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長編小説 定食屋「欽」譚 (7)

 約束の場所に美代子はいなかった。先に林道から戻ったのは恭太だった。倒木の陰にでもいるのかと声をかけ見回したが見当たらなかった。遅れて、パンパンになったリュックを背負った欽一が戻った。
「欽ちゃん。美代子がいない」
 欽一は舌打ちをして、荷を下ろした。
「そこらへ小便に行ったのかもしれん。少し待とう」
 欽一は水筒の水を飲んだ。恭太は気が気でなく美代子の名を呼ぶ。5分経っても10分経っても美代子は姿を現さない。
「恭太、俺はしばらくここにいて美代子を探してみる。先に山を下りてくれ。もしかしたら、もう家に帰っているかもしれない。もし美代子が家にいなかったら、すぐ山へ来てくれって親父に伝えてほしい。美代子が戻っていたら、俺は夕方までここにいて、日が暮れる前に家へ戻るから心配しないでと言って・・・」
 途中で言葉を切り、美代子が座っていた倒木のそばで、森を一巡り眺めた。色も葉の厚さもまだ薄い若葉が、陽を通してあたりは涼やかに明るかった。時々、梢の上の方だけに風が通り、揺れる薄葉から日がこぼれ落ちる。
「最悪、美代子が家に戻ってなかったら、なんとしても探さなければならないということだ」と欽一が独り言を言うのが聞こえた。
「大丈夫だ。美代子は帰ったんだ」
 自分に言い聞かせるように呟いていたのも聞こえ、カサコソと音のする方を恭太が振り返ると欽一はすでに、自分たちが今しがた出てきたタケノコ山のほうへ戻り始めていた。
 恭太はタケノコが欽一の半分位しかないリュックを背負ったまま「じゃあな」といって欽一の声先へ手を振り、帰路につこうとしたときには、欽一の姿はもう見えなくなっていた。

 気がはやり、急ぎ足の恭太が、息を切らして三部の小屋にたどり着いた時、泣き声が聞こえた。沢の方から聞こえてくる。リュックを放り出し、小枝をつかんで滑りながら下りて行った。美代子が蹲っているのを見て胸をなでおろした。アノラックの背が土で汚れていた。 
「滑り落ちたのか。大丈夫かい」
 声をかけると、美代子は「恭太兄ちゃん、すべって転んだ」と喚きながら恭太の足に縋り付いた。近くに膝をつき、泣き止むまで頭を撫でていた。ようやくすすり泣きになったところでポケットからハンカチを出し美代子の顔を丁寧に拭ってやった。立たせて、一回りさせて、怪我のないのを確認した。手を繋いで坂を上がろうとすると「水を飲みたい」という。美代子は、よほど喉が渇いていたのか、湧水を両手で受けて何口も飲んだ。
 美代子の腕を引っ張って坂を登りきりホッとしたところで、美代子がポケットの飴を口に入れるのを見て、自分の腹が減っているのを知った。
「恭太兄ちゃんは、飴持ってるの? あげようか」
「あるからいいよ」 
「兄ちゃん、まだ降りてこないの? 美代子が帰ったからおこってる?」
ほっぺたがふくらんだまましゃべっているので、あやふやな部分もあったが、恭太はただ嬉しくほほえましく美代子を見ていた。恭太も飴をなめる。美代子が見つかった安心感か、山道を下りながら鼻歌が自然に出て来る。
 野原の家に着くと、巌が家の前で煙草を喫っていた。
「美代子、何処へ行っていたんだ。お母さんが心配していたぞ」 
 美代子はアノラックが暑苦しく、脱ぎながら父に自慢げに胸を張って伝えた。
「兄ちゃんとタケノコ採りに行ったんだよ」
「小父さん。欽ちゃんは、美代子が先に山を下りたのを知らないんです。家にいたらいい。いなかったらおじさんに山へ来てって言ってて、美代子がいたらいい」
 恭太は山での顛末を巌に伝えた。美代子が山で勝手にいなくなったと伝えるところで、頬をふくらまして恭太に抗議するが、恭太の視野には入っていない。背の荷が重く足がだるい、一刻も早く家へ帰りたかった。
「少し探してから下りて来るって言っていました」
 巌は、煙草を落とし踵で踏み消した。
「欽一なら心配ない。美代子、お母さんが昼ごはん作って待ってるぞ。恭太君も昼はまだだろ。食べていけ」
「家で母が待っているから、帰ります」
 頭を下げ、まだ膨れっ面の美代子に手を振った。少し下った電信柱のところで、国道へ向かう道路と、南西へ折れて恭太の家へ向かう小道が分かれ道になっている。振り返ったが美代子はもういなかった。
 美代子の心配をしたこともあり、1㎞ばかりの小道を歩き、家の敷居を跨ぐと疲れがどっと出た。リュックごと母の多喜子に渡し、昼飯を食べ終えると、自分の部屋で横になった。

 恭太が、欽一が山で行方不明になったのを知ったのは、翌日の早朝だった。起きて手洗いから出てきたとき、父の清が廊下の電話で話していた。職場の上司なのか、電話口で頭を下げながら話している。村総出で山へ捜索に入るので仕事を休むと言っている。
「おとうさんは誰の捜索をするの?」
 卓袱台に飯茶碗と箸を並べている多喜子に問うと、母親はいったん手を止めて、手の中のものを確認するかのようにじっと見つめた。手の中の箸がいきなり痛いものに変わったかのようにばたりと食卓に置いた。
「お母さん、どうしたの」
「恭太、驚かないでね。欽一君が山から下りてこなかったの」
 母親がとめるのも構わず、家を飛び出した。ズックのかかとを踏んだままで、突っ掛りそうになって一度止まった。人差し指でズックに踵を入れ、再び走ると後ろから清の声も聞こえたが、胸の中は「欽ちゃん、欽ちゃん」と呼ぶ声で満ちて止まれなかった。
 少し登り加減の道を駆け抜けて欽一の家に着いた。村の男たちが、手に手に鳶口やロープの束、草刈り鎌を持っている。中には猟銃を背負っている者も何人かいた。
 玄関に大人がたむろしていて、家には入れなかった。裏口へ廻り薄暗い薪置き場から家の中を覗くと、和の泣き声が聞こえた。
「泣くな。欽一は大丈夫だ。森の申し子だから」
 巌の声がひときわ大きい。
 外からは、駐在の阿部さんが村人に指示する声が聞こえた。
「夜明けと同時に、野原の本家の隆一さんが指揮して、第一陣15人水源地から東へ入っています。1時間前に第二陣、消防団長の笠井勝男さんが指揮して水源地から、欽一が入った開拓村の斜面までの北側へ入りました。第三陣、今集まっている人はまとまったら、巌さんと水源から南を村道まで。俺と役所の3人は車で村道を開拓村まで行って、向こうの何人かと合流して、沢伝いに水源地まで降りる。猟銃所持者は各陣に1人以上入っているので、子どもが見つかったら、合図は猟銃2発鳴らすこと。もし見つからなかったら、一旦、11時に水源地、三部さんの小屋前に全員集合します。遅れてきた人もそこに集まるよう伝達してください。休憩後、再度体制変えて陣を組みます。以上」
 巌は表へ出て、男たちがざわざわと家の前に輪になるのを黙って見ていた。誰も恭太に気を向けない。
「おじさん」 
 巌が振り向くと、恭太は身が縮みあがるような気がした。真っ青な顔に眉間の皴をくっきり刻み、一晩で百も年取ったように見えたからだ。
「恭太君か」
 巌の声は掠れ、やっと聞き取れる。恭太の顔を見て、何か気になることを思い出すようなそぶりを見せたが、言葉にはならなかった。
「昨日、欽一はいつものタケノコ山へ行ったんだよな」
「はい」
「いつもと変わらなかったんだよな。美代子のこと以外は」
「はい」
「俺はこの組でまた山へ入るから、恭太は家へ帰れ」
 恭太は辺りを見回したが、美代子の姿はなかった。居間で卓袱台の前に坐って泣き続ける和と、巌の母親のチヨエがいるだけだった。
表へ出て、電信柱の近くまで戻り、父親を待った。
「欽ちゃんがあの山でいなくなるなんて」
 欽一が行方不明になったのが信じられなかった。
「大丈夫だろうか? だいじょうぶさ、欽ちゃんだもの」
 国道へ降りる道路の東側は畑だった。青菜が芽を出していた。何列も、規則正しく、遙か遠くの畑の外れまできれいな緑の線が並び、風に揺れていた。高曇りの暖かな日だった。
 清と多喜子が小道からやってきた。多喜子は紫色の大きな風呂敷き包みを背負っている。清は消防団の上着をつけヘルメットをかぶり、鳶口を持っていた。
「恭太、朝ごはんを作ってあるから、家へ帰りなさい」
 多喜子は、屈み込んで恭太の頭を撫でた。両目が潤んでいる。
「お母さんも探しに行くの?」
「私は炊き出しにきたのよ。今日は学校が休みになったわ。私たちのどちらかが帰るまで家にいてね」
 国道からも、何人かの男や女が歩いてくる。巌が山に入る身拵えをして家から出てきた。朝の挨拶を交わしながら、それぞれが神妙な顔つきをしている。欽一の頭抜けた賢さを知っているものは、欽一が帰ってこないことを深刻に受け止めていた。余所者が山菜取りやキノコ採りに来て、置きっぱなしになった自転車やオート三輪が発見され、捜索隊を出す騒ぎになったことはあった。大体は無事に発見されたが、中には手遅れで亡くなったものもいた。
 恭太は村の大人たちにも強く言われ、しぶしぶ家路を戻った。欽一のことが心配で、小道の途中で立ち止まった。林の隙間から自分たちが通う校舎が見えた。学校の裏の池が雲の白さを反射し、校舎の向こうの幌倉川沿いの若緑が目に染みる。いつもの風景だった。美代子に会いたかった。泣いているだろうと思うとそばにいてやりたかった。

 美代子が目覚めると、外が騒がしく、女たちのやかましい声が聞こえる。何の日だっただろう。考えたが、思いつかない。目覚まし時計は9時を指していた。あわてて寝床から抜け出して寝間の窓から庭を見ると、石で組んだだけの地炉やブリキの一斗缶の上に鍋釜が載っていて、湯気を吹いているのが眼に入った。周りの女たちは忙しそうに水を汲んだり、敷物を敷いたりしていた。玄関横のなだらかな斜面にはござに座って飯をおひつに移している者もいた
 急いで寝巻を普段着に着替え居間に入ると、一続きになった台所の煉瓦の二口竈の前に多喜子がいて、ご飯が炊ける匂いがしている。和と小さな声でやり取りしていたが、美代子に気付くと話をやめた。
「美代子。起きたのかい」
 和の顔はいつもよりパンパンに脹っていた。目はもともと小さい方だったが、糸のように細くなっている。
「寝坊したから、学校、遅刻しちゃった。どうして起こしてくれなかったの。お母さん。それに今日何かあるの?」
 何かある。美代子はそう感じた。自分に似た和の目が真っ赤なのが見えたし、多喜子が横を向いて前掛けで顔を拭った。
「欽一が帰ってこない」
 和の細い目から涙があふれた。
「昨夜から、欽一が帰ってこない。タケノコ採りに行ったまま戻ってこない。薄暗くなっても戻らないからお父さんが迎えに行ったら、リュックはあったけど欽一はいなかった。夜中探し廻ったけど、見つからなかったんだって……」
『だって』という言葉は呻き声に聞こえた。
 美代子は昨夕、体のあちこちが痛かったし、起きていられなかった。夕食を食べながら転寝をして、和に寝床に運ばれたのは覚えていた。
『その時兄ちゃんはまだ帰っていなかった。兄ちゃんは山で何をしているのだろう。どうして降りてこないのだろう。お母さんが泣いているから、早く帰ってきてよ』
「学校は、行かなくていいの?」
 美代子が和に問うと、多喜子が返事をした。
「今日はお休みになったの。美代ちゃん、朝ごはんはおむすびよ。持ってきてあげるから、待っていてね」
 そういって外へ出た。
『おむすびが外にあるの? 外のおばさんたちはおむすびを作っているんだ』
 美代子は欽一がいないことと、この騒ぎをまだ結び付けられなかった。
「お母さん、どうして外でおむすびを作っているの。どうしてみんなが来ているの。美代子も手伝いたい。おむすび作りたい」
「あんたは黙っていなさい」
 和は前掛けをもみながら、宙を睨むようにして大きく息を吸い込んで、言葉と共に吐き出した。
「あんたのせいで」
「野原さん」
 和が言おうとしたことを多喜子が大きな声で止めた。手におにぎりが2個載った経木を持っていた。和は後ろを向いて竈の前に潮垂れて肩を落とした。
『私のせいで、兄ちゃんが、帰ってきていない。だからこんなに人が集まっているんだ』
 美代子は和の後ろに座って、お握りを一口食べたが、ぶるぶる背を震わせたまま一度も振り返らない和の後ろ姿が、だんだん大きくなっていく気がして、喉を通らなくなった。経木の上に食べかけのおむすびを置いて外へ出ようとすると、多喜子が経木を持って追いかけてきた。 
「もう少し食べないと。今温かい白湯を持ってきてあげる。出窓のところでゆっくり食べて」と経木を渡された。
 言われた通りに出窓の前へ行くと、格子窓の波打つ板ガラス越しに、近所の女たちが思い思いの場所に座ってお結びを食べているのが見えた。ここからは、和がいる竈は引っ込んでいるので姿が見えない。多喜子が外から湯飲み茶わんを持って戻ってきて美代子のそばにしゃがんだ。
「お母さんがいいと言ってくれたら、後で家へ行って恭太と遊びましょう」

 村総出で捜索して2日目の雨の朝、猟銃が2回鳴った。運動会の時、教員が使う雷管ピストルと同じような短い音に聞こえた。和が長靴を履いて合羽を手に家を飛び出した。美代子もついていこうとしたが、玄関先の軒下で祖母のチヨエにつかまった。
「兄ちゃんが見つかったんでしょ」
「待っていよう、美代子。みんなじきに家へ戻るから」
 肩に置かれた手にだんだん力が入って、「おばあちゃん痛いよ」と見上げると、皴に包まれた双眸から涙が流れ、顎から滴り美代子の肩を濡らしていた。声は聞こえなかったが、唇が震えていた。
 一時間位すると阿部が山から下りてきた。後ろから村の人々が連れ立って降りてきて、ぱらぱらと帰路に着く。阿部は家に入ると、警察本部に電話を入れ、ケンシがどうとか話すのが聞こえてきた。後、チヨエに耳打ちして再び山へ入った。 
 美代子が『お父さんもお母さんも下りてこないからちょっと見に行こう』と動いた時、恭太が、国道の方から走ってくるのが見えた。
「鉄砲の音が聞こえた。美代子、欽ちゃん見つかったのか」
 激しくあえぎ、両手を膝について屈んでいるせいで声がくぐもっていた雨に濡れた背から湯気が立っている。
「知らない。みんな下りてきて家へ帰っているけど、誰も教えてくれない。お母さんは山に行った。駐在さんが、ケンシとか言っていたけど」
「ケンシ」
 恭太がつぶやいた後、美代子をまじまじと見つめ、急に視線を逸らし、森の方角へ体ごと向いてしまった。靄がかかり、小糠雨が降り濡っていた。
 玄関横の石炭小屋の軒下で、美代子と恭一は並んで待った。雨の中で一昨日巌と和が植えた畑の、キャベツの青緑が生き生きと立っていた。 
 国道から家に向かって車が2台登ってきた。家の真ん前に止まると、黒い合羽で黒い鞄を持った中年の男と、同じような合羽を着た口髭を付けた男の人と、制服の警官が2人、黒い乗用車から降り立った。もう1台の赤いトラックからは、消防の制服姿の男が2人降り荷台から担架を下ろした。チヨエが家から出て来て、髭の男の人に何か言っていた。間もなく男たちは、東の針葉樹林の方へ連なって行った。


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