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続く小説 ぬかるみ

 老舗デパート松嶋屋の一階南側、中通りに面してそのカフェテラスはあった。
 晴れあがった土曜の午後、札幌駅前のメインの通りは人が多いが、テラスには数組のカップルしかいない。
 約束の時間が迫り、急ぎ足で来た竹村健一は、それらしい女性を探しながらポケットから出したタオルハンカチで額を拭いた。西側の保険会社のビルが西日を遮り、汗がひくのがわかるほど空気はひんやりとしていた。例年にない暑さといっても、6月の日陰は涼しい。新しいシャツの脇が濡れていないかちらっと確認した。

 先週末、久しぶりに会って飲んだ大学時代の友人小林涼太が、いつになく真面目な顔つきで紹介したい女性がいるが会ってみないかと言う。
 竹村は勤め先の開発部の仕事がこの春で一段落し、あらたなプロジェクトに取り掛かる前の今、時間のゆとりができてやっと自分のしたいことに手をつけた矢先だったので、女と付き合うのは億劫だった。
「すごい美人だ。一回会ってみろ。絶対後悔しない」と盛んに言う。小林に借りはないが、それほどの美人なら、目の保養になるだろうと軽い気持ちで会うことにした。
 小林は5年前に結婚して、今は二人の子持ちだ。35にもなって、浮いた話の一つもない竹村に、今までもいろいろ言ってきてはいたが、今回はずいぶん熱心だった。
 ビジンさん、ビジンさんと心の中で唱えながら、辺りを見回し、デパートの一階のカフェ店内にも入ってみたが一人で来ている女性は見当たらなかった。
 外のテラスでコーヒーでも飲もうと振り返った時、化粧室から出てきた白っぽい服の女が、リュックにぶつかってきた。竹村は出入り口に並んでいたゴールドクレストの鉢に躓いて転びそうになった。幸い運動神経がよかったから右手と膝をついただけで済んだ。
 立ち上がって、ぶつかってきた女を探したが見当たらない。「普通謝るだろ」と右手首をさすり膝のほこりを払うが、狭い店内でリュックをおろさなかった自分にも非があると苦笑する。
 テラスの真ん中に席を取った。目立つ方が相手は探しやすいと思ったからだ。アイスコーヒーを頼み、辺りを見回すが、出入りするのは親子連れや友人同士がほとんどで、お一人様は自分だけだ。
 コーヒーを飲み、氷が解けた水も飲み終え、もう来ないなと帰ろうとした時、白いワンピースの女が目の前に立った。
「竹村さんかしら」
 竹村が返事をする間もなく「私、白戸美也。あそこで待ってたけど、探してくれないんだから。待たされるのは大っ嫌い」
 美也は顎で竹村の後ろ側を示した。デパートの壁側には仕切りのようにゴールドクレストが並んでいるので店内は見わたせない。デパートの内部からの出入り口もあるのだろう。さっきはいなかったのだ。
 見上げると確かに美人だった。何やら不機嫌だ。顔を見たわけではなかったが、ひょっとしてぶつかった先刻の白い服の女ではないかと内心思う。
 亜麻色に染めたセミロングの髪が細面の顔をふんわりとつつんで、優しげな印象だ。胸から肩にかけてレースで透けている白いワンピースがよく似合う。髪と同じような色の大きな目が竹村をじっと見つめる。
「さっき僕にぶつかった人かな」
「あら、そうだったかしら。女をいつまでも待たして、どういう神経をしてるのかと思って顔を見に来たの。背は高そうね。でも気に入らないところもあるから、もう帰ることにしたわ」
 ぶつかったことを謝るのが先だろう。外にいるのを知っていて中で待つってどういうことだ、と一言言おうとしたとき、美也が自分のレシートを竹村の物に重ねて置くのを見て気が殺がれた。
 竹村は、パンをぬかるみに沈めて足を濡らさないようにその上を歩く少女の人形劇を、突然思い出した。この傲慢さはあの"パンを踏んだ娘"だ。帰ると言いつつ、ハンドバックを両手で抱えた美也はそこから動かないで、竹村を睨んでいる。
「第一、初めての女性に合うのにその恰好は失礼じゃない。シャツにジーンズ。よれよれのリュックと汚いシューズ。そんな格好の人、友達には一人もいない。信じられない」
 小林は美也が美人だとは言ったが、性格には触れていなかった。唇は小さめでピンクのルージュが濡れているように光っている。両の耳は小振りで形が良い。怒っているからか早口で、声は少し甲高い。
「お給料は沢山もらっているって聞いていたけど、どうして身の回りに気を使わないの。それともわたしをばかにしているの」
 竹村は隣の席に座っている客が、二人の様子を見ているのに気付いた。恥ずかしくて顔が赤くなったが、美也は気にもせずに眉間に皴をよせて鼻を鳴らした。
「ともかく、早くどこかへ連れて行ってよ」
 そういうなり、当然後ろから竹村が追いかけてくると思っているのか、メイン通りの方へゆっくりと歩き始めた。竹村は周りの客という客が自分たちを見ている気がして、とりあえずここからでなければとレシートを2枚持ってレジへ向かった。
 知人の娘だと言っていたが、小林は見た目しか知らないのだろうか。こういう口の利き方をする女だと知っていて冗談で会わせたのか。美人であれば何でもよいと思っているのか。
 金を払いながらどうやって逃げようかと考えている自分がいる。中通りに、帰ると言ったり、どこかへ連れてけといったりする白い服の女がちらりと見える。
 小林に断るのは簡単だが、ああいう性格の美也に対して曖昧なままだと、禍根を残しそうだ。
 ぬかるみを歩く娘を歌うフレーズ ♪パンを踏んだむすめ・・・を無意識に口ずさみながらテラスから出て、白い服への方へ向かった。


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