が誰かわからないままでいるため、精神科に入院していること。独りぼっちなので、フミが時々面会へ行って、できる範囲のことをしており、7月の末に会話はできるようになったが、まだ何も思い出さない、とかいつまんで話した。
「お母さんと相談した。入院したままでは、薬漬けで記憶を戻す助けにならないし、家庭で生活したほうが変化や刺激があって治るのが早いだろう。それで記憶が戻るまで家で預かろうと考えたのだ。もし万が一記憶が戻らなくても、仕事ができるように援助してやることができる」
「その人、いくつなの」
秀二が訊く。
「15、6だろうという話だ。お母さんには心を開いていて、初めて声を出したのはお母さんが夏に面会に行った日だった」
「じゃあ、いつまで居るかということが一切分からずに家に来るということ? どうして家で預かるのかがよくわからないな」
賢一は性格通り理詰めで聞いてくる。高い頬骨と、物おじしない眼差しの強さは母似だ。物事をきっちり突き詰めるのは圭二郎に似ているかもしれない。小さなころから潔癖症のようで扱いにくいところがあった。その点、秀二は、体格こそ圭二郎に似て上背があるが、おおらかなのは母似だろう。福子を引き取ることを家族で話し合うことにしたのは、賢一の性格を考えたからだ。とことん話し合って納得して決めなければ、後々に尾を引くだろう。
「養子とは違うの?」
「記憶が戻ったら、自宅へ帰ることになるから養子にはしない。今は新しい戸籍を得て、本人が戸主になっている。未成年だからお父さんが後見人という形で連れてくることになる。」
「そのお姉さん、名前はなんていうの」
秀二は、興味津々だ。
「秀二、ちょっと黙れ。名前の前にいろいろ確認したいことがあるだろう」
「何さ」
「いろいろだ。例えば生活費とか。本人の記憶も、仕事も、先々どうなるかわからないまま、明日から同居しますというわけにはいかないよ。女子ならなおのことだ」
賢一の言うことももっともだった。女の子が家に来るということは、男の子にとっては、気になること、重大なことなのだ。
「兄ちゃんと同い年か。兄ちゃんがいなくなった分、お姉さんができたら僕は嬉しい」
「お前は単純だな」
圭二郎は、二人の言うことに、丁寧に答えた。
「砂川福子という名だ。記憶がないから、何ができて何ができないのか、病院にいたままではなかなかわからない。治療は薬を飲んで集団で行動することの繰り返しだ。まだ子供なのに、本人に会った教育ができるのかも疑問だ。どうして預かるのかといったね。せっかく助かった命を、あそこで消耗していくのが見ていられないというのが一番かな。不憫で、ずっとお母さんに協力してもらっていた。でも同情というのとは少し違う。救助して以来ずっと気にしている。気に掛かる。幸せになるのを見届けたいということだ」
生活保護法で国から生活支援金が出ることも話した。額は多くはないが、福子の就業を助けるための習い事ぐらいはできるだろう。
「どこから来たかわからないって言ったよね。警察は捜査したの?」
「近隣の管轄署に捜索願が出ていないか調べたけれど、該当者はいなかった。病院では、北海道新聞に広告も出したらしいが、めぼしい反応はなかったそうだ」
「話せるようになって私が聞いた福子さんの言葉遣いで、北海道出身だろうと思ったのだけど、本人は何も覚えていないというの」
フミが付け足す。7月末に盗難事件があって、内服薬が開始になってからの福子の変化を話し出すと、思わず知らず、鼻声になるのを止めることは出来なかった。
涙ぐんだ母から目をそらし、賢一が話を止めた。
「どんな子か全く知らないのに、引き取るかどうかなんて話の順番が違うと思う。わざわざ呼ばれたのは僕たちのどっちかが反対したら、引き取らないということだ。そういうことだよね。」
「兄ちゃん反対なの」
秀二は賢一の言葉にすぐ反応した。
「他人を家に入れるというのも、女の子というのも、記憶喪失というのも気に入らない。でも2人が引き取りたいという気持ちはなんとなく分かった。暫く考えさせてほしい」
フミは、賢一の言い分がもっともなだけに、すぐには反論できなかった。圭二郎も同じ考えなのか俯いていたが「わかった。今日のところはここまでにしよう」と一言いって、ぬるくなったビールを飲み干した。
薬を飲み始めた福子のことを二人で話し合った時、夫婦の思いはすぐに一致した。「出来たら引き取ろうか」という言葉がどちらからともなく自然に出てきた。自分たちが情に流されず冷静に考えているかどうかを確認し合った。記憶喪失の女の子を家族の中に入れることに、潔癖な賢一がいい顔をしないだろうということも話し合っていた。しかし、この場で賢一を説得することはしなかった。
賢一の言うように順番が違っただろうか。引き取ることを急いだのは、福子の声が、記憶が、戻らなくなるのを懸念してのことだ。薬に心を奪われた表情が、フミの気持ちをせかしていた。
フミは圭二郎に「お食事にしましょう」と言ったところで、子供たちは部屋へ引き上げた。
翌日の夕方、フミと圭二郎は、砂川駅まで賢一を見送った。賢一は一人で行くと言ったが、腹ごなしと散歩がてら二人で送る、と三人で家を出た。秀二は、宿題が終わっていないからと家に残っている。
昼間、賢一は中学時代の仲間に会いに行って留守にしていたが、帰ってきたのは帰りの汽車の1時間前だ。圭二郎は出かけずに家で待っていたが、昨日の続きを話し合う機会が持てなかった。帰りの汽車に間に合うように家族で夕食を早めに摂って、小腹がすいた時のためにフミはおむすびを二つ、賢一に持たせた。
道すがら話は途絶えたまま、国道12号線を渡って、駅へ向かう小道に入った。辺りは明るく、空を見上げると東の雲間に満月が懸かっていた。駅の右側は繁華街で明るいが、こちら側は煉瓦の倉庫が並び外灯が疎らだ。月の明かりが際立って、風に流れる雲の輪郭まで明瞭だった。線路沿いの尾花が月の明かりに反射して、細い光の糸で空を掃いていた。
「中秋の名月だったんだわ。大きなお月様」
「そうか、満月か。ゆっくり空を見上げる暇もなかったということだ」
圭二郎がたたずんで、月を愛でる。
「賢一、これから寒くなっていくから体に気をつけてね。何かあったらすぐ行くけど」
賢一は月を見上げてから、母を見下ろした。いつの間にか首一つ以上フミより大きくなっている。
「僕は大丈夫だよ。お母さんこそ月見を忘れるなんて、らしくないじゃないか」
フミは、一年の季節の行事を幾つか習慣にして祝ってきたが、月見もそうだった。秋のこの日は荒地からススキや萩を摘んできて、茹で栗や枝豆と窓辺に飾った。月見団子も子供たちと手造りしてきた。
今年は全く忘れていた。福子をどうするかに心を奪われて、『らしくない』ことになってしまった。
「反省しています」
おどけていうと、賢一は「許す」と言って笑った。
改札口を通って振り返り、手をあげる賢一のいつもの仕草を見て、フミは安心した。帰り道「きっとわかってくれそうな気がする」と圭二郎に言うと、「時間が必要だよ」と応じる。
三人に戻った花村家は、何となく静かだ。秀二は自室で勉強している。圭二郎とフミは食卓で向かい合って座っていた。
「月見酒と行くか」
「そうね、うまくいくようにお月様にお願いしなくちゃ」
台所に立って、圭二郎には熱燗、自分にはビールを用意した。夕食後なので、つまみは葉唐辛子の佃煮と、焼き竹輪に青海苔とマヨネーズを和えてのせたものにした。佃煮は、お隣の家庭菜園から頂いた唐辛子の木3本分の葉や実を、フミが辛目に炒めたものだ。
先日、菜園の始末をしていた隣人に、山に積んだ生り物の木を示して捨てるのかと聞くと今年はもう終わりにしたというので、南蛮と紫蘇を3本ずつもらい受けた。紫蘇は、葉と若い穂は佃煮、種になった穂は湯がいて醤油漬けにした。フミの母直伝の、保存食だった。
圭二郎は、甘いとつまみにならないというし、フミもいける口なので佃煮類は、味醂を少し入れるだけで砂糖は使わない。秋の保存食作りは、保存のために瓶の消毒や脱気をすることが必要だ。どの作業も時間がかかる。そのお陰で、膠着状態の福子と薬のことからしばし離れることができ、フミ自身いくらか気が紛れた。
昨日の話し合いで一歩進むかと思っていたが、宙ぶらりんのままで、またしばらく時間を過ごさねばならないのが厳しい。福子がどんどん遠くへ行ってしまうような気がして淋しいのもある。何より、明るい兆しに想えた福子の最初の一声が、微塵に消えてしまう。
居間の出窓に肴の盆を置いて月を探したが、雲の隙間から薄明かりが漏れているだけだ。気持ち手を合わせ、福子が薬から解き離され言葉が戻りますように、賢一が二人の考えを理解してくれますようにと祈った。圭二郎が傍に来て、二人は出窓の前で飲むことにした。食卓椅子を二客運び、窓に向かって座った。葉唐辛子の佃煮は、今夜が初だったが圭二郎は何も言わずに食べている。月を待ちながら、思い思いの考えに沈んで珍しく静かな宵を過ごした。
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